罠(3)
扉が開くと同時に混んだ電車からはじきだされる。その途端、すっと気持ちの良い空気が肺に流れ込んできて、その気持ちよさに岬はひとつ大きなあくびをした。岬たち、一部の乗客がが降りてもなお、ぎゅうぎゅうに人間を押し込めた電車は、けたたましい発射のメロディ音と共に吐き出されるように駅を離れてゆく。
------いつもの平日の朝の風景。
月曜日の駅のホームは、すれ違う人たちもどこか休み明けのけだるさをかもし出している。
周りでは多くの人が先を争って改札へと向かっているが、岬は気が抜けたような表情でボーっと歩いていた。原因はやはりおとといからの違和感だ。
不思議と金曜日に克也と蘭子が一緒にいたところを目撃してしまったことの衝撃は、それほど気にならなくなっていた。いや、気になることは気になるのだが、克也と蘭子のことを考えると、思考が途中で止まってしまう。霞がかかったように何も考えられなくなるのだ。代わりに、御嵩と話した時のことが思い浮かぶ。
「何考えてるの、私はっ......。」
小さな声で口にしてかぶりを振る。近くを歩いていた数人の者が怪訝そうな顔つきでこちらを見る。しかし、今の岬にはそんなことを気にしている余裕はなかった。御嵩に対する気持ちが恋心などではないことは岬にも分かっていたが、それでも御嵩のことを考えている時は心が安定するのは確かだった。この安定が心地よくて、この感覚に身を任せたくなる。克也と蘭子とのことを考えることが嫌になるのだ。
しかし、今日学校に行けば否が応でも克也と顔をあわせなくてはならない。こんなあやふやな気持ちを抱えて、どんな顔で、どんな態度で克也に接すればいいのか分からない。
「こんな時、隣同士の席って、やだなぁ......」
岬は一人ごちた。
駅から、ごく普通の一軒家や小さなアパートが連なる平坦な道をダラダラ歩いて10分弱のところに学校はある。しかし、気の進まない岬はいつもに比べてことのほか多く時間をかけてしまった。
2-Aの教室の前まで来て、岬は足を止める。
克也はもう教室に来ているだろうか?
また蘭子がそばにいるのだろうか?
土曜日の約束をすっぽかしたことを怒っているだろうか?
ドキドキする。
試験前のような緊張感が岬の体を支配していた。
教室にはクラスメートやその友人たちが出入りをし、数人は出入り口に突っ立っている岬に軽く挨拶していった。どうしたらいいのかと迷っているうちに一秒一秒時間は過ぎてゆく。
『こんなことしてても仕方がないよね......。どうせ先生が来たら隣に座らなきゃいけなくなるんだし』
そう自分に言い聞かせ、大きく深呼吸をして、教室の中に一歩踏み入れる。
その途端、どきりとする。
いきなり克也の姿が見えたからだ。克也は、扉から見てやや斜めの位置の窓際の手すりに寄りかかって数人の男子クラスメートと話をしていた。扉から教室全体を見て、とりあえず近くに蘭子がいないことを確認して岬はホッとする。しかし、岬はいつものように克也に近づいていって挨拶をすることができなかった。思わず目をそらしてしまう岬に、克也も気付いたようだったが、ちらりと岬の方を見ただけでその場を動こうとはしなかった。もともと克也はそれほど感情を露にする方ではないし、以前から、朝同じ教室内にいてもすぐには挨拶をしなかったりすることもあった。だから、自分たちの異変に気付いたものはその場ではいないと思われた。
克也と岬がその日初めて近づいたのは、担任のMs.石倉が教室に入ってきて、それぞれが自分の席についた時だった。ちょっとだけ先に座っていた岬は、克也が近づいてくるのは分かっていたが、顔を上げてそちらを見ることが出来なかった。うつむいたまま、がたんと音を立てて隣の椅子が引かれるのを横目で見やった。続いていつものように座る克也の制服姿の足が見える。ふわりと克也の気配を感じて、岬は何だか泣きたくなった。
好き。
どうしても克也が好き。
けれど、蘭子とのことを考えるとどうしても許せない。
あの時、どうしてだかは分からないけれど自分には入れない領域があるのだという気がした。
今だって何も分かっていない。克也は何も知らせてくれない。
克也という人物について分からないことが多すぎる。
それなのに、なぜ自分はこれほどまでに惹かれてしまうのか。
だからこそ悔しい。
許せない。これほどまでに彼に惹かれている自分が。
とめどもなく溢れる思いに本当に泣いてしまわないように、岬は思わずきつく目を閉じる。
そこまで来て、思考はだんだん薄らいでいく。
まただ、と岬は思った。
『君に協力して欲しいことがあるんだ』
頭の中で御嵩が微笑んだ。
どこかホッとする自分がいる。
------苦しいのは嫌。
------楽になりたい。
全てがどうでもよいことに思えた。苦しいことは何も考えたくない。
御嵩の言葉が頭にこだまする。
『君の力を借りたいんだよ』 『君の力が必要なんだよ。』
それは暗示のようだった。その言葉に従っていれば何も憂いはないと言ってくれているようだった。
岬はふっ、と口元をほころばせる。自分が今どんな表情をしているのか、自分自身でも意識していなかった。
その日、岬と克也が言葉を交わすことはなかった。
その日だけではなくその後も、授業などでの必要な時以外には口を利かず、岬は克也を避けるようになっていった。克也もそれを無理にどうにかしようとはしていなかった。
二人の異変にさすがの周りも気付き始め、友人たちは心配し、それ以外の者の間でも様々な憶測が飛び交うようになった。
