開放(5)
次の日。
岬は、麻莉絵の家から学校に向かった。
麻莉絵の家の最寄の駅から、桜ヶ丘高校までは1時間ほどかかる。
いつもより早い時間だが、おとといから昨日にかけて嫌というほど眠ったせいか、今朝は早くに目がさえてしまい、相当早く出てきてしまった。
このままだと、朝練にも余裕で間に合う時刻に着く。といっても、まだ新学期が始まって間もないせいで、まだ今日は朝練はないのだが。
悠華は、めちゃくちゃになったもとの制服の代わりに新しいものを用意してくれていたが、着慣れたものじゃないせいか、落ち着かない。
それに、新しい服特有のごわっとした布の感触が、先の御嵩の行為のおぞましさを思い出させるような気がして、心がざわりとささくれ立つ。
悠華の力のおかげか、底知れぬ恐怖感は不思議と感じない。
だが、気持ちの悪さと羞恥の心だけは消えない。
唯一、紺の通学鞄だけがそのままの状態で渡されたもので、岬はたまらず鞄の底を強く握り締めた。
いつもとは反対方面の電車。
都心から離れる方向に向かうため、座席はあいてはいないものの、わりと空いていた。
つり革につかまりながら、岬は流れていく風景をぼんやりと眺めていた。
悠華は昨日、学校にも熱を出して休むと連絡も入れておいてくれたらしい。
保護者からの連絡じゃなくてもいいあたり、うちの高校らしいと思う。まあ、そのおかげで今回は助かったのだが。
根回しがよすぎると、麻莉絵はなぜか怒っていたけれど。
その時の麻莉絵の表情を思い出し、少し口元が笑ってしまう。
悠華は御嵩の婚約者だという。
そうなると、麻莉絵にとってはライバルに当たるわけだから、麻莉絵が悠華のことを苦々しく思うのもよく分かる。
あたしは・・・・・・、どうしようかなあ・・・・・・。
ぼんやりと考える。
自分の気持ちにうそはつかないと決めたものの、実際、克也を目の前にしたらどういう反応をしてしまうのか、自分にも想像がつかない。
そして、克也だけではない。
聖 蘭子にもどんな顔をして会えばいいのかわからない。
幸いにして、二人とも同じクラスではないが、限られた学校というスペースの中ですれ違う可能性は大いにある。
そう思うと、なんとなく心拍数が上がってくるような気がする。
『な、なんか怖くなってきたかも・・・・・・』
岬は一瞬、逃げたくなるような気持ちに襲われた。
バクバクいう心臓をなだめるように、岬は心臓のあたりに手を置いて『落ち着け、落ち着け』と心の中で繰り返した。
『ここで逃げたら何の意味もないんだから。』
そんなことを思ううちに学校の最寄の駅に着いてしまった。
まだ早い時間のため、制服姿の学生はまばらだ。
改札口を抜け、学校へと歩き出す。
急に様々なことが、思い出される。
克也との色々なこと。
そんなに昔のことではないのに、なんだか本当に遠い日々のようで。
「あのころはよかったなあ・・・・・・」
つい、口に出してしまう。
そこで岬ははっとする。
『いけない、いけない。 前向き、前向き!』
ふるふると頭を振った。
これから、どんなことがあっても、自分の気持ちを貫かなきゃいけないのだ。
たとえ、克也が聖と仲良くしているのを見ようが、そんな克也を見つめていたいと思うのだから。
『こんなことぐらいで気持ちが折れてちゃしょうがないのよっ』
岬は自分を奮い立たせた。
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『三年一組』と表示された教室の前で、岬は一度深呼吸をする。
おととい、始業式に来たきりで、昨日一日休んでしまったので、ここに入るのは二回目。
ちらほらと知り合いはいたが、一番仲のよかった晶子とはクラスが離れてしまっていた。
晶子は二組で、二組には克也がいる。
一歩教室に足を踏み入れると、ちょっと女子としては低めの声が聞こえてきた。
「岬?!おはよう?っ!」
声のした方に目を向けると、バスケ部で一緒の片倉 明日香(かたくら あすか)だ。
「熱出ちゃったんだって?もう大丈夫なの!?」
「あー、うん、もう大丈夫」
岬は笑って答えた。
「今日は夜練あるけど大丈夫?もしまだ体つらかったら休みにしとこうか?」
明日香はちょっと声のトーンを落として岬を気遣った。
岬はちょっと考えて、首を振った。
「大丈夫、やってくよ。幸い、体操服も始業式の日に持ってきちゃてたし。」
今の岬は、自ら離れてしまった普通の生活に、なるべく戻りたかった。
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決心したとはいえ、岬は自分の教室から出られずに、ついに昼休みになってしまった。
つくづく自分は弱いなあと思ってしまう。
今日からは午後の授業もみっちりある。
当たり前だが今日の岬は、お弁当を持っていないので学食に行くしかない。
学食というと、教室より大勢の人が出入りする場所。
もしかすると会えるかもしれない、という気持ちと、会うのが怖いという気持ちが交錯する。
「岬ー!学食いく?」
片倉明日香が岬に声をかけてきてくれた。
「うん!」
一人で行くのがなんとなく心もとない岬はホッとした。
ざわめく気持ちを懸命に抑えながら、岬は明日香ともう一人のクラスメイトと一緒に学食へと向かった。
学食には大きな窓があり、そこから春の日差しがいっぱいに注がれている。
おととし改装されたばかりとあって、まだ建物やそこにあるものがだいぶ綺麗だ。
ステンレス製の脚のついた白い大きなテーブルがいくつもあり、たくさんの学生たちでごったがえしている。
入り口の横にある券売機で順に食券を買い、明日香ともう一人に続いて右の方にある食券受付のカウンターへと券を持って行こうと視線を学食の中に移したそのとき、岬は動きを止めた。
------いた。
入り口からは遠く、左奥の方に、三人の男友達と話をしながら窓際の席に着く克也の姿を、岬は見つけてしまった。
自分の瞳は正直で、体より先に一目散に彼の元に駆けつけてしまう。
『------綺麗。』
一番に岬はそう思った。
窓際にいるせいか、色素の薄い克也の髪は陽の光りで頭の輪郭が縁取られ、まるで絵画の中にいるように岬には見えた。
染めているわけじゃないのに、この髪色のせいで以前は教師ともめたこともあったという、たあいのない話を岬は思い出す。
岬は思わず口元を両手で覆った。
思わず叫びだしたいような衝動に駆られる。
『------好き。』
たとえ彼が他のひとを見ているとしても。
たとえ、克也にとって自分は敵以上の存在でしかないとしても。
自分の思いは変わらないのだと確信した。
いつかは忘れられるのかもしれない、いつかは笑い話にできるのかもしれない。
けれどそれまでは、この気持ちを大切にしたい。
自分は彼を見つめていられる。
「岬ー?どうした?」
食券受付カウンターの前にいる明日香の言葉で岬は我に返った。
「ご、ごめん!なんでもない!」
騒ぎ出した心を隠すように、岬は笑った。
ただ、彼の姿が見えただけなのに、ここまで幸せな気分になれるなんて不思議だった。
こんなにも自分の心を、自分で押さえつけていたのかと思う。
『好きな人を見つめる幸せ』というのものがあるのだと、岬は初めて知った気分だった。