恭順の家(2)
岬たちが通されたのは、母屋の玄関から上がって左に真っ直ぐ伸びる長い廊下の先を、さらにつき当たりで左に曲がってすぐにある洋風の応接室だった。
稔里が扉を開けると正面奥に一面の大きな窓があり、そこに水皇は立ってこちらを見ていた。カーテン越しに外の緑が目に鮮やかに映る。
克也に続いて岬が入ると、稔里は静かに扉を閉じた。
水皇は岬に満面の笑顔を向ける。
「岬さん、いらっしゃい。少し用事が入ってしまってこちらから迎えに出られなくてすまなかったね」
「いえ。こちらこそ、お忙しいのにお時間を取らせてしまってすみません」
岬が恐縮して言うと、水皇はやけに嬉しそうにこちらに近づいてくる。
「いやいや、甥っ子のかわいい彼女がこの家に来てくれるのが僕も楽しみでしょうがなくてね」
水皇がちらりと目配せすると、稔里は克也と岬を部屋の中央にあるソファに座るように促した。
―― すごい。なんて洗練された動きなんだろう。目配せだけでさっと動けるなんて。そんな些細なサインを見逃さない稔里さんもそうだけど、その命令をさりげなく出す水皇さんもなんだか『ザ・お金持ち』って感じがするなあ ――
ここに来てからというもの、目に映るもの全てが驚きの連続だ。
『あたし、ここでやっていけるのかな』
あまりにも生活の基盤が違うようなこの家で過ごすことに不安を感じずにはいられない。
思わず傍らに座る克也を見上げる。その端正な横顔からは今自分が感じているような焦りは見られない。
『克也は生まれながらの一族の長だもんね。一般人のあたしとは違うよなあ』
小さくため息をついてしまう。
「岬?」
そのため息に、克也が首だけを動かして岬を見た。
「岬さん、何か気になることでもあったかな?」
水皇も心配そうに岬の様子を窺った。
「い、いえっ、なんでもないです。ただ......この家があまりにも豪華な家なのでちょっと面食らってるというか......。あ、いえ、そのうち慣れると思います......」
しどろもどろになりながら慌てて弁解する。理由は少しだけ違っているが、嘘ではない。
「この家も、見慣れるとそんなにすごい場所でもないんだけど......。でも、もしも何か不便なことや困ったことがあったら、いつでも言って」
「はい」
水皇の笑みに岬も頷いた。
「ただ――、僕も長も残念ながらこの屋敷の中では少々自由度が低くてね。それに我々は男だし、細かいところまで行き届かないことも多くあるだろうと思うんだ。そこでなんだけど――、岬さんさえよければ、護衛兼、相談役の女の子をつけて、隣同士の部屋で共同生活をしてもらおうと思っているんだよ」
「共同生活?」
「もちろん全てが一緒と言うわけではないけれど。ただ、そうしてある程度一緒に過ごしてもらえれば、こちらとしても安心なんだよね」
「それが最善のことなんですよね?―― それならあたしに異存はないです」
岬の答えに水皇は満足げに頷く。
克也もホッとした表情で岬を見た。
「それじゃあ、早速一緒に生活してもらう人をここに呼ぼうかな」
水皇がそう言うと、一拍の間をおいて稔里が部屋のドアを開ける。
『共同生活する人かあ。気が合う人だといいなあ』
少しだけ緊張した岬の耳に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「こんにちはっ。岬ちゃん」
入ってきたのは、満面の笑みを浮かべた利衛子だった。
「利衛さん?」
驚いて名を呼ぶ岬に、利衛子はにこりと笑いかけてきた。
「一緒に生活するのって、利衛さんなんですか?」
「そう。このためにちょっと勉強頑張っちゃったからね!かわいい岬ちゃんと一緒に生活できるなんて楽しみだなー」
満面の笑みを浮かべて利衛子は本当に嬉しそうだ。
「でも、利衛さん、大学は......?」
「もう夏休み間近だし、教授に無理言ってレポート提出で単位取れるようにしてもらったから」
「そんなことできるんですか!?」
「うん。でもホントは――内緒、だけどね」
利衛子は人差し指を口に当てて肩をすくめた。
そこで岬はようやく、気を抜いて笑うことができたのだった。