***** ******
今年度の最終月を迎えようとしている頃。
夕暮れ時に岬と麻莉絵、将高の三人は御嵩の邸宅に呼び出されていた。とはいえ、ここしばらくの間、岬は放課後にこのメンバーで行動することが多くなっていた。もちろん、いつも全員一緒というわけではなく、主に麻莉絵といることが多かった。それは、岬に対する竜一族の監視が厳しくなったために、御嵩たちでまだ闘いに慣れていない岬をガードするというためでもあったが、岬自身このメンバーといることが楽しくなっていたために、自ら一緒にいるようになっていったのだった。その間、御嵩に言われるままに数回、岬は自分の力を使った。自分でも驚くほど簡単に力が出せていた。初めにあった罪悪感が時がたつごとに麻痺していくのを恐ろしいと感じながらも、岬はあえてそれを無視していた。
いつもの北側の部屋のソファーに座り、御嵩と岬たちは向かい合っていた。御嵩と三人を隔てている大理石で作られたテーブルには、ナントカとかいう、岬には分からない名前の高級な紅茶がそれぞれの目の前に淹(い)れられている。
学校の帰りに召集がかかったので、岬たちは制服のままだった。
「次のターゲットを決めたよ。」
御嵩はそう口にした。相変わらずニコニコと少年のような笑みを浮かべながら、自分の胸の前で手を合わせ、お願いのポーズを取る。
「君たちばかりこき使って申し訳ないんだけど、一族の長である僕が表立って動くわけにはまだいかなくて。しかも今度の敵はかなり手ごわくてね。しかも他の一族のオジサンたちには内緒のことだから、腹心の君たちにしか頼めなくてね......。」
そう言って眼鏡のふちを人差し指で撫でながら、舌をぺろっと出す。
『一族のオジサンたち』というのは奈津河一族の闇の部分を動かしている重鎮たちである。一応その『オジサンたち』の上に君臨しているのが御嵩なのだが、年齢的には御嵩よりもっと年輪を重ねている者がほとんどだ。御嵩には心強い味方であると同時に、親のように、いや、親以上に口うるさい『おせっかいやき』であった。口うるさく言うのは皆、御嵩のためを思っての『心遣い』なのだが、その『心遣い』は大抵、御嵩にとっては窮屈極まりないものであった。
「貴方も世間では立派に『オジサン』の部類に入ると思いますよ。」
ため息をつきながら将高は御嵩から目をそらすと、窓の外の庭にあるヨーロッパ調の女性の像が数体目に入ってしまう。どうも将高はこういう像が気味が悪くて苦手だ。『この人の趣味ってあんまり良くないよな......』などと思い、再びため息をつく。
「おいおい、二度もため息をつくほど嫌なの?」
御嵩は憮然として言ったが、すぐに気を取り直したようで、岬と麻莉絵を交互に見ながら話を続ける。。
「まあ、そう邪険にせずに聞いてよ。---今回のターゲットの名前はね、」
御嵩はいたずらっ子のような表情を浮かべて言葉を切った。
少しの間、間が空く。
「利由尚吾。------もちろん、栃野さんは良く知ってるよね?」
あまりの突然のことに岬はなんと答えればいいのか分からなかった。
『利由先輩が竜一族!?』
岬の頭の中を利由の顔がよぎる。最近でこそ会うこともなくなったが、少々何を考えているのか分からないところもあるけれど、岬にとっては頼りになる先輩の一人なのだ。
利由は自分が奈津河一族だということを知っていたのだろうか?------だとすると、自分に近づいてきたのも何か策があったからなのか......。疑問符と疑念が頭の中をかけめぐる。ターゲットが利由になったということよりも、その事実が、少なからず岬にとってショックなことだった。言葉を失っている岬の代わりに、将高が声を荒げた。
「御嵩様、それはあまりにも無謀すぎます!利由は、今や幹部の中でも岩永基樹と肩を並べるくらいの位置にいる幹部。しかも彼は岩永とは違って能力もトップクラス。彼をターゲットにするのはまだ時期尚早ではありませんか!?」
その声は、『また御嵩のワガママが始まった』、とでもいうように呆れ声だった。いつもこのワガママに振り回されてきたのは将高と麻莉絵なのだ。
「いかにも。でもね、これは今必要なことなんだ。彼を攻撃することは今後のために大いに重要な役割を果たすはずなんだよ。今回の目的のためには彼じゃなくてはいけない理由があるんだ。もちろん息の根を止めなくてもいい。彼は強いからね。三人で力を合わせれば脅しぐらいにはなるだろう。大丈夫、僕も後ろで援護をするよ。それに、なるべくあちらさんの援護がない状態にしてあげるから。」
「ですが......!」
なおも食い下がろうとする将高だったが、御嵩は次の瞬間、それまでの笑顔を崩して冷ややかに言い放った。
「これは、一族の長である私からの命令だよ」
その言葉に、将高は一瞬表情を固まらせ、唇を噛んで言葉もなく首肯した。
岬も、いつもとは明らかに違う御嵩の様子に身震いした。まさに一族の長ともいうべき空気。多くの者をその場にひざまづかせるような冷酷な王の瞳を持っていた。
『すごい......』
岬は御嵩にどこか畏敬の気持ちを覚えると同時に、とてつもなく大きな恐怖をも感じたのだった。
そして。
「喜んで従わせていただきます」
麻莉絵だけは迷いもない調子でそう口にした。
満足そうにその様子を眺め、再び御嵩はまとっていた空気を和らげる。
「ありがとう。そうだな------、そろそろ、あちらのボスも姿を現すかもしれないよ......?」
そう言って御嵩はにんまりと微笑んだ。
------決行日は1週間後------