恭順の家(1)

 岬は立ち止まり、自分の背丈の倍はあるだろうかという瓦葺の木製の門を仰ぎ見た。
   
 入院していた病院に迎えに来た車が高級車だったことも驚いたが、久遠の敷地内に車三台が余裕で入るほどのガレージがあり、門をはさんで反対側には客人用の駐車スペースもあるということにも驚いた。聞くところによると、中にもさらに親しい者用の駐車スペースと、車二台分のガレージがもうひとつあるというから、一般人の感覚とは相当かけ離れている。
   
 この久遠本家には東西南北に四つ、そして中に一つ門がある。今、岬が立っているのは南の『正門』であり、車三台収納可能なガレージがすぐ横にある、克也の継承式の時にも通った門だ。
 以前、ここをくぐった時はとても不安だった。
 今だって――、不安じゃないと言えば、嘘になる。
 泉の一件以来、水皇と克也が宝刀の力の主に対して手を出さないように、一族の全ての人間に対してきつく言い渡したというが、それでも不安は残る。ここに住んでいるのは水皇とその側近一人と克也、そして岩永基樹という克也の親代わり的な側近の存在の四人だが、それに加えてお手伝いさんや警備の者が通いで常に五、六人いるという。さらに、昼間は厨房に勤める調理スタッフも出入りするということだ。
 岬が竜一族の味方でいる限り幸一のように岬自身の意識をどうにかしようなどと考える者はいないだろうということだが、皆が岬に好意的な者たちばかりではないだろうことは容易に想像できる。
 この先、どんなことが自分を待ち受けているのか――不安になる。
   
  「岬?」
 目の前で克也が身をかがめ、心配そうに岬の顔を覗き込む。
   
  『大丈夫。今は克也がいてくれる。克也を信じるだけ......』   
 差し伸べられた克也の手を取ると、震えが少し止まった。   
 見上げると、克也のまなざしとぶつかる。
 彼の瞳もまた、少しだけ不安そうに揺れていように見えるのは自分の気のせいだろうか?
    
  『そう。あたしは――こんなところで不安になってなんかいられない。だってあたしは――、一生をかけて克也を支えるって決めたんだから――』
   
 岬は、決意を微笑みに変える。
 克也も何かを感じ取ったように微笑み返すと、歩き始めた。
   
   
 案内役であるスーツ姿の若い男が、門をくぐる克也に対して恭しく礼をする。克也が岬の手を取ったままだったため、岬が通りすぎるまでその青年は頭を下げたままだった。それが一般人の岬にとってはなんだか申し訳なく思えてしまう。

 克也は黙ったまま歩みを進めたが、案内役の青年は、克也と岬の後ろを付かず離れずの適度な距離を保って歩いている。
   
  『この人......きっと克也が何か言えば、すぐにそれに従って動くんだろうな......』
   
 岬はぼんやりと思う。
 克也は竜一族の長だ。隠れていた頃ならいざ知らず、今やこの屋敷で働く者はもとより、全国の竜一族の中でその名と顔を知らない者はもはやいないという。もちろん実際の様々なものの運営には、年長者であって長年一族の様々なことを取り仕切ってきた久遠水皇にまだ重きが置かれてはいるものの、その水皇ですらも、克也に対して長として一目置いているとなれば、ある意味、この屋敷では一番頂点に立つ存在である。
 克也のここでの地位について頭では理解したつもりの岬だったが、実際にこういうことを目の当たりにすると、不思議な気持ちだ。
    
 正門を入ってすぐ左手にある建物は、訪問者があった場合に最初に通される場所で、たいていの客人の対応はここでされるという。簡易的にではあるが宿泊できるような部屋もあり、先日、岬の家族や晶子たちが泊まったのもこの建物だという。
 ただ、岬は『客人』の扱いではないため、ここには入らず、直接中枢部分へと通してもらえる。
   
 そしてすぐに、克也の継承式が行われた例の講堂のある建物が右手に見える。
 あの日、『氷見』という人物に半ば脅されるように連れてこられ、克也が一族から受ける期待の大きさと重さを身をもって体験した場所。そして命を狙われ――自分の罪に気づかされるきっかけとなった場所でもある。
 複雑な思いが去来し、岬はつながれた手に力をこめる。
   
 そこを抜けると、目の前に広がる一面の竹垣の向こうに、複雑に枝を張った背の高い木が先が見えないほど互い違いに連なる。その先に入るものを阻むような美しくも厳かな木の壁。
   
  『何か、圧倒されちゃう......』
 それでなくてもこんな豪邸に入るのはおろか、きちんと見るのすら岬は初めてなのだ。すでにいろんな意味で目眩がしそうだ。
  『でも......なんだか、それだけじゃない......?』
 岬は目を瞬いた。竹垣を境に向こうの空気を引き締めるような『気』のようなものが満ちていると感じたからだ。その『気』はとても大きく、全てを包み込むようなものだった。岬はこんな『気』をどこかで感じたことがあるような気がする。
   
  「この竹垣の向こうの......『気』なのかな?――あたし、それをどこかで知ってる気がする......」
 思わず呟いた岬に少し驚いたように克也が振り返った。
  「ここから先には......水皇さんの気が満ちているから、そう感じるのかも。この先には水皇さんによる結界が張られてるんだ」
 克也の言葉に、岬は思わず目の前を凝視する。
  「それだけ、この先が重要だっていうこと?」
  「まあ、そういう――ことには、なるかな」
 克也は微妙な顔つきをして、少し視線を落とした。
   
