記憶の糸(4)

 目の前の青年の向こうの水面に乱反射する光に目を細めながら、アルカディアスは呆然とその場に立ち尽くしていた。目の前の青年から目が離せなかった。まるで絵の中に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚える。今自分が目にしているものがあまりにも非現実的で。それが目の前の青年そのものが非現実的であったからでもあった。
   
 「あなたは、・・・・・・誰?」
 つぶやくような小さな声でアルカディアスはたずねた。
 この村の若い男たちとはめったに口を利かないアルカディアスでも顔ぐらいは分かる。けれど、目の前の青年のことは今まで一度も見たことがなかった。いくら周りのことに鈍感なアルカディアスでも、こんな青年を一度でも目にしていれば嫌でも脳裏に焼きついて忘れることなんてできなかったはずだ。けれど、この青年のことは全く記憶になかったのだ。  何よりこのあたりの、働く汗にまみれた浅黒い、がっしりとした体つきの男たちとは全く種が異なっていたのだから。
   
 青年は少しだけ目をみはるような表情になったが、やがてゆっくりと微笑んだ。
   
 「私ですか?------私の名前は・・・・・・、ルキア。旅を------しているんです。」
 青年------『ルキア』は噛み砕くようにゆっくりと言葉をつむいだ。
   
 「ルキア・・・・・・。」
 アルカディアスは、この青年の整った顔にぴったりの、綺麗な名前だと思った。そう思うと自然に口元がほころんでくるのを感じるのだった。
   

 「あなたは?」
 さらっとした黒髪をふわりと風に揺らし、今度はルキアがたずねてきた。
 アルカディアスは少々戸惑った。自分のことをなんと言ったらいいのか分からなかったからだ。こういうことはこれが初めてのことではなく、いつもそうなのだった。特に難しいことはないのに、アルカディアスにはどうしても自分を表現することができなかった。記憶のない自分へのひけめが自分を表現することにまでつながってしまっていた。これまでならこんな時、ドルがそばにいて助け舟を出してくれた。ドルと噂好きの女性たちのおかげで、このあたりでは自己紹介などしなくてもアルカディアスのことはみんな知ってくれていたので助かっていたのだ。
 口を半開きにしたまま固まってしまったアルカディアスの困惑に気づいたのか、ルキアはふわりと微笑む。その微笑は少しだけアルカディアスの安心感を誘う。
 「あなたの、名前は?」
 小さな子供に言うような低い優しい声だった。その声に導かれるようにアルカディアスは口を動かした。
 「アルカディアス・・・・・・です・・・・・・。」
   
 ルキアはまばたきをした。きっと時間にするととても短い間。けれどアルカディアスには、ルキアの長いまつげがゆるりと上下するかのように見えていた。
   
 「いい、名前だね。この星------『アルカディア』------の名前にちなんでいるのかな・・・・・・。いい名前を家族がつけてくれたんだね...」
 限りなく優しいルキアの声。その言葉に、アルカディアスは胸がきゅうんとなるのを感じた。
 ルキアは何気なく言った言葉なのかもしれないが、自分の名前をそんなふうに言ってくれた人はいなかった。あの、全てを受け入れてくれるかのような優しいドルでさえも。この、会ったばかりの、一言二言しか言葉を交わしていない青年がはじめてくれた救いの言葉。
   
 ------自分の名前は、誰かがつけてくれたもので、その『誰か』は『家族』かもしれない。もしかしたら、ここに来る前にもこんな自分のことを愛してくれる存在がいたのかもしれない。
   
 そんな当たり前のことに気づかせてくれた。これまで空洞だった心の奥に暖かいそよ風が送り込まれてきたような感覚に、アルカディアスは思わず胸の前でこぶしをきゅっと握りしめた。アルカディアスは自分の頬に温かいものがつたってきたことに気づいてルキアから目をそらし、湖の方に顔を向けた。ルキアはまるで全てを分かっているようかのように何も言わなかった。
   
 しばらく二人は何も言わず、湖面に映る光と緑を見つめていた。

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