罪の重さ(5)
マンションの三階。
岬は克也を家の中に案内した。
克也はさすがに気が引けたらしく、しばらく岬の家に泊まることを渋ってはいたのだが、結局、岬が克也に願い、父親も姉もいない今日は心細いからと泊まってもらうことにしたのだ。家族の留守中に、家に克也を上げることに抵抗がなかったとはいえないが、確かに今の岬にとって、今晩は一人で孤独に夜を過ごすことの方が耐えられそうもなかった。
一番奥の広い部屋のソファに克也を腰掛けさせ、岬はキッチンへお茶を入れに来た。
自分がいつも使っているカップと、もうひとつ、めったに出すことはないお客様に出す用のカップを棚から出す。
キッチンからカウンター越しに見える克也の姿。なんだかここが自分の家であってそうじゃないような、くすぐったいような、ふわふわした気分になってくる。
『でも』
浮かれてばかりはいられない、と岬は心の中で自分を叱る。
克也にきちんと謝らなきゃいけない。
もう、命を絶とうとは思わないけれど、自分が罪を犯したと気づいてしまった以上、このまま何もなかったように過ごすことはできない。きちんとけじめをつけなければ前に進めない。
急須から注がれるお茶の音を耳にしながら、岬はそればかりを考えていた。
しばらくして岬は、ソファの前にある天板がガラス製になっているローテーブルにお茶の入ったカップを置き、テーブル越しの正面の床に膝をついた。
岬を見下ろすようになった克也は慌てて席を立とうとするが、岬はうつむいて首を振った。
「――そのままでいて、克也。どうしても、一度ちゃんと謝らせて。」
岬の言葉に、克也は中腰のまま動きを止めた。
「あたしが克也の一族の人たちを――、何人もの命を奪ってしまったこと――、本当に、本当にごめんなさい。何度謝っても、謝りきれない。――謝ってすむ問題じゃないのは分かってるけど――、あたしには、こうするしか――。」
克也がどんな顔をしているのかを確かめるのが怖くて顔を上げられず、岬はうつむいたままその場に手をつき、さらに頭を下げた。
「本当に、ごめんなさい......!!」
「岬......」
克也は岬のそばまで来ると、同じように床に膝をつき、岬の肩に手を回す。
温かい克也のぬくもりに、驚きとともに再び泣きたいような切なさがこみ上げてくる。
「さっきも言ったけど――、俺は、岬が生きていてくれれば、それでいい。」
優しくささやく。
「ダメ、ダメだよ!そんな風に誤魔化しちゃ嫌だ」
岬はふるふると首を振った。
そんな岬の肩を抱く克也の手に、より一層力が込められる。
「俺にとっては岬が生きてくれることが一番重要だから、俺は何も辛くない。だから――俺に対しては、謝らなくていい。」
きっぱりと言われて岬は次の言葉を継げなくなり、少しだけ二人の間に沈黙が流れる。
岬の肩を引き寄せたまま、克也は口を開いた。
「ただ......、岬が人を殺めたこと――それは事実だ。違う、とは言わない。――確かに、岬の力によって失われた何人もの命と、泉さんのように傷ついた心が存在するから。」
克也のこの言葉はどこか厳しさを持っていたが、岬にとっては限りなく優しい言葉として心に響いた。
気休めを言われたところで岬の心は苦しいままだ。例えば『気にするな』と言われても気にしないわけにはいかない。自分が何をしたのか、一番それが分かっているのは自分なのだから。それならば、まだ『お前が人を殺したんだ』と責められたほうがよほどマシだ。
もしかすると、克也も同じ思いを抱えてきたのかもしれなかった。だからこそ言える言葉なのかもしれないと、岬は思った。
しばらくして、克也は言葉を選ぶようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「一族の争いの中に身を置いていると、命がいとも簡単に扱われていくことに、いつのまにか慣れてしまいそうになる。それほど簡単に――命が消えてしまうから。だから俺は、一族の中に自分が浸かりたくなかった。奪った命の重さに気づけない自分になりたくなかった。けれどいつの間にかその中に組み込まれていて――。」
克也は目を閉じた。
しばらくの後、克也は目を開き、ここにはないものを見るように遠くを見つめた。
「罪を犯した人間が自分の罪に気づいたところで、消えていった命がそれで戻るわけじゃない。奪われた側の人間が救われるわけでもない。でも、気づかないよりはいいはずだ。一番罪深いのは、罪を感じないことだと思うから。――俺も偉そうなこといえる立場じゃない。でも、罪に気づけた分、少しは奪ってしまった命を弔うことになると――思いたいんだ。」
