「...アルカディアス...」
真はそう、ささやくような声で呼びかけると、驚きのあまりちょっと離れていた由愛の目の前に、大またですっと歩み出た。次の瞬間、目の前いっぱいにシンの顔が広がり由愛の視界にはそれしか映らなくなった。
と。
由愛は唇のあたりに何か柔らかいものの感触を感じた。
それを由愛が理解するのに数十秒はかかった。
バチーン!
歯切れの良い音があたりいっぱいに響いた。通りを歩いていた人たちもぎょっとした様子で一斉にこっちを向く。
「いたた...」
真は赤くあとのついた頬をさすっている。
「こんの...変態男っっ!!女の敵!」
由愛は真っ赤になって怒鳴った。そんな由愛の怒りを尻目に真は
「無事再会を果たした恋人になんてことを...」
などと言いながら、よよよ、とわざとらしく泣きまねをする。
そんな真の様子を無視して由愛は続けた。
「覚えておいて!今更何のつもりか知らないけどね!昔恋人だったからって現在でも恋人になるとは限らないんですからね!----これは立派な犯罪よッ!助けてくれたことには感謝するけど、二度と私に付きまとわないで!」
"決まった"と由愛が思ったその瞬間、
「---あ、もしかしてファーストキスだったとか?」
真はしれっとしてそう言い放った。顔は真剣、言葉の調子はおちゃらけて、という器用な様子で由愛を指差す。『人差し指で人を指すなっ!』とイライラしつつ、今はそんなことどうでもいいと思い当たる。
「おあいにく様!ファーストキスなんて幼稚園のときにとっくに済ませてますよっ!」
そう言うと、真の反応など見ずにすたすたと足早に歩き始める。しかし、そこはやはり女の足。すぐに真に追いつかれてしまった。
「ちょっとちょっと」
「うるさいっ!ここで"この人は痴漢です!"って騒ぐよ!」
さすがにその言葉に怯んだようすを見せた真だったが、立ち直りが早いらしく、すぐに気を取り直したように言った。
「俺のことは大嫌いで結構。---でも、俺は由愛ちゃんを守る。くれぐれも---さっきの怖いオネェちゃんや金髪野郎の言うことには耳を貸しちゃダメだ。」
『何よいきなり人格変わっちゃって...』
由愛はさっきと同じ調子で言い返そうとしたが、あまりの真の真剣な瞳に言うタイミングを逃してしまった。真は由愛が逃げないことに安心したのか、行き場のなくなった勢いをもてあまして口をぱくぱくさせている由愛に向かってにこりと笑う。その笑みはどこか遠い昔を思い出させてドキドキする。その"昔"は自分が小さい頃、なんていう生易しい昔じゃなく...。けれどこの感覚は自分のものであって自分のものじゃない。
「----ゴメンゴメン。さっきのは悪かった。男としてサイテーだよね...。---もうあんなことしないよ。本当に。信じて。」
「信じて欲しかったらそれなりの誠意を見せてください。」
謝罪の言葉を聞いて少し安心した由愛は静かに、そして冷ややかに言った。
「ありがとう。」
「......?あ、どうも...」
由愛にはなぜここでお礼を言われるのか分からなかったが、とりあえず相槌を打っておいた。
「俺はこんなおちゃらけたヤツだけどさ...。由愛ちゃんのことが好きなのは本当だよ。俺はずっとずっと...」
そこで真は言葉を切った。後に続く言葉や感情をわざと自分自身で打ち切ったように。
「------というわけで、...またね。」
そう言って真はひらっと手を振って踵を返す。『へ?』というぐらい唐突でつながりがなく、展開についていけなかった。あっという間。
「ちょ、ちょっと...待ちなさ...」
由愛が引き止める声も聞かずに人ごみに姿を消していった。後を追ったが、ちょうど信号が変わって動き出す車のせいで由愛は足止めを食らってしまった。
「なんなのよぉ?、もぉ???!!」
いっぺんに事が起こって、何が何だか分からず由愛は周りの目も気にせずに地団太を踏んだ。
『言いたいことだけ言ってあとはドロン!?...この疑問と中途半端な気持ちをどうすればいいってのよ...!?』
「ムカツク!!」
由愛の気持ちはこの一つに集約されて口を出た。しかし、その叫びは、真が消えた雑踏の中に空しく吸い込まれくていくだけだった。