花の馨り(5)
克也は明らかに不満げな視線を送るが、利由はそんなことを気にしないとでもいうように涼しい顔で言葉を続ける。
「ここで、聖を消したところで、黒幕について何も分からないままだ。違うか?------だったら少しでもつながりを持っていた方がいいんじゃないか?」
「......」
克也は答えない。
「そういう訳でホラ、今はもう一旦この話はおしまい!」
克也の沈黙を了承と勝手に解釈したのか、利由は「はいはい」と硬くなっている蘭子の肩をぽんと軽く押した。
蘭子は、利由の真の思惑を探ろうとしたのか、しばらく怪訝そうに利由の顔を見つめていたが、それはかなわないとでもいうように困惑した顔でちょっと首をかしげた。
「......とりあえずお礼を言っておきます。利由センパイ?」
克也の様子に固まっていた蘭子も、利由の登場でいつもの調子が戻ったようで、わざと大仰に言う。
蘭子の言葉に対して利由も、
「帰ってその黒幕に伝えな。こちらはいつでも人質をかわいがってやる準備はできているってね」
ウインクしながらおどけて答える。
そんな利由を前に、蘭子は『負けた』とでも言うように口元に笑みを浮かべながらフッと息を吐いた。
「じゃあ本当に失礼するわ」
そう言い残して蘭子はギュッギュッとテンポの良い靴音を響かせて教室を出て行く。
あとには、静寂が残った。
静寂を破ったのは利由だった。
「いつまで、そんな風にしているつもりだ?もう蘭子はいなくなったぞ?」
目の前で呆然と、雑然と並ぶ机を見つめ続けている克也に言葉を投げかける。
蘭子が去った後、利由は手近にあった机の上に足を組んで座り、克也の次の行動を待ったが、ぼーっと突っ立ったまま、なかなか次の行動に出ない克也にしびれを切らしたのだ。
その言葉に克也はゆるりと顔を上げた。
その顔にはまだ表情がなかった。
「おいおい...、『また』か?」
独白とも、克也に向けられたものともつかない言葉を利由は発した。
実はこのようなことは初めてではない。
目の前の青年がこうなってしまうのを利由は今まで二度ほど見ていた。
目の前の青年は、これまでの特殊な生い立ちのせいか、自分にとってつらい状況になればなるほど、本当の心を『無表情』という甲冑で隠していくくせがある。
そして、その時の自分で受け止めきれないほどの大きな衝撃を心に受けたとき、それが究極の状態となる。
------なかなか戻れなくなるのだ。
以前そのようなことがあったのを見たのは、どちらも、彼にとって本当に大切なものが永遠に失われた時。
けれど、そのような時と同じに、今回のことで彼が本来の自分を閉じ込めてしまうことになるとは、正直思わなかった。否、分かっていても、そうなると思いたくなかったのか。
そのまま固まっている克也に歩み寄り、小さい子をなだめるようにその背中から自分の片手をまわし、克也の肩を抱いた。
「なあ、もういいよ。克也、蘭子はこの場からいなくなったんだ。幸い今はこの教室には俺とお前しかいない。だから克也......自分を押し殺す必要は、ないんだ......」
克也の目が揺らいだ。
次の瞬間。
克也はそのまま床に崩れ落ちた。
そして......
「ッはっ...!!」
そう音を発すると、突然、克也は己のこぶしを床に思い切りたたきつけた。
何度も、何度も。
無言で、繰り返す。
その顔は苦悶の表情を浮かべている。
眉間に寄せられた皺、それは身体的な痛さゆえか、それとも心の痛さゆえか。
目はカッと見開かれ、ただ床とたたきつけられる自分のこぶしだけを見ていた。
事情の知らない者が見たら、間違いなく気が触れたと思うだろう。
実際、克也の精神は普通の状態ではなかった。
それはずっと近くにいた利由には十分分かっていた。
馬鹿なことをしている。
けれどそれをとめることはできなかった。
彼の負った心の痛手を思えば。
ただ見ているしかなかった。
------あの時のように。