その後、岬は利衛子とともに『離れ』へと移動した。
この『離れ』の建物自体は古いとのことだが、克也の父の時代に一度中身がリフォームされたらしく、中は和洋折衷といった感じだ。長いこと使われていなかったという割にはそれほどくたびれた感じは受けない。
『お父さんの時代にリフォームされたって事は、当時はここを使うからこそ手をかけたんだろうし......、使ってない期間がそんなに長くないからわりとキレイなのかな?』
母屋と離れを繋ぐ廊下を渡るとすぐに二階へ上がる階段が表れる。一階は和風な作りだが、その階段を上がると二階は和の風合いを残した洋風な作りになっている。
階段を上がってすぐ左手は吹き抜けになっていて、よく見るとそこから母屋へと続く廊下が見えるようになっていた。その吹き抜けを過ぎて突き当たりを右に曲がってすぐが岬の部屋で、その隣である一つ奥の部屋が利衛子の部屋だ。
岬の部屋は洋間だった。フローリングの床、上を見上げると和にも洋にも合うアンティークな雰囲気の照明が天井を飾り、部屋の隅にはあらかじめ寝心地よさそうなベッドが配置されていた。正面には洋間にもかかわらず障子が配置されているが、うまく和と洋が調和していて違和感は感じない。その障子を開けると、窓から外の光が一気に入ってまぶしいくらいだ。
『すごい、お金持ちのお嬢様って感じ?』
だが、その部屋の一角を占めるダンボールの山に、そんなお嬢様な気分も半減する。
「確か八畳だっけ?これだけ大きな部屋にこのダンボールの山......。マンションのあんな小さな部屋にどうやってこれだけのものが収まってたか疑問だよ。自分の荷物とはいえ、どこから手をつけるか考えちゃうな」
独り言を言うと、
「わー、こっちも同じだねー、荷物がいっぱい!」
利衛子の声がした。振り返れば、ドアから利衛子がひょこりと顔を出している。
「利衛さんのとこも?」
「そうそう、しばらくは片づけで一日が終わっちゃいそうだね」
肩をすくめる。
『なんだか、この感じ―― 懐かしいよな。えーと、......修学旅行のノリ?』
ここに来てから、不安ばかりが大きくなっていたが、こういった利衛子とのやりとりはずいぶん心が軽くなる。
「一緒に暮らすの、利衛さんでよかった」
心からそう言うと、利衛子はにかっと笑った。
「水皇さんも言ってたけど、困ったことがあったらいつでも言って。もちろん、困ってなくても何でも言いたいことがあったら遠慮なく言ってね。そうそう―― 克也の小さい頃の話なんかも、聞きたいならいっぱい教えてあげる」
最後の方はいたずらっ子のような顔をして言う。
「―― そうですね!克也の小さい頃のこと――、たくさん聞きたいです」
そう言いながら、ふと考える。
『克也の過去、かあ......』
最近、心の距離はずいぶん近くなったと実感していたのでつい忘れていたが、自分は克也のことでまだまだ知らないことがたくさんあるのだ。
ここに来たことで、そういうことも少しは知ることができるだろうか。
利衛子と目を合わせて笑いあったその時、「失礼します」とドアの向こうから落ち着いた声が飛んできた。
「お二人ともお荷物の整理が大変だとは思いますが、無理なさらずに。少しずつ進めていけばよろしいんですよ」
見れば、先ほど玄関で一番初めに挨拶をした中年女性がにこやかな表情を浮かべて立っていた。
「静流さん!久しぶりー!」
その女性を見た途端、利衛子が親しげな声を上げた。
「あたしが本家に来るといつも静流さんとすれ違いばかりで寂しかったんだよー」
「そうだったの。ごめんなさいね。―― 利衛ちゃんはずいぶんと大きく......素敵になったわね」
女性も人懐こい笑みを向ける。
『この会話からすると......利衛さんと以前からの知り合い?ずいぶん親しげだけど......』
呆然と二人の様子を見守る岬の様子に中年女性が気づき、居住まいを正した。
「岬様――申し訳ありません」
丁寧に頭を下げられ、岬も慌てて首を振った。
「あ、いえっ、大丈夫です!」
顔を上げると女性は口を開く。
「先ほども、名乗りもせず失礼いたしました。私は『利由静流(りゆう しずる)』と申します」