涙(3)

 克也に続いて靴を脱ぎ、玄関を上がる。
 左手に見えた洗面所らしきものを横目に見やりつつ、岬は正面の擦りガラスのはめ込まれた扉の中に入る。

 入ってすぐに黒いローテーブルが目に入る。
 意味はなかったが、なんとなくそのテーブルをしばし岬は見つめてしまった。

 部屋の隅から克也は座布団を一枚持ってきて、そのテーブルの横に置いた。
 「ここ、座っていいよ」

 促された岬は、少々ぎこちない動作のままちょこんとそこに座った。

 克也は冷蔵庫から一リットル紙パックのりんごジュースを出してきて、岬の目の前の薄青いガラスコップに注いだ。
  「克也、りんごジュース好きなの?」
 克也と紙パックりんごジュースの組み合わせがなんとなく面白くて思わず聞いてしまった。
  「飲むことは飲むけど、別に買って飲むほどでもないよ・・・・・・これは尚吾がこの前、勝手に・・・・・・」
 そこで、少々しまった、というような顔をして口ごもる克也。
 『尚吾』その名前は一族に連なる名前。
 先ほどから克也は、そういう話題を避けようとしているのがよく分かる。
 そんな克也の様子に気づかない振りをして岬は笑う。
  「利由先輩が持ってきたの?」
  「あ、うん」
 克也は明らかにホッとした表情を見せる。


 克也は以前、岬がこの部屋に来ることをずっと避けていた。
 それは何のために?
 聖 蘭子とのことを隠したいためかと思ったときもあった。
 けれど、なんとなく今は違う気がする。

 そこで、ふと思い当たる。
 聖 蘭子はいったいどういう人物?

 岬は一口ジュースを飲むと、対面に座る克也をまっすぐ見据えた。
  「ねえ。――今日ははぐらかさないで教えてほしいの」

 克也の表情がこわばるのが岬にも伝わる。
 岬だって本当は、こんな話題出したくない。穏やかに、抱きしめあえるだけなら、どんなにいいか。
 けれど、ここまで来た以上、岬はもう前に進むしかないと思った。
 このままじゃ、今までと何も変わらないのだから。


  「聖 蘭子は・・・・・・竜一族なの?」
  「―― 一応、血筋的にはそういうことに、なるな。正体は、まだ分からないが」
 厳しいその口調に『長』の顔がちらりと見える。
  「正体?」
  「何を考えているのか分からないという意味だ。あいつは、転校早々、俺に脅しをかけてきた。俺が長だということを・・・・・・岬に知られたくなければ、自分を仲間にしてほしいと。」
 悔しさもにじませながら、克也がテーブルの上で握るこぶしに力を入れた。

  『――そうだったんだ。』
 ようやく岬は心の底から納得することができた。
 蘭子に対して、克也が強く出られなかった理由。

  『――あたしに、知られたくなかったんだ・・・・・・。』

 それなら、全ての行動につじつまが合う。

 ホッとすると同時に、自己嫌悪感も感じ、岬はうつむいた。 

  「ごめん・・・・・・!」
 謝罪の言葉が岬の口をついて出る。
  「あたし、そんなこと知らなくて、克也にひどいこと、いっぱい言った。――ごめんなさい、ごめん・・・・・・」

 うつむいたまま謝り続ける岬に、克也は驚いた顔をした。

  「――どうして、お前が謝る?」
  「だって・・・・・・」

  「お前が謝ることなんかない。――謝らなければいけないのは、俺のほうだ。」
 克也は、ささやくように言った。

  「俺は臆病で、弱い人間だ。――お前に、嫌われるのが怖くて、全てを後回しにした。聖をはっきりと拒絶できなくてお前を苦しめてばかりいた。俺が、臆病者だったせいだ。それに――、」    

 克也は握り締めた自分のこぶしを見つめる。

  「もっと早くに、伝えなきゃいけなかった。自分と向き合わなきゃいけなかった。俺は――」

 そこで、克也は少しだけ言葉を切った。

  「岬にはどう思われるか分からない。だけど、今言わないと、後悔する。」

 克也の言葉に何か強い意思を感じ、岬は顔を上げた。視線がぶつかる。

  「俺は竜一族だ――お前が許すことのできないあの、巽志朗と同じ――。」

  『 巽 志朗 』

 その名前に、岬は途端に体がこわばるのを感じた。
 全身に嫌悪感が走る。

  「俺がしっかりしていなかったせいで、お前の大事な親友を・・・・・・守れなかった。ずっと、謝りたかった。――ごめん・・・・・・」
 克也が岬の前でテーブル越しに頭を下げた。

  「でも、克也が、巽志朗を動かしていたわけでは、ないんでしょう?」
 うつむいたまま、岬が問う。

 岬の問いに、克也はハッとしたように顔を上げた。
  「もちろん違う。――ただ、長として、あいつを止められなかった。その責任はある。」
 他人の落ち度を、それを管理できなかった自分の落ち度とする、上に立つものの瞳。克也が長なのだということが痛いほど伝わってきて、岬はなんだか寂しくなる。

