花の馨り(8)
「あた・・・・・・あたしは・・・・・・」
岬は胸元で左の拳をぎゅっと握りしめた。
『大切な人』
『自分を犠牲にしても守りたい人』
・・・・・・いるのだろうか、自分に。
自分の心を一生懸命探ろうとする。
今、岬の心の中はなぜだか真っ白だった。
「どうすれば・・・・・・いいの・・・・・・?」
ぽつりと岬がつぶやいた。
それは岬の口からするりとついて出た言葉。
悠華に向けた言葉ではなく、自分に向かった言葉だった。
それが分かっているかのように悠華は何も言わなかった。
どこか遠くを見つめたような岬の瞳には、しばらく何も映していなかった。
いや、実際にはテーブルの木目とその上に置かれたマグカップに入ったココアの水面を映してはいたが、そんな映像は今の岬には何の意味も持たないものだった。
岬の瞳はただ、真っ白な自分の心の中を見つめ続けていた。
真っ白な世界。
あまりにも白すぎて、自分がとてもちっぽけに思える。
何も、誰も自分の周りにはいない。
いつか見た『白い夢』とはまたちょっと違うようだった。
あの時は、真っ白で何も見えなかったけれど、確実に『何か』がいることが感じられた。
でも今は違う。 自分の周りに誰も、何も感じられない。
-------- 寂しい。
そう岬は感じた。
以前は、自分の周りにもっといろんな人がいてくれた気がする。
誰かのせいなのか、それとも自分がそうしてしまったのか、いつのまにか、みんな自分とは一線を引いた遠い世界にいってしまったよう。違う世界に存在するもののように感じてしまう。
自分の本当の心を打ち明けられる家族だったり、何のしがらみもなく気軽に笑いあえる友達だったり。
---------------- そして ----------------
真っ白な心の中に、初めて色彩のある映像が飛び込んできた。あまりの突然さにびっくりして、岬はまばたきをした。
その映像が、スローで鮮明になってゆく。『それ』がなんなのか、岬には分かっている。
『それ』は紛れもなく、自分の中の『大切な人』だった。
自分に一番近しい父や姉とはまた違った感情を抱かせてくれる人物。
騙されていたと知った今でも、完全に突き放せない。忘れることができない。何度も何度も、忘れなければと思いながら、それでも手放すことのできない暖かな日々を自分にくれた人。
不思議なことに、もうその人を思い出しても、狂いそうになるほどの恐怖は襲ってこない。
けれど、代わりに、言いようもなく哀しい感情がこみ上げてくる。
「ああ・・・・・・」
岬の喉からその感情が音となって漏れる。
そこで初めて、悠華は椅子から立ち上がりそばにそっと寄りそうと、少しかがんで岬の両肩をそっと自分の手のひらで包んだ。
「-------- いるのね。あなたにも『大切な人』」
まだ現実とは別の次元に心を漂わせていた岬は、のろのろと顔を上げた。
否定はできない。
もう、逃げられないと分かってしまった。
自分にとって、その人が『大切な人』であることは、こんなにも自分の心の中に刻まれてしまっている。
でも、『自分を犠牲にしても守りたい』という思いは、自分のこととして感じることはできなかった。あまりにもそれは崇高で純粋な思いである気がして。今のちっぽけな自分には、その思いがどんなものなのか分からない気がした。
「--------でも、よく分からないんです。自分の思いがどんなものかも。・・・・・・ううん、それ以上にその人のことすらも。--------少しずつ、分かってきたと思いこんでいたのに、全て、それが幻だったと分かってしまった。馬鹿ですよね、あたし。騙されていたっていうのに・・・・・・それなのに、どうしても、その人のことが頭から離れなくて --------」
つらそうに瞳を閉じる岬に、悠華は微笑んだ。
「--------人を好きになるって、そういうことじゃないのかしら。」
悠華の言葉に、岬の瞳が再びパッと開かれる。