忌まわしき夜(3)

 しばらくの沈黙の後、麻莉絵は少しだけ言いづらそうに切り出した。
 「岬、......あれから......会ってないの?」
 "誰に"とは岬は聞かなかった。分かりすぎるくらい分かっていたから。
 「......っ」
 岬は反射的に自分の両手で両耳を押さえた。
 後に続く言葉を無意識に拒絶していた。
 
 逃げ道はもうない。
 『あの時』までの逃げ道は。
 あの時のことはおぼろげにしか覚えていないのだが、自分が御嵩の制御を破壊してしまったということは後でみんなに聞いて理屈では理解できていた。
 自分が御嵩に術をかけられていたことを聞かされて知ったとき、不思議と御嵩への怒りはわいてこなかった。逆に感謝の念すらおぼえた。まやかしでもなんでも、そのおかげで自分は嫌なことを深く考えずにいられたのだから。
 けれど、今はもうその『助け』もない。
 その『助け』を破壊したのは他ならぬ自分自身だ。
 誰も責めることはできない。
 自分の力で自らの首をしめることになってしまったと思うと、岬はやるせない気分になるのだった。
 『助け』がなくなったせいで、岬は自分の心がそれまでにもまして不安定になっていると感じる。少しでもバランスを崩したら、そのまま自分自身が崩れてしまいそうな感覚に襲われる。

 そう、今だって。

 考えたくもないことを考えなくてはならない恐怖で全身に震えがはしるほどに。

 麻莉絵は、両耳を押さえたままじゅうたんの上にひざをついて震えている岬のそばに寄ると、背中の方から岬の両肩に自分の両手をそっと乗せた。
 「ごめん、岬。ごめんね。もう聞かないから、落ち着いて、ね?」
 幼い子に言い聞かせるような、優しい口調に、岬も少し落ち着きを取り戻した。
 「でもね、岬。」
 後に聞きたくないことが続くことをうかがわせる麻莉絵の言葉に、岬は再び体を固くする。
 「岬は何も知らなかったんだもの。岬は何も悪くはないのよ」
 麻莉絵は、自分がこうなってしまっている理由を、『敵を好きになってしまったこと』だと思っているのだろうか?
 麻莉絵にとっては、岬を元気付けようとする優しさから出た言葉なのだろうが、今の岬には逆に心に突き刺さる言葉だった。
 

 『違う』


 そう言いたかった。
 自分を苛んでいる自責の念。それはそんな種類のものじゃない。
 自分のこのどうしようもなく重いこの思いの原因は。


 それは相手の好意が偽りだとは知らずに、嘘を本気ととらえていた自分の愚かしさ。『知らなかった』ということそのものが、今の岬を苦しめている一番の元であった。


 今考えれば、確かに『彼』は自分に対してはじめから一線を引いていたように思える。
 自分のことをあまり話してくれなかったのも、自分のアパートに連れて行ってくれなかったのだってそう。他にもそういう目で見れば、そんなことはいくつもいくつも見えてくる。
 『彼女』はいつの間にか現れて『彼』のそばにいた。自分が見せてもらえなかった『彼』のそんな部分も、きっと『彼女は』見ていたのだ。
 ということは、『彼女』はきっと------


 そこで、岬は全身に冷や水をかけられたような感覚に襲われてはっとした。


 ------今、自分は何を考えていたのか。


 浮かぶのは微笑をたたえた『彼』の顔。
 いろんなことがあったというのに、自分にはそれしか思い浮かべられない。


 嫌なのに。
 考えたくはないのに。
 それなのに忘れられない------!


 ぐらり。
 オリーブ色のじゅうたんが敷かれた床が、岬の周りだけぐらりと傾いだような錯覚に陥る。
 めまいがする。
 
 
 「い、...いや......!」
 岬の口からかすれた叫びがもれる。瞳は見開かれて不自然なほど小刻みに揺れる。
 とっさに岬は自分で自分の両腕を掻き抱いた。
 震えが止まらない。
 
 岬のただならぬ変化に、麻莉絵もあわてた様子で岬の顔を横から覗き込んだ。
 「ごめん、ホントに今度こそもう何も言わないから、ごめん、ごめんね...」


 そして、麻莉絵は岬を抱きしめながら、ひたすら謝った。


  *****     ******


 「どうでした?...」
 オフホワイトのコートの襟の左右を両手で合わせながら、エレベーターを降りてきた麻莉絵に、将高は控えめな声でたずねた。
 「う...ん...。」
 麻莉絵は将高を一度見上げた後、再び自分の足元に視線を落とした。
 そしてそのまま無言で縦横に整然と並ぶポスト群の横をゆっくり通り過ぎる。その半歩後ろを将高が続く。
 自動扉が開き、外に出た麻莉絵が、ふっ、とつぶやくように言った。
 「あの子、泣かないの。」
 「え?」
 ちょっと意表をついた麻莉絵の言葉に、将高は視線を前方から麻莉絵の横顔に移した。
 麻莉絵はゆっくりと歩きながら続けた。
 「泣いた様子もないの。『泣きたいのに泣けない。涙が出ない』って言ってた......」
 そう言って麻莉絵は後ろにそびえる14階建てのマンションを、足を止めて振り返り、右手をかざして仰いだ。


 再びの沈黙が訪れる。


 「あたし...御嵩様には悪いけど...。どうもあの朴念仁が悪いやつだとは思えないのよね...。っていうか、あの男が竜の長だなんていうこと自体、目の前にしてもまだ信じらんないわよ...」
 「『朴念仁』...ですか?」
 麻莉絵らしいもの言いに、将高は少し苦笑した。
 「そうよ!...だって何も言えなかったのよ?浮気だか何だか知らないけど、あの高飛車女と一緒にいるところを岬に見つかって、うろたえるだけで何も言えなかったんだから、あの男は!...そんな人が、いくら岬が人を信じやすい甘ちゃんだからって、平然と嘘をついて騙せるかしら?」
 そこまで一気に言って、ちょっと興奮しすぎたことに気づいたのか、麻莉絵はちょっと間をおいてからふふっ、と笑った。
 「こんなこと思ってるなんて知られたら、御嵩様に怒られちゃうわね。------きっと岬があまりにもかわいそうだから、都合のいい風に見えちゃうんだわね......」
 いたずらっぽく微笑む麻莉絵を将高はまぶしそうに目を細めて見つめる。
 そしてにっこりと笑って告げる。
 「......そんなところがあなたらしいくて、いいですよ。」
 麻莉絵はそんな将高の言葉に少しだけ面食らったような顔をして、やがてにこりと満面の笑みを浮かべた。
 「相棒が将高でよかった。」
 そう言ってくるりとマンションの方に背を向けると、再び歩き始めた。

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