忌まわしき夜(5)
------風が強い。
降り注ぐ桜の花びらのシャワーの洗礼を受けながら、一人、岬はぼんやりと、砂も共に巻き上がる校庭のそばを歩いていた。
本当は、来たくなかった。学校なんて。
でも、姉の港はそんな岬のワガママを許してはくれなかった。
学校へ行くふりをしてどこか違うところへ行こうかとも思ったけれど、行きたいところもなかった。ふらふらと歩く先は気が付いたらここ、ということになってしまっていた。
「あっ、岬、おはよう!」
自分の名前が呼ばれたことにはっとして顔を上げると、数メートル先に見慣れた顔があった。昌子である。
晶子とは自分から一線を引いてしまったようなところがあるので以前のように何でも話せるというわけにはいかないが、それなりにつきあってはいた。克也のことについては岬ももちろん自分から言うはずもないが、晶子も気を遣っているのか、あれからその話は一切していない。
「あ、えーと、おはよ」
表情だけは無理に笑いを作って岬は答えた。
「学校、始まっちゃったねー。休んでると学校来るのも面倒になるよねー」
ニコニコと無邪気な笑顔を向ける晶子。
「ほんとだねー。でも休んでばかりいてもボケちゃうしね...。」
うわべだけの言葉が口をすべる。
晶子と肩を並べて校舎に向かって歩きながらも、岬は自分の周りの『いつもの風景』をどこか遠くの出来事のように見ていた。
いつもの春休みとは違い、家にこもってばかりいたので、家族と麻莉絵以外の誰ともしばらくは会っていなかった。だから、こんな『普通』の学校の風景が、たった2週間見ていなかっただけなのに、ずいぶんと久しぶりのような気がする。
下駄箱の前では、教師がクラス替えのお知らせのわら半紙を配っている。
少々変色したわら半紙に、ずらずらと名前だけが並んでいる。
手が震えている理由を岬は十分に承知していた。
自分の名前とともに、おのずと探してしまう『名前』。それを、自分と違う列に見つけたときには、岬は安堵のため息を押さえることができなかった。
『よかった...。違うクラスだ......』
「どうしたの?大丈夫?」
どっと疲れたような岬の様子に、晶子が少しだけまゆをひそめた。
「ん。平気」
口の端で微笑むと、唇が、心と一緒にピキキ......とひきつれるような気がした。
------ふと。
紙面を見つめていた岬の五感の琴線に触れるものがあった。
いけないと思っているのに、気が付くと顔を上げてしまっている自分。
見つけてしまった。
下駄箱の向こうの廊下に。
------一番会いたくなかった人。
会いたくなかったから、だから学校にも来たくなかった。
こんな瞬間が怖かったから。
心が、悲鳴を上げていた。
『ここから逃げなきゃ』
そう、思うのに。
岬の全身は、壊れたロボットのごとく動けなかった。
心というモーターだけが高速で空回りしている。
心とは裏腹に、瞳すらも逸らすことができなかった。
せめて自分が動けないなら、相手に早くここから去って欲しいと切に願う。
それなのに、どうして、そんなささやかな願いすらも神様は叶えてくれないのか。
相手も、ただまっすぐにこちらを見ていた。
けれど、その瞳から感じ取れるものは何もない。全ての感情が取り払われたような、ただ、無機質な視線だけが岬の心を突き刺し、えぐり、身体全体をしびれさせる。
息をすることも忘れそうな空間を破ったのは、相手を呼ぶ誰かの声だった。
途端に相手の視線が自分から逸れる。
そして。
すうっと相手の存在がその場から移動した。
ギュッギュッ、という、相手の上履きが廊下にこすれる音が遠ざかる。他にもたくさんの音が周りにあふれているというのに、その音は、強く岬の耳についてしまっていた。
その音が周りの喧騒に吸い込まれてやっと聞こえなくなった頃......
岬はその場にぺたりとへたり込んだ。
みんなが土足で歩く場所だったが、そんなことは今の岬にはどうでもいいことだった。
ひやりとした床にひろがる砂の感触がざらりと岬の心も舐めていく。
急に肺にいっせいに空気が入り込んで、逆に息苦しい。
------助けて。
誰か助けて。
こんなのは嫌。
つらいのは嫌。
けれど、今の自分には逃げ道がない。
もう、都合よくこの状態から逃れることができないのは、岬も重々承知している。これからずっとこの苦しさを抱えたまま学校生活を送る自身がなかった。
どうしたらいい?
どうすれば......?
視線を彷徨わせながら、岬はぼんやりと床の塵と砂を見つめた。