恭順の家(3)
その名を聞いて、岬はあっと思った。
「利由、って、もしかして―― 利由先輩の―― ?」
岬の問いに、女性―― 静流はふわりと微笑んだ。
「利由の苗字を持つ者はこの一族の中にはたくさんおりますが、確かに私は正真正銘、利由尚吾の母でございます」
独特の、人懐こさを感じさせられる笑顔をたたえ、彼女は答える。
『これで分かった。会ったときからどこか懐かしい感じがしたのは。利由先輩と似てたからだ......』
ようやく合点がいく。
「静流さんは長年この本家にお世話係として勤めている人なんだ。もう何年だっけ?」
「もう三十年ほどになりますかね」
「そんなに長く!? ――ということは、克也が生まれる前から――」
思わずつぶやく岬に、反応したのは利衛子だった。
「そうそう、今はお世話人全体を取り仕切ってる感じの静流さんだけど、昔は克也のお母さん専属のお世話係だったんだよ」
「利衛ちゃん」
口調は穏やかだが遮るような静流の言葉に、利衛子は口をつぐんだ。
「もう、昔の話です」
静流は微笑んだ。その微笑がどこか憂いを秘めているようで、岬は何も言えなくなる。
「それにしても岬様には――。いつも、お調子者の息子が迷惑をおかけしていますね」
そう言われて岬は首を振る。
「いえ!とんでもないです!先輩には本当にお世話になりっぱなしなんです!克也とのことでも、常に先輩にフォローしてもらってて」
「岬様はお優しいですね。あの子は少々口が過ぎるところがありましてね。立場をわきまえず、克様にも散々失礼なことを言ってばかりで......。岬様も、迷惑なときははっきり言ってくださってもいいんですよ」
ため息をつく静流だが、岬はその言葉にどうも、身の丈以上の衣服を着せられてしまったような居心地の悪さを覚えてしまう。
「あ、あの......、『様』付けはしなくていいです。あたしなんかには」
こんな年配の落ち着いた女性に、敬語で話されてしまうと申し訳なさでいっぱいになってしまう。
そんな岬に、静流はふっと柔らかに微笑んだ。
「いいえ。岬様は、現長である克様のお相手の方。ゆくゆくはこの家の奥様となられるお方です。一使用人の立場の私が礼を欠くわけにはまいりません。―― 敬語が落ち着かなければ、どこかの旅館にでもお泊りになられたと思えばよろしいかと思いますよ。旅館のスタッフでしたらお客様に敬語を使うのは当たり前でしょう?」
にこやかに言われる。
『なるほど、旅館ね。そう思うことにすればいいのか......。うん、ここは旅館だ旅館っ』
とりあえず、そう納得しようと自分に言い聞かせる。そこではたと思う。
『ついさらりと受け流してしまったけど、なんか今あたし、さりげなくすごいこと言われた気がする』
―― 奥様 ――
そんな響きがくすぐったい。けれどどこか嬉しさを感じてしまうのが乙女心。
『様』付けされるのは落ち着かないけれど、将来克也の隣に立つことを約束されているような言い方は、決して悪い気はしない。
『何のためにここに来たのかを考えたら、気持ちを引き締めなきゃいけないとは思うんだけど......』
そう思いつつも、思わず顔が火照り、にやけてくるのを止めることができないのだった。
それからしばらく、静流からもアドバイスを受けながら、岬と利衛子は荷物の整理に追われた。
どれほどの時間がたったのか――、まだダンボールは残ってはいるが、とりあえず一応暮らすには支障がない状態にまで片付き、岬は窓際のベッドに腰かけてホッと一息ついた。
あと少しで夕食の時間ということで、用意ができたらまた呼びに来ると言い置いて静流は母屋へと戻っていった。
利衛子の部屋からはまだガタガタ音がしている。
『克也は、どうしてるのかな?』
自分が一段落したことで、ふと気になり始めると、確かめずにいられない気分になる。
思わずドアを開けて廊下に出、吹き抜けのところまで来てしまったが、はっとして足を止めた。
『やっぱり、勝手に動いちゃまずいよね......』
