忌まわしき夜(6)
都会の真ん中に高くそびえる中條エンタープライズ本社ビル。
闇色の空に、ビルの輪郭を点々とかたどる赤色の光が蛍のように点滅している。
8階での会議を終え、スーツ姿の男性たちがひとつの部屋からどやどやと出てくる。まだ会議の熱覚めやらず、といった調子で口々にこれまでの議題について語り合っている。
「頼むよ」
御嵩は、分厚い書類の山をすいっと隣にひかえた男性の手へと渡した。秘書であるその男は、当然のようにそれを受け取る。
御嵩は表向きの仕事の上では自分の身近で女性を働かせない。
麻莉絵や将高がよく嫌味を言うほどプレイボーイとして名高い御嵩であったが、『自分は女性をこき使いたくはないからだ』という理由で、それだけはずっと昔から曲げたことがない。
そういう気持ちが全く嘘であるわけではない。
けれど本当は、わずらわしいのだ。
女性は仕事に私情を挟みやすい。
良く言えば情が深いのが一般的だ。
一族のことと表の仕事の両方を抱えている自分にとって、特に表向きの仕事はさらりと終わらせたいのが本音だ。仕事を効率よく成功させるためには非情にならざるを得ない場合に、情の深さは命取りになる場合がある。それで足元をすくわれるのはごめんだ。
もしかすると自分は基本的に女性が嫌いなのかもしれないと御嵩は考える。
そんなことを考えつつ、ふと視線を正面に戻すと、廊下の曲がり角にちょこんと立っている制服姿の女の子が目に留まった。
何かあったときのために、一応は『彼女』がここに入れるようには計らってある。とはいえ、実際に来ることはあまり想定していなかった。
「岬」
その女の子の名前を御嵩はやんわりと呼んだ。
場違いな様子にすっかり萎縮していた岬は、御嵩の呼びかけに少しだけはにかんだような笑顔を見せた。
「どうしたの?」
御嵩は優しく問う。
「え?あの...でも...、ここでは......。」
岬は言いづらそうにあたりをきょろっと見回した。
「分かった。...では僕は自分の車で帰るよ。」
最初の答えは岬に、そして後半は秘書に告げた。
岬は御嵩の促すままに車に乗り込み、御嵩の私邸へと向かった。
車の中では二人とも一言も口をきかなかった。
岬はひたすらヘッドライトの創る光の筋を眺め、御嵩は前だけを見つめてハンドルをきった。
御嵩の邸宅に着くと、御嵩は岬を連れてまっすぐにいつもの応接室へと直行した。
50才ぐらいの家政婦一人と会ったぐらいで他には誰もいないようだったが、今の岬にはそんなことは全く気に留める心の余裕はなかった。
ただ、心にあったのはひとつの願いだけだった。
「何かあったの?」
御嵩は二人分の紅茶をカップに注ぎながら岬に向かって口を開いた。
御嵩の、小さい子に語りかけるような声に導かれるように、岬は小さな声で願いを口にする。
「もう一度......。もう一度、あたしに術をかけてくれませんか!?」
御嵩は眉をひそめた。
「術?」
御嵩の問いに岬は大きくうなずいた。
「そうです...!この間、あたしにかけたっていう、あの術です...!」
岬は、この間御嵩がかけた、『余計なことを考えなくてもいいようにするための術』のことを言っているのだ、とすぐに分かった。
しばらくの沈黙。
その後、御嵩はため息とともに告げる。
「無理だよ」
懇願のまなざしを向けていた岬の表情がぴくりと動いた。
御嵩は言葉を続ける。
「あの術はね。かけられる本人が気づいてしまったらもうかけられないものなんだ。」
入れた紅茶を、二人を隔てるテーブルの真ん中にゆっくりと置くと、かちゃり、というカップとソーサーがこすれる金属音が、静かな部屋に妙に響いた。
岬は立ち上がり、目の前のテーブルから御嵩の方へと身を乗り出した。
「なぜ...、なぜですか!?あなたはすごい能力を持ってる、奈津河の中で一番すごい人なんでしょう!?なのにどうして...」
岬はひどく狼狽した様子で御嵩に迫ってきた。その手はぶるぶると震えている。
「......。僕はそれほどすごいものでもないよ。」
御嵩に似合わない気弱な言葉に、岬の表情はさらに険しくなる。
御嵩はソファの背もたれにもたれかかりながら、そんな岬をまっすぐに見つめる。
「僕にもできることと、できないことがある。------殊に、君に関することはね。」
「あたしに、関すること?」
岬の険しい表情は少しだけ緩和されたが、納得できないといった様子は変わらない。
御嵩は目の前の紅茶に手を出した。しなやかな指で白いティーカップをすくい上げる。
「以前も言ったと思うけど、君の持ってる能力はちょっと特殊なんだ。使い方を誤るとこの世界すら消失させてしまうほどの脅威の能力だから...。君の持ってる能力と無関係に君に術をかけることははできないから、簡単にはいかないんだよ。」
言葉を失っている岬に、御嵩は再び大きく息を吐くと優しく告げた。
「とりあえず、その紅茶を飲んだら今日はもう帰ったほうがいい。お家の人が心配するといけない。今後のことは少し考えておくから、また日を改めて話し合おう」
そう、御嵩が口にた時だった。
目の前に、立ち上がっていた岬が、急にそのままがくりとテーブルに手を着いてその場に崩れかかった。
「栃野さん...!」
慌てて御嵩はテーブル越しに身を乗り出して岬の体を支えた。
「どうしたの?大丈夫?」
御嵩の言葉に、岬はうつむいたまま、小さな声で何かをつぶやいた。
「......て......」
消え入りそうな声は最初、はっきりとは聞き取れなかった。
「何?」
岬の体を両腕で支えながら、御嵩は身をかがめてうつむく岬の顔を下の方から覗き込んだ。
岬の表情は、苦痛にくしゃりとゆがめられているような、何ともいえないものだった。
「助けて...」
その体勢のまま、岬は差し迫った表情をして御嵩の両腕にしがみついた。
「お願い、中條さん!お願い、お願いです!......もう一度、もう一度あの術を私にかけて...!」
岬は掴みかからんばかりに御嵩の腕を揺らした。
「ちょっと待って、栃野さん......。落ち着いて」
御嵩も必死で岬を抑えようとするが、今の岬には何も聞く耳を持っていないようだった。
「あたし、もう嫌......嫌なんです...!」
吐き出すような岬の声。
「考えないようにしているのにどうしても頭から離れない...!嫌なことはもう考えたくないのに、次から次へと浮かんでくるのは...!」
そう言う岬の身体はぶるぶると震えていた。
あえて『彼』の名前を口にしない。
嵐におびえるヒナのように、無防備に、目の前で震える岬を、御嵩は特別な思いを持って見つめた。
「姫------」
御嵩は、自分の中で何かが変化するのを感じた。
自分であって自分ではない『何か』が頭をもたげる。
自分の左腕を痛いほどにつかむ岬の指先。それをゆっくりと己の右手で優しく引き離す。
「御嵩さ......」
岬がそう口にするのを御嵩は唇でさえぎった。
「......!!」
あせって逃れようとする岬をテーブルの上に引きずり上げ、その堅く冷たい板の上に押し倒す。テーブルの上にあった紅茶のカップがじゅうたんの上にカシン!と音を立てて転がった。テーブルの端からはまだ温かい紅茶が、まるで血が流れるように床へと滴り落ちる。
何かを言おうとする岬の唇をふさいだまま、御嵩は彼女を押さえる腕に力をこめた。