愕然(1)
「そんなことがあったの...とうとうケンカしちゃったってわけ...」
一通り岬の話を聞くと麻莉絵はチョコのかかった食べかけのドーナツを目の前の皿に置いた。ここは麻莉絵のお気に入りだというドーナツショップだ。
「でも仲直りできてよかったわね?」
「う...ん。」
ニコニコと何の憂いもなく微笑む麻莉絵に、岬は曖昧な応えを返した。それを聞いて麻莉絵の表情は少し曇った。
「何?仲直りできたっていうのに何浮かない顔してるのよ...?」
「...そりゃ、仲直りは出来た、けど...。なんかスッキリしないし。」
「何かまだ引っかかるモンでもあるの?」
麻莉絵の問いに岬は渋々うなずいた。
すると。
------ズズーッ、がたんっ。
あまりのけたたましい音に店中の視線が岬たちのテーブルに集まってしまった。麻莉絵がいきなり立ち上がったからだ。そんな店内の空気にはおかまいなしで、麻莉絵はずいっと手を伸ばすと岬の手を取った。
「え?」
麻莉絵に手を引かれて立ち上がる格好となった岬は、唐突な麻莉絵の行動に戸惑う。
「こうしちゃいられないわ。行くわよっ。彼氏の家に!」
鼻息も荒く息巻く麻莉絵。
「えっ...!?い、いいよそんなのっ。ダメっ!」
岬は混乱しながらも、とにかく止めた。
そんな制止など耳に入っていないかのように歩き出そうとする麻莉絵に、岬もさらに焦った。
「そんなことしなくても明日会わせてあげるからっ」
「何言ってんの!明日なんて待ってられないわ!うじうじしてるのは嫌いなのっ。この際はっきりと彼氏にがつーんと言ってやるわよ」
「来るなって言われてるのに...!」
------そう、岬は克也の部屋に行ったことは一度もなかった。部屋どころか住んでいるというアパートにさえ近づいたこともなかった。行きたいと岬が行っても、何故かは分からなかったが克也はいつもなんだかんだ理由をつけてそれを避けようとしているように感じられたからだ。それでも今まで不都合はなかったし、そのうちに岬も"部屋に遊びに行きたい"と言えなくなってしまったのだ。
尻込みする岬に、麻莉絵は呆れたようにこう言い放った。
「はぁ?来るなって言われてる?でもね、岬。こんな非常事態にそんなこと気にしてたら手遅れになる場合だってあるんだから。戦いも恋愛も先手必勝、動いたものが勝つ!」
こうして、その場にいた大勢の客の怪訝そうなまなざしの中、岬は麻莉絵に引っ張られ、店を後にした。その後の行き先は------もう言うまでもない。
***** *****
岬がそんなことをしている頃------、克也は久遠銀行の支店内の一室で蘭子と会っていた。もっとも二人だけではない。岩永基樹も一緒にである---というより今回は克也が、蘭子を基樹に会わせるためにこの場をセッティングしたのだ。
時折相槌を打ちながら、基樹は一通り蘭子の話を聞いた。
「それで?要するに------蘭子さん、あなたのことを我々に信用してほしいというわけですかな...?」
長である克也が見守る中、基樹はわずかに苦笑いを浮かべつつそう口にする。
「信用していただくしかありません。」
毅然と応える蘭子。
「聖の家はいくら追放されたとはいえまだ奈津河の一族に忠誠を誓う者も多いという...。そんな中で育った貴女をすぐに信用しろといわれても、到底無理な話ではないですかね?いつ翻るかも分からない、そんな不安定な存在をあえて抱える必要は我々にはない」
蘭子の反応を試すようにそう静かに告げる基樹の前で、蘭子はその場にあった何かのチラシを手に取ると、端の1面を自らの左手の人差し指に押し当て、そのまま勢い良く紙を滑らせた。
指先にはスッと1本の切り傷が刻まれ、その切れた部位からじわりと血がにじみ出る。
息を呑む克也と基樹の前に蘭子はその人差し指をかざした。
「証明できるものなんて私には何もありません。けれど信じて欲しいのです。----この私の中に流れる血に誓って------竜の一族に悪いようには私は動かないと!」
蘭子の瞳は真剣だった。