  「――でも、何より謝らなければいけないことは――」
 克也は、苦しそうに瞳を閉じた。
  「竜一族の長だってこと、ずっと言えなくて、悪かった――。お前が奈津河一族だと知ったのはお前と付き合った後で――、お前に嫌われたくなくて言えなかった。 岬を――俺は、失いたくなかった。これ以上ないくらい、どうしようもなく、お前に・・・・・・惹かれていたから。」

 呆然と、岬は克也を見つめた。
 頭の奥ががじいんとしびれるような感覚。
 克也の言葉が、他の感覚を麻痺させる。

  「一族とか、そんなのを超えたところで、お前が必要なんだ。――今も、これからも――お前に、そばに、いてほしい。」

 その言葉に、岬は包まれるような幸せを感じた。
 それと同時に、心をぎゅうっと掴まれるような心苦しさをも覚える。

 嬉しい言葉。
 まさか、こんな風に言ってもらえる日が来ると思わなかった。

 けれど――。

 脳裏に焼きついて離れない、御嵩とのあの出来事。
 執拗に絡みつく御嵩の舌と指の感覚。

  「・・・・・・っ!!」
 鳥肌が立つようなおぞましさを感じて、とっさに岬は自分で自分の両腕を抱く。

  「あたし・・・・・・克也に、そんな風に言ってもらえる資格・・・・・・ないよ・・・・・・」

 岬の言葉に、克也の眉がひそめられる。

  「あたし、もう前の自分じゃない・・・・・・あたしっ・・・・・・。中條さんに・・・・・・」

 何を言っているのかと目を見開く克也の瞳が、岬には突き刺さるように痛かった。
 この場から逃げだしたいほどに苦しい。
 岬には克也への謝罪の言葉しか浮かんでこなかった。
 克也に嫌われてしまうのではないかと思うととても怖かった。

  「克也・・・・・・っ!ごめん、なさい・・・・・・。あたし、馬鹿だった。あんな、あんなことされるなんて、っ、お、おもわなくて・・・・・・っ」
 途切れ途切れに岬は言った。心の動揺は、震えとなって岬の言葉を邪魔する。

  「岬は何も悪くない」
 きっぱりと克也は言った。
  「悪いのは、中條だ。あいつは、男として――いや、人間として、最低のことをした。あいつだけは、許せない・・・・・・!」
 そう言って、遠くに視線を移す。ここにいない者を睨むように。
 その言葉を聞いた瞬間、岬は冷水を浴びせられたような衝撃に襲われた。

  「克也――、どうして、それを――!?」
 自分はまだ何もきちんと説明できていない。けれど、克也にははっきりと何の話なのかが分かっているようだった。
 自分から話を振っておきながら、すでにそれが克也に知られていたことに、岬の頭の中は真っ白になった。呆然と克也の言葉を待つ。
 
  「――ある筋からの情報で、聞いた・・・・・・」

 『ある筋』とはどこか、そこが少しひっかかったが、今はそれを追及する気にはなれなかった。それよりも、克也の言葉から伝わる怒りが自分に向けられたものではないことが分かっていても、御嵩にあんなことをされてしまったうしろめたさを感じる今の岬には怖かった。

  「克也、克也・・・・・・!あたしのこと、嫌いに、ならないで――」

  「岬は悪くない。どんなことがあったとしても、お前はお前だ。何も変わらない。嫌いになんてならない。」
 克也の言葉に、岬は確認しなければいられなかった。
  「・・・・・・本当に?本当にこんなあたしで、いいの?」
 
 克也は大きくうなずく。

 そして怯える岬を気遣うように、克也は少しだけ岬の方に進み寄った。
  「お前じゃなきゃ、ダメなんだ。もしも、岬が許してくれるなら――これからも、そばにいてほしい――」
 克也の瞳は真剣だ。
 岬との距離は縮まったものの、岬に触れるか触れないかのところで止まっていた。
 手を伸ばせばすぐに触れることができるのに、克也は動こうとしなかった。
 その手が小刻みに震えているのを見たとき、克也は動かないのではなく、【動けない】のだと分かった。

  『――そうだった。』

 この人は、不器用な人だったと、岬は思い出す。
 涼しい顔で何でも器用にこなすくせに、人との関わりにおいては人一倍不器用になる。
 いろいろなことが明らかになった今でも、それは変わらないのだと感じた。
 蘭子とのことがあり、さらに一族のことがあって、見失いかけていた『蒼嗣 克也』という一人の人物を、岬は改めてまっすぐに見つめることができた気がした。

 岬は身を乗り出し、克也の手に自分の手を重ねる。
  「あたし、克也が好き・・・・・・!離れたくない・・・・・・。あたしのほうこそ、克也が許してくれるなら、これからも克也のそばにいさせて!」

 その瞬間、・・・・・・お互いに腕を伸ばす。

 ――二人の距離が最短になる――。

 克也の体温が、岬の心の何かを溶かしてゆく気がしていた。
 少しだけ、腕を緩めた克也を見上げると、克也の瞳がすぐ近くにあった。
 どちらからともなく、唇を重ねる。

 心が――熱くなる――

 温かいものが岬の頬をつたい、岬は自分自身ではっとした。

 どんなに泣きたいと願っても、全く出てきてくれなかった涙。
 克也に「さよなら」を言われた『あの時』から、岬の中の時が止まっていた。
 それが今、克也の腕の中で再び動き始めた――そんな気がした。

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