忌まわしき夜(8)
岬は走った。
いや、かなりふらふらしているので歩いたといった方が正しいいのか。
いつの間にか岬は建物の外に出てはいた。
けれど、ここがまだ御嵩の邸宅の一部だということは、所々に配置されたほのかな電灯の明かりに映し出された外国風の置物や、丁寧に整備された木の枝などから分かる。
どこをどう通ってここに来たのか全く分からなかった。そして、どこをどう行ったら本当に外に出られるのか。
でも、足を止めたらまた御嵩が襲ってきそうで、岬は進み続けた。
テーブルにこぼれた紅茶が制服の背中から左肩にかけてしみこんでしまったようで、肌にぴたりとついて気持ちが悪い。まるで先ほどの御嵩の舌と指のようにねっとりとまとわりつく。そして外のひやりとした空気にさらされて余計に冷たく、身体の芯から岬の熱を奪っていくようだった。
『馬鹿だ。』
『あたしは大馬鹿だ。』
今更ながら岬は後悔した。
自分の苦しい思いから開放されたいということだけに気をとられて、こんな夜に男の家に一人でのこのこついていくなんて。
大きなお屋敷過ぎて、たくさんの使用人がいるものと信じて油断していたというのもある。今まで御嵩の邸宅を訪れた時はたいてい麻梨絵がいたし、たくさんの使用人がいたからだ。それが『たまたま』だったのかもしれない。それとも、人がいない今日がたまたまだったのか。
さきほどの御嵩の行為。
口付けだってこれまで経験したものとは全く違う。
『あたしが...知ってるのは...』
また、思い出してしまう。
けれど、今はそれがとてつもなく愛おしい。
あれほど口にするのが怖かったその名前を、岬は震える唇で呼んだ。
御嵩との忌まわしい口付けの余韻がまだ残されたその唇で。
「か、つや...あ...」
その名を口にしたら岬は泣きたくなった。
けれど、涙が出てこない。
『こんな時でさえ、泣けないの...?』
自分の涙はいったいどこへ行ってしまったのか。
あまりに色んなことがありすぎて、涙もどこかへ置き忘れてしまったのか。
岬はそのまま、芝生の上にかくんと膝をつき、崩れるようにぺたんと座り込んだ。
一度歩みを止めてしまうと、岬にはもう立ち上がる元気も残されていなかった。
『行かなきゃ......』
懸命に逃げようとする心とは裏腹に身体が鉛のように重い。
それでなくても最近はよく眠れていない。
一度にたくさんのことがありすぎて、岬の頭はパンクしそうだった。頭ががんがんと痛む。
『もう、......だめかも......』
そう思ったら一気に全ての力が尽き、目の前の景色もゆらゆらと揺れ始めた。
次第に暗くなる視界の端に一人の人物を映しながら、岬は意識を手離した。