しばらく基樹はじっと何かを考えるように沈黙していたが、やがて意を決したように口を開いた。
「分かりました。貴女が我々と行動を取ることを認めます。-----ご両親のことも...できるかぎりの事をして調査させましょう。」
その言葉に、蘭子は目を輝かせ、ほっとした表情を浮かべた。
「ありがとうございます!」
そういって蘭子は深々と基樹に頭を下げた。
「それでは私は会議が残っていますのでこれで...。---長、くれぐれもこの建物から出るときにはご用心を。どこで奈津河の目が光っているとも限りませんから。---もちろん"蘭子"も気をつけて」
そう言って基樹は部屋を出て行った。"蘭子"と呼び捨てにしたのは、彼が蘭子を仲間と認めたことに他ならない。
基樹が出て行った後、二人は会話を交わすこともなくその場を後にした。カモフラージュのため、一般の人と混じり何事もなかったように蘭子はATM機で金を下ろした。入ったときは一般の客に混じって別々に来店したのだが、二人は一緒に店を出た。
半ば強引についてくる蘭子を、克也は適当な距離を置いて離れて歩きつつ無視していたが、さすがにアパートの近くまで来るとたまらずに振り返った。
「おい、いつまで付いて来るつもりだ?」
「もちろん部屋まで」
その言葉に一瞬表情を険しくした克也を見て、蘭子はカラカラと笑った。
「冗談よ冗談。入れてくれないのは分かってるわよ。」
蘭子の言葉に、克也はため息をついた。
「基樹はお前を信用したかもしれないが、俺はまだお前を完全に信用したわけじゃない。------だが-----、」
克也は蘭子の左手を取り、血は固まったものの、まだ生々しい人差し指の傷を見つめた。
「バカだな。こんなことしなくても人情家の基樹はお前を受け入れただろうに...」
克也の言葉に、蘭子は"何を今更"という顔をした。
「言ったでしょ。私は全てを捨てる覚悟でここに来た、って。------こんなことはどうってことないの。私の本当の両親のことを知るためなら、そして本当に自分が属する一族の元で働くためになら、こんな傷の1本や2本...」
そう言って自分でぺろりと傷口をなめる蘭子に、克也は何も言わず、絆創膏を無造作に手渡した。
「男のくせにこんなの持ち歩いてるの?意外にマメなのね。」
蘭子は驚きに目を丸くした。
「嫌なら捨てろ」
「今日は優しいのね...」
蘭子はそう言って少しだけ複雑な表情を見せた。
「別に、ただ気になったから。」
ぶっきらぼうに答える無表情な克也の表情を見ながら、蘭子は微笑した。
***** *****
「あったあった。このすぐ先だわ。」
住所のメモと地図とを照らし合わせながら麻莉絵は嬉しそうに言った。
岬はあたりを見回しながら電柱に表記されている番地を確かめる。
「意外に駅からの道が簡単で助かったわねー」
麻莉絵はほっとしたようにため息をついた。
その横で、岬は期待と同時に押し寄せる言い知れぬ不安と闘っていた。麻莉絵に強引に引っ張られたとはいえ、本当に行きたくなかったのなら途中で振り切ることはいつでもできた。けれどここまで来たのは自分の意思でもある。
『だって...気になるんだもん...。ダメだって言われても...克也が好きだから。---好きな人のことはひとつでもたくさん知っていたい...。その気持ち、素直に言えば克也だってきっと分かってくれるよね...。怒ったりなんか...しないよね...』
岬は自分にそう言い聞かせながら角を曲がった。
そこに二階建ての小さなアパートが見えた。よくありがちな2階建ての普通のアパートだ。
『これが克也の住んでるとこかぁ...』
今まであった不安はその瞬間にどこかへ吹き飛んでいた。またひとつ克也のことを知った喜びに、岬は胸を高鳴らせた。
しかし------次の瞬間、岬はその場に凍りついた。
「どうしたの?」
怪訝そうにたずねる麻莉絵の声も岬の耳には入っていなかった。
岬は見てしまった。
蘭子と克也が-----アパートの目の前の-----岬たちから少し離れた場所に二人一緒にいるところを-----。