吹き抜けから母屋へと続く階段を見下ろし、ため息をついた。
実は岬には気になっていたことがあった。
岬と利衛子が離れへと向かう時に克也が一瞬だけ複雑な表情をした気がしたのだ。
『もともと、離れにあたしを住まわせることにも最初は反対していたというし......。何か嫌な思い出でもあるのかな』
そんなことを思ったその時、母屋から続く廊下に人の影を見つけ、岬は目を凝らした。その影は、その場を行ったり来たりしているのか、見え隠れする。
その人物の顔がふっと見え、思わず岬は階段を下り、名を呼んだ。
「克也」
そこには克也が目を丸くして立っていた。
「こんなところで、何してるの?」
岬の問いに克也はばつが悪そうに視線を泳がせた。
「あ、いや......、別に」
克也はぼそりと、はっきりしない返事をした。
「いつからいたの?」
「あー、うん。......ついさっき?」
なぜか語尾が疑問形だ。明らかに動揺しているのが分かる。
「岬こそどうしたんだ?部屋の片付けは?」
克也は誤魔化すように話を岬に振った。
「まだ片付けは残ってるけどひと段落して......、ちょっと休憩しようと思って部屋を出たんだ。でも、ふと見たら克也が見えたから」
そう口にしつつ、岬は心の中でぺろりと舌を出した。
『なんてね。本当は克也に会いたかったから部屋を出てきたんだけど......』
なんとなく気恥ずかしくて誤魔化してしまった。
「大丈夫か?」
おもむろに克也がそう口にした。そういわれる理由が思い当たらず、岬はきょとんと克也を見返した。
そんな岬に克也は少しだけ複雑そうな表情を浮かべた。
「ここって、慣れないと精神的に――、疲れるだろ?」
この言葉で、岬は克也の意図するところが分かった。
『克也は、あたしがここで戸惑っていることに気づいてくれていたんだ』
心に温かいものが注がれたような、ホッとした気分になる。
「......うん。正直、戸惑うことばかりだし、ちょっと疲れてるかな。―― こんな時、あたしみたいに根っからの一般人って困るね」
肩をすくめて笑う。
「克也がうらやましいな。あたしと違って、生まれながらに一族の長だもんね......」
岬がため息混じりに苦笑いすると、克也は意外そうな顔つきになった。
「俺は産まれてすぐにこの家から一度は追い出されてるし、連れ戻されてからだって、つい最近まではたまに来る程度だったから――、こういう生活には慣れてないよ」
少しだけ自嘲的な響きを含んだような投げやりな言い方に、すぐに岬はあっと思う。
「そっか......。そうだったね、ごめん」
岬が謝ると、克也もまた何かに気づいたような顔をした。
「―― 棘のある言い方をしてごめん。岬は何も悪くない。俺もこの家の雰囲気に呑まれて過剰反応した気がする。ホント、ごめん」
「ううん。なんだかあたしばっかりこんなに落ち着かないかと思ってたから。でも、あたしだけじゃないんだね」
岬がそう言うと克也もふわりと微笑んだ。
「俺だって同じ。もう一ヶ月以上経つのに未だに肩がこるんだ」
お互いに顔を見合わせて笑いながら、それでもふと考える。
『でも、克也が竜一族の正統な後継者であることはその血筋からして間違いないんだよね。あたしは、実質的には何も知らないとはいえ敵の一族だったわけだし、実際に竜一族を手にかけてもいる......。こんな風に久遠本家に住まわせてもらえること自体、普通じゃありえないことなんだよね』
そんなことを考えていると、目の前に月の形のネックレスがしゃらりと音を立てて垂れてきた。
「これ......」
驚いて目を瞠る。それはバレンタインのお返しにと克也にもらったネックレスだった。
今まではデートの時以外は大事に家の机の引き出しにしまっておいたのだが、岬が退院する少し前、克也が少し自分に預けてほしいというので、渡していたものだ。
「預けておいたやつ?もうあたしが持ってていいの?」
不思議に思って聞くと、克也は頷いた。
そして、少しだけ微妙な顔つきで口を開く。
