花の馨り(3)
克也は、言葉を失った。
まるで身体の全ての時が止まってしまったように、何もできなかった。
外に聞こえる野球部の、互いに声を掛け合う低い声と、ずっと遠くで聞こえる廊下ではしゃぐ女生徒二人の声がやけに耳に響く。
低い位置にある日の光が、二人きりの教室に長く薄い影を落とす。
蘭子の棘のある言葉が克也をさらに沈黙させる。
「もちろん、彼女は全身全霊で拒絶したそうよ。でも、女の細腕じゃその気になった男の腕力にかなうわけないわね。」
フフッ、と真剣な表情を崩して蘭子は笑った。
青ざめる克也の表情を愉しむように、見つめる。
「でもね。安心して?------なぜかあのスケベ社長、途中でやめてしまったそうだから。あと一歩というところでね。そのままいけば『彼女』の思いはどうであれ、彼女の身体は手に入ったのにね。何にびびったのかしらね。彼女の力かしら。拒絶する彼女の身体からはオーラが漂っていたというから。」
容赦のない言葉で、蘭子はさらに克也の心の深淵をえぐった。
蘭子は、次に克也が取り乱す様を待っているかのように勝ち誇った表情で妖しく微笑んでいた。
だが。
その蘭子の思惑は外れた。
しばらくの沈黙の後、
「そうか...。」
克也は床を見つめながら、そう一言だけ言葉を発した。
低く、落ち着いた声で。
先ほどの『触れると切れそう』な勢いは、今の彼からは全く消えうせていた。
蘭子は目を見張った。こんな反応は予測していなかったからだ。
思わず声が上ずる。
「し、心配じゃないの?」
上目遣いで眉をしかめた蘭子をちらりと一瞥し、また床へと克也は視線を落とした。
「今更俺がここでどうこういっても何も変わりはしない。」
正論------、だが、今の彼には不自然な言葉。
「そりゃあ、ま、そうだけど......ね......」
蘭子はそれだけ言って口ごもり、あてが外れたというようにその場を去ろうというそぶりを見せた。
「それより俺はお前に聞きたいことがある」
静かに、克也は蘭子の目の前に歩を進めた。
あと一歩どちらかが踏み出せば、二人の身体が触れ合うほどに近づいた時、克也は蘭子の右手をつかんで上に引き上げた。何も知らない者がはたから見れば、恋人同士が身体を寄せているかのように見えるはずだが、幸いにしてこの教室の周りには今、誰もいなかった。
「逃げるなよ」
そう言う克也の顔には表情がなかった。その心のうちが全く読み取れない。
「お前はどうして、そんなことを知っている?」
その問いに蘭子はそっぽを向いた。
「答えろ。さもないと殺す」
恐ろしいことを克也はさらりと口にする。
今度は蘭子が黙る番だった。
いや、言葉を発することができなかったというのが正しい。
克也は本気だ。それだけは分かる。
抗いがたい絶対的な気迫というようなものが蘭子の余裕を一気に奪っていた。
こんなことは初めてだった。
今までだって克也にはにらまれた事もある。少々驚いたことはある。けれど修羅場を潜り抜けて来た自分にはそれほど恐れるに足らないことだった。
けれど今、蘭子は初めて克也に本当の意味で恐怖を感じていた。
彼の顔に表情がないことが余計に恐怖心を増大させている。
でも、このまましゃべらなければ殺されてしまう。
それだけはご免だった。
まだ自分にはやらなければならないことがある。
あの人のために。
美しく、哀しい運命を背負った、"あの人"のために。
蘭子は動かないあごを一生懸命動かし、無理やりのどから息を吐いた。
「言っ...た......でしょ。私には...情報源、があるって。------私はね、ある人のために動いているの」
「ある人とは?」
克也の問いに、蘭子はゆっくり首を振った。
「それだけはまだ私からは言えない。でも、いずれはあの人自身で明らかにするはずだから。------その人は今のところ『彼女』にとって害はないことは保障するわ。今のところ、ね。」
『今のところ』を少々強調しながら、蘭子は克也の瞳をまっすぐに見返した。