花の馨り(9)
岬は少し後ろを振り返り、悠華の瞳を見上げた。
悠華は岬の肩を両手でゆっくりとさすりながら口を開いた。
「あなたは『その人』に騙されていたと思っているのね。」
「・・・・・・はい。」
答えながら哀しい気持ちがよみがえってくるような気がして、岬は自然に伏し目がちになる。
「・・・・・・それで、その人のこと、好きではなくなった?」
悠華の言葉に岬は視線を目の前のテーブルに戻し、ぎゅっと目をつぶった。
まぶたの裏に映るのは、大切な『彼』の笑顔。
最近はつらいことばかりでそんな顔は久しく見てないというのに、今映るのは笑顔ばかり。
自分が今一番見たいのは、そんな『彼』の笑顔なのかもしれない。
「じゃあ、今私が言えることは一つだけ。・・・・・・たとえ相手にされていないとしても、嫌われていたとしても・・・・・・、」
悠華は岬の肩から手を離し、ゆっくりと、かみしめるように言葉を紡ぐ。
「それでも、自分の思いが変わらないなら--------、」
岬は呆然とそれを聞いていた。
けれど頭のどこかが不思議とはっきりしてくるのを感じていた。
「--------それでいいんじゃないかしら。無理して自分の思いを変えることはないわ。」
岬の気持ちを後押しするように、悠華は鮮やかに言い切った。
「大切なのは相手が自分をどう思っているかではなく--------、『自分が』相手をどう思っているかだと私は思っているの。--------もちろんその思いを相手に押しつけ、相手に同じ思いを無理矢理求めるのは罪なことよ。でも、自分の思いを偽りすぎて歪んだものにしてしまうよりは、認めてあげていいんじゃないかしら。」
「自分の思いを、認める--------?」
岬は悠華に、そして自分に問いかけた。
「そう。--------その人のことが自分にとって大切な人だ、と自分で認めることよ。そうすれば・・・・・・、今自分がしたいことやするべきことが見えてくるかもしれないわ」
そう言いながら、しゅる、しゅる・・・とスリッパの音をさせ、悠華は自分の元いた場所に座った。
「・・・・・・したいこと、・・・・・・するべきこと・・・・・・」
テーブルの木目を見つめながら、ぽつんと岬はつぶやく。
自分がこれから何をしなければいけないのか・・・・・・それはよく分からない。
けれど、今、したいことはなんとなく見えている。
--------会いたい。
『彼』はもう以前の彼ではないのだとしても。
もう傍らにはいられないのだとしても。
それでも、たとえ--------遠くからでもいいから。
--------ただ、『彼』の姿を見つめていたい--------。
自分の今したいことが見えたら、少し心が軽くなったような気がした。
と、同時に体の機能も動き始めたような・・・この感覚は・・・と岬が思い出そうとした途端、ぐう?っ、とお腹が正直に鳴いた。
岬は赤面した。このきれいな絨毯のさらにまた下に穴を掘って入りたいぐらい恥ずかしい。
悠華は軽く握った右手を自分の口のあたりに当て、ちょっとだけいたずらっ子のように笑った。人形のような悠華の完璧な微笑みとはまた違った人間味のある笑み。
「少なくともここに連れてこられた夜からはずっと何も食べていないんだものね。今はもう夕方。さすがにお腹空いたわよね。--------何か消化のいいもの用意させるわね。ちょっとそのまま待っていて」
そう言って悠華はすらりと立ち上がり、部屋から出て行った。
閉まった木製の扉の向こうで、お手伝いさんだろうか?悠華が誰かを呼ぶ声がする。
静寂の中、岬はテーブルの上のココアがまだ残っていることに気づき、カップに口をつけた。
中身には運ばれてきたばかりの熱さはもう感じられなかったが、口にすると温かさは残っていた。
コクン、と喉を通るその温かさが喉の奥までしみこんで、身体の内側に浸透するような気がする。
岬はふと、初対面で、しかもまだどんな立場の人間かも分からない悠華に対してなぜこんなにも自分の思いを吐き出しているのか、不思議に思った。
こんな思い、誰にも話していなかった、--------いや、自分自身でさえも、こんなにきちんと自分の気持ちと向き合っていなかった。他の人に話せなかったのも当然だ。話す気すらなかった。
でも今、自分の心の内をはき出せたおかげでずいぶんと心が楽になった気がしていた。
悠華の雰囲気がそうさせているのかとも思えたけれど、本当はもっと単純なことかもしれなかった。
自分は、本当は誰かにこの思いを語りたかっただけなのかもしれない、と--------。