「これに......俺の力を少しだけ籠めておいた」
「克也の力?これで護ってくれるの?」
岬の問いに克也は再び首を縦に振った。
「――少しはね。あまり力をたくさん入れちゃうと、逆に危険だからほんの少しだけど......」
「危険って?」
「俺の力が目立つと逆に目印になってしまうから。だから、気休め程度だけどね。―― 護るというより、繋がるという意味合いの方が大きいかな」
克也は少しだけはにかんだように微笑む。
「繋がる?」
「これを介して、俺と岬が繋がってるってこと」
そう言いながら、克也は岬の手を取り、その手のひらにネックレスを置いた。
しゃらり、とまた心地よい音がする。
「あ......!」
岬は思わず驚きの声を上げた。
ネックレスが手のひらに触れた途端、ふわりと蒼い力に包まれる感覚が全身に広がり、岬は克也に護られていることを実感する。
「どうした?」
「う、ううん、なんでもない!」
笑顔で答えるものの、正直岬は戸惑っていた。護られている、と実感すると同時に感じた何ともいえないくすぐったい気分――。
『な、何か――、ドキドキする。まるでずっと克也に抱きしめられてるみたいな――』
克也の力が岬の全身を満たしてゆく。まるで波が寄るように、溶け合うように。
その感覚に頬の温度が急上昇するのを感じ、岬はネックレスを握り締め、俯いた。
「ごめん、勝手なことして。―― 迷惑だったかな?」
克也は岬の不可解な反応を別の意味で捉えたようで、すまなそうな声が、俯く岬の頭上から降ってきた。
慌てて俯いたまま首を横に振る。
自分ひとりがこんな気持ちになっているのが、恥ずかしい。
『克也は純粋にあたしを護ってくれようとしてこうすることを考えてくれたんだろうけど......。あたしは―― こんな時に不謹慎かもしれないけど、なんだか――』
蒼い力に包まれたことに触発され、克也にもっと触れたくてたまらなくなる。その気持ちを抑えられずに、岬は思い切って顔を上げる。多分、自分の顔は真っ赤だが、走り出した感情がその恥ずかしさを上回った。
「ありがと」
そう言って精一杯笑う。
そして、きょとんとしている克也の腕をちょっと引っ張り、そのまま背伸びをして、克也の頬に唇を寄せた。
いきなりの岬の行動に驚いたのか、克也は目を見開いて固まった。その頬は、ほんのり薄暗い照明の元で見ても少し紅い気もする。
くすぐったさと恥ずかしさ、そして愛しさ―― 色々なものが絡み合った複雑な気持ちを振り切るように、岬は笑顔を作った。
「嬉しい。これであたし、克也と繋がってるんだね」
そう言って自分で首の後ろに手を回してネックレスをつける。
「こうやってずっとつけてることにするよ。お守りみたいな意味合いならその方がいいでしょ?ネックレスなら制服の下にでも隠せるし。あ、でも―― お風呂の時とかもつけてて大丈夫なのかな」
何気にそう口にして、岬は自分の言葉のせいで心臓が跳ね上がるのを感じた。
『よく考えたら、お風呂は母屋にしかないんじゃん!てことは、克也と一緒にってわけじゃないけど、同じお風呂に浸かるってことじゃん!!』
またもや体温が急上昇するのを止められず、岬は一人あたふたした。
「岬?」
怪訝そうな克也の顔を見て、はっとする。
岬は自分で自分を落ち着かせるように、はあっと息を吐いた。
『あ、あたし、最近やばい。煩悩大魔王になってるよ......。そんなこと今はどーでもいいことじゃん』
懸命に息を整えようと深呼吸をしていると、視界の端に腕組をしてばつの悪そうな表情の利衛子と目が合った。
「ごめん。邪魔するつもりはなかったんだけど......。一応護衛を任されてるあたしとしては、一応一言声をかけといてくれるとうれしいなー。克也とラブラブするなら止めないから。あ、あたしは今何も見てないからね!何にも!」
ウインクされ、岬は再び頬から火が出そうな熱を感じた。否定するところが逆に怪しい。
『いつから、見られてたんだろ』
ちらりと克也を見ると、克也も同じような表情で視線を逸らしているのだった。