記憶の糸(3)

 ドルの家から山奥に向かってしばらく歩いた先に開けた場所があり、そこに小さな湖があった。それほど遠い場所でもなかったが、アルカディアスのようなか細い女の足では少々きついぐらいだった。だが、周りに木々が豊富に茂っているせいかウサギやリスなどの小動物と出会うことも珍しくなく、いつの間にかここは、アルカディアスの心の休まるお気に入りの場所となっていた。アルカディアスは手伝いがない時にはいつもここに来ていた。こんなに素晴らしいところであるにもかかわらず、ここに来る者は、アルカディアスの来る時間には一人も見かけることはなかった。記憶がないことで他人に引け目を感じながら暮らしているアルカディアスにとっては、このことがとてもありがたかった。

 いつものように息を切らしながらやぶを抜けると、目の前に水面がぱあっと広がる。木々の隙間からのぞく青い空から降る陽の光が水面に反射してキラキラと輝き、思わずアルカディアスは目を細めた。
 目が慣れてきて再び水面に視線を移した時、アルカディアスはぎくりとした。湖のほとりを歩いて数十歩というところに人の姿が見えたからだ。あまりの驚きに反射的に後ずさりしたのだが、長い服の裾が、細く小さい木からちょこんと出ている枝にひっかかって動けなくなってしまった。
 「やだっ・・・・」
 アルカディアスは枝にひっかかった裾を外そうとするのだが、焦っているためか手が震えてうまく外すことができない。嫌な汗がどっと出てくるのを感じる。

 その時、すっ、と目の前に影が落ちたかと思うと、白い大きな手が延びてきてアルカディアスは恐怖に身を縮めて硬く目をつぶった。
 その途端、アルカディアスを捕らえていた木の重みがぽっとなくなる。
『もしかしてこの人、木から裾を外してくれた?』
恐る恐る薄目を開けると、細くさらりとした長い髪の先が垂れ下がっているのが目に入る。そのままゆっくりとその髪の主が上体を起こす------

 アルカディアスは思わず息を呑んだ。
自分のすぐ目の前にまるで現実のものではないようなものが映っていたからだ。

 アメジストの宝石のように透き通った紫の瞳。その瞳を飾るかのような程よく長いまつげ。整った細い眉。
 なめらかな肌の白さは女であるアルカディアスにも劣らない。すっと通った鼻立ちと形も色も良い唇は、ドルの家の祭壇に飾られた綺麗な女性の絵を思い起こさせる。
 
「なんて綺麗......」
心の中で思っていたことなのに思わずアルカディアスは口に出していた。


 つややかな黒髪を胸のあたりまで伸ばした、絵から出てきたかのような容姿を持つその者は、ここのあたりの者ではないとすぐ分かった。だが、山の民の男が着るような、膝上ぐらいまでの丈の飾り気のない無地の白っぽい布を、腰の辺りでぐるりと紐でくくって止めた服を着ていた。すらりと伸びたその脚には少し幅のある紐で膝下ぐらいから斜め格子状に編みこんだ『ソル』という履物を着けている。それにしたって珍しいものではない。そんな素朴な服を着ていてさえ、容姿の鮮やかさは際立っていた。
 
 その者はアルカディアスに微笑みかける。
 その微笑みに目を奪われながら、アルカディアスは夢うつつをさまよっているようなうわずった声で訊いた。
 「あの・・・・・・、男の、人・・・・・・ですよね?」
 「そうですよ」
 少し笑いを含んだような声。その声は低いが、心地よい響きを持っていた。

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