涙(2)

 岬はあまりにも出来すぎたこの展開に、これが現実とはすぐに思えなかった。
 目の前の克也も、明らかに驚いた顔をしている。

 これが現実のことなのかを確かめるように、岬はふらふらと克也の方に歩み寄った。
  「・・・・・・克、也・・・・・・」
 確かめるように名前を呼ぶ。

 その声に、弾かれたように克也が動いた。
 
 正面から岬の背中に腕を伸ばし、ぐっと自分の胸に引き寄せる。
 岬は抱き寄せられた格好で、自然にドアの内側------玄関の中へと引き込まれることになった。

 その瞬間に、岬は頭の中が真っ白になった。
 いろいろ、言いたいこともあった、言わなければいけないことも。
 でも、もう全て飛んでしまった。
 一族のことも、御嵩とのことも、そして、さよならと言われたことも。

 岬は克也の背中に手を回し、その存在を確かめるように必死ですがりつく。

 中途半端に開けられ、かろうじて開いていたドアが、ギギ・・・・・・という音を立てて動きはじめ・・・・・・ バタン、と閉まった。

 それでも、克也は岬を離そうとしなかった。

  「 ・・・・・・どうして ・・・・・・?どうして、ここに ・・・・・・?」
 岬を抱きしめる腕の力を少しも緩めず、声だけで克也は岬にたずねた。

 「っ ・・・・・・たかった、から」
 岬は言ったが、最初の方は声がかすれてしまった。

 岬の言葉を確認しようとしたのか、少しだけ、腕の力が緩められる。
 自分と克也との間に少しの隙間ができ、岬は顔だけ下を向く。

 「・・・・・・会い、たかったの。ただ、それだけなの------」

 岬の言葉に、克也が小さく息を呑む音が聞こえた。

 「岬」
 そう名前を呼ぶ克也の声が限りなく優しくて、岬は顔を上げる。

 見上げると、克也の優しいまなざしがあった。
 克也は深呼吸をするように一度目を閉じ、ゆっくりと再びその双眸を開き、まっすぐに岬の瞳を見つめる。

  「俺も------会いたかった。ずっと・・・・・・会いたかった・・・・・・!」
 搾り出すように克也はそう口にした。

 今度は、岬が目を瞠る番だった。

  「追い返されるかと、思ってた・・・・・・」
 思わず本音が岬の口から漏れる。
 岬を見つめ、克也は少し、自嘲気味に笑った。
  「・・・・・・そんなこと・・・・・・俺にできるわけ、ない。」


  「そんな。------だって、あたしとこんなことしてたら・・・・・・彼女に悪い・・・・・・。克也は聖さんと------」
  「それは違う!」
 岬の言葉の語尾に重なるようにして克也が叫ぶ。
 声を荒げた克也に、岬は一瞬びくりと身を硬くした。
 それに気づいたのか、克也は一度大きく息を吸って吐いた。そうすることで自分を落ち着かせているように岬には見えた。
  「聖とはそういう意味では何でもない。本当に。色々あったから信じられないのも無理ないとは思う。でも、信じてほしい。俺が、大切なのは------」
 続く言葉の代わりに、克也は岬をまっすぐに見つめた。
 大切なのは目の前にいる岬だと言うように。

 克也の、思いつめたような真剣なまなざしに、岬もその先何も言うことができなかった。
  「ずるいよ・・・・・・そんなふうに言われたら、何も言い返せない・・・・・・」
 拗ねたように岬は口ごもった。
 少し前の岬なら、それでも信じられないとわめいたかもしれないが、今の岬にはそんな気持ちは起こらなかった。代わりに、自分の顔が一気に火照るのが分かる。

 目の前の青年は饒舌ではない分、こうしてたまにストレート過ぎるほど直球勝負をかけてくる。岬が何も言えなくなるぐらいに。しかも、当の本人は勝負という自覚がないことが多いところがまた問題だ。

 岬は克也の胸に再び自分の頭を軽くもたれさせた。
  「なんか・・・・・・忘れちゃった。言いたかったこと全部。克也が、変わんないんだもん。一族のこととか、蘭子のこととか、みんな夢だったのかも、なんて思いたくなるよ・・・・・・」

 克也の表情が、少しこわばるのが分かって、岬はあわてて話題を変えた。

  「ところで、よかったの?あたし、この部屋に来ちゃって・・・・・・。あんなにこの部屋にあたしが来ることを嫌がってたのに-------入っちゃったよ?」
 克也の表情から、自分の心に芽生えた不安を打ち消すように、岬はわざとおどけて首をかしげ、克也を見上げた。

 そこで克也も初めて気づいたらしく、あ、と小さく声をあげたが、少し考えるような間を置いた後
  「もう、今さらか」
 と小さく笑った。
 何が『いまさら』なのかは克也は言わなかった。
 単純に『もうこの部屋に入ってしまった』ことか、それとも他の意味を含んでいるのか。
   

  「・・・・・・岬が、嫌じゃなければ・・・・・・入る?」
 少しだけはにかんだような顔をしながら、克也は扉一枚の向こうの部屋を指差した。

 岬はどきっとした。
 それは、一族とかそんなことは全く関係ないところの理由で。
 一人暮らしの男の部屋に入るということを、同性の友達の部屋に入ることのように簡単に考えてはいけないということは知っている。
 それでなくても御嵩にあんなことをされた後だ。
 いくら好きな相手でも、同じようなことをされたら、と思うとどきりとする。
 岬は体がこわばるのを感じた。

 でも、克也がどんな暮らしをしているのか、もっと『知りたい』と思う好奇心もある。

 そして何より、今を逃したら全てにおいて前には進めない------そんな気がした。

 だから岬はうなずいた。

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