花の馨り(2)
夕暮れの紅い日差しが誰もいなくなった教室に差し掛かる。
克也は一人で教室の窓辺の机に腰掛け、たたずんでいた。机は窓際より10センチほど離れていたが、上半身だけ少し斜めに伸ばして転落防止のためのステンレスのバーに片手を掛ていた。足はだらりと床に向かって伸ばし、片足だけ床につけていた。
部活動に参加していない克也は、いつもなら放課後になるとすぐに帰るのだが、今日は用もないのになんとなく帰らずにいた。
窓の外では野球部の部員たちが、広いグラウンドで土まみれになりながら走り回っている。
自分には彼らが少しうらやましいと思うときがある。
『普通の』学校生活。
普通にかったるい授業を受け、休み時間になればあくびのひとつもしながら授業の愚痴や芸能人の話、週末の予定などを語り合う。放課後は部活動に励み思いっきり自分のやりたいことをして、週末には恋人とデート。
絵に描いたような『青春』をなんでもないように謳歌する日々......。
自分にだってそれが許されると錯覚した時期もあった。
『普通の』高校生としての生活が。
------『彼女』と一緒なら。
けれど『普通の』高校生としての生活など、所詮自分にははかない夢だったのだ。
自分があの家に生まれたその日から、無理だと運命付けられていたもので。それに抗うことは無駄だったのだ。
今日は学校を休んでいるのだとうわさで聞いた。
特別気にかけないようにと思っていても、どうしてもその名前の一文字でも聞こうものなら途端に全身全霊がそちらのほうに向いてしまう。
ふう、とため息をついて、はじめて自分の後ろに立っている人物がいることに気づく。
「なあに。辛気臭いわね。......というか、かなり前からいたってのに。...長のくせに隙がありすぎよ。」
半ばあきれたような表情で制服姿の女が近づいてくる。
「蘭子」
しかし、その女の名前を呼ぶ頃には、克也の表情からは柔らかさが消えていた。
ぴりり、と空気がはりつめる。
「あら。もう元に戻っちゃったの。つまんないわね。」
蘭子はにやりと笑みを浮かべながら肩をすくめた。
「何か用か?...なければ俺はもう帰る」
気に入らないなら無視して教室を出て行けば良いのに、声をかけるあたりがまだ甘い、と蘭子は思う。
目の前の青年には、一族を背負って張り詰めている危うさがある。自分の感情を無理やり押し殺して。
本来の彼はもっと違うものであり、本来の姿を全て捨てていないため、彼は冷酷な指導者にはなりきれていない。それは彼の未熟さゆえなのか、若さゆえか...それとも、心に住まう『彼女』への想いゆえか......。
「まあ、用ってほどのことでもないけど......」
そう蘭子が言い終わらないうち。
「そうか」
とだけ言い、カバンを乱暴に手に取って帰ろうとする克也に、蘭子は不敵な笑みを浮かべて言った。
「『彼女』......かなりやばいことになっているみたいよ?」
蘭子は、廊下に出るドアに向かって歩を進めていた克也とは逆に、窓の方に向けて歩きながら謳うように告げる。
『彼女』が誰であるのか、相手は当然分かっている、といった口ぶり。
もちろん克也だってそれが誰を指しているのか、すぐにピンと来た。この状況で、蘭子が口にする『彼女』といったら一人しかいない。
『彼女』との明るい未来という、儚い夢。
そんな儚い夢を見るほどに大切だった------いや、今でも大切な『彼女』。
「どういう...ことだ!?」
手近にあった誰かの机の上にカバンがゴトリと音を立てて落ちた。
みるみる表情が険しくなるのが、克也自身もよく分かった。
窓際で転落防止バーに寄りかかりながら夕日を背に受け、蘭子は克也の瞳をまっすぐに見返す。
「怖いわね。」
蘭子はに笑みを崩さないままだ。
「はぐらかさないで教えろ。......何があった?...首謀者はおまえか!?」
意外な克也の言葉に、蘭子の顔は再びあきれたような表情が広がる。
「私なはずないでしょ。......私はあなたとの約束があるもの」
「そんなものを必ず守ると思えるほど、お前は俺に信用されていない」
触ると切れそう、というのはこういう状態のことをいうのではないかなと蘭子は思う。
「...今回ばかりは残念ながら違うわね。......知りたい?------でも------あなたは知らないほうがいいかもしれないわね...」
自分から言いかけておいて、じらすような蘭子の物言いに克也はさらに声を荒げる。
「教えろ!!」
その様子に、蘭子もさすがに少しだけ目を見開いた。
気まずい沈黙が流れる。
少しして、ふう、とわざとらしく大げさにため息をつき、蘭子は再び口を開いた。
「...彼女ね。------レイプされかかったわよ?-----あの、奈津河のスケベ社長にね。」
それが真実であることも伝えるために真っ直ぐに克也を見据えながら、神妙な面持ちで蘭子は告げた。