 竹垣が一部だけ途切れる場所があり、そこに武家屋敷の門のような木製の、正門よりはややこじんまりとした門がある。
  「これが、『中門(なかもん)』。普段俺たちは、めったに正門からは入らないからここを通ることも少ないけど」
 克也は呟く。
 今日は、岬に久遠の敷地内を案内する意味も兼ねて、少し大回りをしたらしい。
   
  「失礼いたします」
 二人の後ろから案内役の青年がさりげなく進み出て、門の扉を両側に開いた。
         
 左右に草木の生い茂る石畳を抜けてさらにしばらく奥へと進むと、急に視界が開ける場所があった。
 そこには修学旅行で行ったお寺の中庭のような、立派な庭が広がっていた。
 灯篭や、大小様々な大きさの趣のある石が周囲に絶妙な間隔で置かれた池まであり、思わず一瞬見とれて立ち止まりそうになる。
   
 その庭の向こうに、三つの建物があった。
 正面、真ん中に大まかに言うとコの字型のような一際大きな和風な建物があり、それが『母屋(おもや)』。そして向かって右、東側にそれよりは小さいが、それなりの大きさ――おそらく一般的な家の二倍はあるだろうL字型の建物、『離れ』がある。『離れ』と『母屋』は一階が廊下でつながり、たやすく行き来ができるようになっているということだった。そして左―― 西側に『離れ』よりも若干小さそうな、親しい関係にある客人を泊めるための洋風な建物『迎賓館』がある。
 克也や久遠水皇が住んでいるのが『母屋』であり、この久遠の中心部である。
   
 今回、岬は『離れ』に住まわせてもらえることになった。『離れ』は事情あってもう長いこと使われていなかったとのことだった。克也はこの『離れ』に岬を住まわせるのをしぶったというが、いくら長である克也の恋人とはいえ元は敵の一族であり、また、正式な妻ともなっていない者を『母屋』に住まわせることは多くの竜一族の反発を買うということで、『離れ』になったのである。
   
  『まあ、あたしとしては――克也が生活してる場所のこんな近くに住めるってだけで、何だか夢みたいだけど......』
 目の前の光景があまりにも自分の常識とかけ離れすぎていて、実感が湧いてこない。
   
     
 岬の荷物は既に全て『離れ』の一室に運ばれており、今は小さな手荷物ひとつだけだったので、そのまま水皇のところへ挨拶に行くことになり、岬は母屋へと向かった。
 既に手はつながれていなかったが、母屋の玄関へと続く白い石畳を、岬は克也のすぐ後ろをついて歩いていく。   
   
 玄関へ入ると、高級旅館のような広々とした空間が広がっていた。
 玄関の床は御影石だろうか、程よく歴史を感じさせるが汚くはない。脇には一体何人分の靴が入るのだろうという大きな靴箱。
 そこから一段高くなった場所から先は艶のある白木の床が広がり、そのまた一段上がった先、正面の小さな畳敷きの一角には、高級そうな掛け軸と色鮮やかな活花が飾られていた。控えめだが甘い花の香りが鼻をくすぐる。
   
   
  「克様、おかえりなさいませ」
 着物を美しく着こなした前掛け姿の中年の女性が白木の床に膝をつき、ゆっくりと頭を下げる。その横に同じく和服を着た使用人風の女性が二人ひかえており、同じく深く頭をたれている。
   
 少しの間をおいて顔を上げた中年の女性に、克也はふわりと微笑んだ。
  「ただいま、静流さん」
   
 この家に着く少し前からどこか固かった克也の表情が、急にふっと緩められたように見え、岬もどこかホッとする。そしてふと、
   
  ――克様、って克也のことだよね......。『様』なんだ。当たり前なんだよね――
   
 そう思った時、
   
  「岬様」
 そう呼ばれて、岬はそれが自分のことだと理解するのに数秒かかった。
   
  『さ、―― 様!?』
 なぜかどぎまぎして動きがぎこちなくなってしまう。
  「は、はいっ」
   
 岬は答えたが、少々声が上ずってしまったような......。
   
 中年の女性は膝をついたまま、岬に対してにこりと微笑む。人懐こい笑みに、つられて岬も微笑んだ。
   
  「私はこの後、岬様のお住まいになる『離れ』の最終チェックをいたしますので、一旦下がらせていただきます」
   
  自分にまで付けられた『様』に違和感を感じながらも、ここで何か言うのもおかしいかと、岬は『はい』とだけ答えた。  
   
  「水皇様のところへはこの稔里(みのり)に案内させますので」
 中年女性のすぐ横の『稔里』と呼ばれた着物にエプロン姿の女性が顔を上げて微笑んだ。おそらく長いであろう髪を後ろの上のほうでかっちりと丸くまとめている。まだ若い――岬の姉ぐらいだろうか。
  「岬様には初めてお目にかかります。沢 稔里(さわ みのり)でございます」
 こちらも柔らかな笑みを浮かべる。
   
 中年女性は丁寧にもう一度一礼をすると立ち上がり、「では後ほど......」と言い置いて、そのままもう一度一礼をして歩いていった。
   
  『あれ?何かまとう空気が誰かに似ているような......』
   
 何となくそんな気がして岬は、しゃんと歩いていく中年女性の後姿をじっと見つめた。

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