克也は、傍らの岬へと視線を落とした。目が合うと、克也はどこか寂しげに微笑む。
「罪は、消えない。忘れちゃいけない。なぜ、自分が罪を犯してしまったのか、どうすれば罪を犯さずにいられたのか、今後同じ罪を犯さないようにするにはどうしたらいいのかを考えながら、俺は生きてる」
克也の言葉に、岬はやはりあふれる涙を抑えられなかった。
自分の犯した罪を忘れず、それについて考えていくこと、岬もそうしていこうと思った。その果てにどんな結論が見えてくるのか、今は分からないけれど――。
■■■ ■■■
「克也――『りえ』さんのこと、聞いてもいい?」
岬は克也の隣に腰を下ろすと、克也の瞳を覗き込んだ。落ち着いて考えてみると、聞きたいことは山のようにある。
だが、克也が一瞬表情を固まらせるのを見て、岬はぎくりとした。
「い、言いたくなかったら、いい......。」
岬はつい引いてしまう。
『竜一族のことは......奈津河のあたしには......言えないこともあるだろうし......。』
岬の様子にちらりと目をやった克也は、少しだけ何か考えるような仕草をした。が、やがて小さな声で答える。
「岬が利衛から聞いたとおり、利衛は俺の――『戸籍上の姉』、だ」
「血の繋がりはない、ってことだよね。どうして――?」
岬は思わず聞き返したが、すぐにハッとする。
克也は、今まで家族の話はいつもあまりしたがらなかったから、あまり突っ込んだことは聞かないようにしてきたのに。
利由は、克也が『複雑な事情』を抱えていると言っていた。
家族の問題には、簡単に他人は踏み込めない。
「ご、ごめん。余計な詮索だったよね」
岬が慌てて謝ると、克也は軽く微笑んだ。
「いや、大丈夫。話したくないんじゃなくて、かなり複雑だから......どこからどう言おうか考えてた。」
克也はカップを一旦手に取りしばらく手元を眺めていたが、やがてそのまま元に戻す。
「――俺は、久遠家に生まれながら、久遠の戸籍に入っていないし、久遠の家で育っていないんだ。」
岬は、複雑な表情を浮かべてうなずいた。
昨日、苗字が違うことを不思議に思っていたところだったからだ。
「生まれてすぐに里子に出されたんだ。というより、生まれる前からそれは決まってた......。そして、里子に出されたその先が蒼嗣家。利衛――蒼嗣 利衛子は俺の姉として育った。でも色々あって――、俺が一人暮らしを始めてからはほとんど会うこともなくなってた」
克也はお茶を一口含んだ。
長となる克也が里子に出されるというのは、とても奇妙なことに岬は一瞬感じたが、以前麻莉絵に聞いた竜一族の話をすぐに思い出した。
その話では確か、長だった克也の父が亡くなってすぐに跡を継いだ息子がいたはずだ。ということは克也には、兄なのか弟なのかは分からないが、兄弟がいたことになる。
『でも、その人は確か奈津河一族に――』
その先の言葉を岬は頭の中でさえ表現することを拒否した。
奈津河一族の罪――直接手を下したのではなくても、今の自分はその罪と完全に無関係ではいられないことを知っている。
心にツンと沁みる痛みを感じながらも、黙って岬は克也をじっと見つめた。
ただ、克也は兄弟のことについては語らなかった。
今はその時ではないのかもしれないと、岬もそれは口に出さなかった。
「蒼嗣家は、俺のために――俺を表に出さないように、ずっと密やかに過ごして来た。でも今回俺が表に立ったことで、利衛を幹部に登用できて――ようやく、蒼嗣家を陽の当たる場に出してやれる」
その目には温かい光が宿っているように岬には見えた。
「いい人たちなんだね。そんなふうに恩返しがしたくなるくらいお世話になったってことでしょ?」
岬は微笑んだが、克也は少し複雑な表情を浮かべた。
「そう。俺には、過ぎるほどの。でも、恩返しがしたいと思うのは......負い目、があるからなのかもしれない......」
そうぽつりと口にした克也の瞳は、計り知れない深淵を見つめている気がした。
年齢は自分と一つしか違わないのに、普通の生活をしていれば知らなくてもいい困難や危険、そしてつらさや悲しみを、たくさん経験してきたのだろうと思う。
こんなに近くにいても、まだ分からないことがたくさんある。
もっと知りたい。
けれど、聞けないことがたくさんある。
全てを話してもらえる日は来るのだろうか?
岬は、克也の肩にそっと自分の頭をもたれさせた。
■■■ ■■■
『克也、寝ちゃった?』
もたれかかる重みと、規則正しい寝息に思わず岬は微笑んだ。
二人で並んで話をしているうち、急に黙って岬にもたれかかってきた克也に、心臓が跳ね上がったのだが――。
『一人焦っちゃったあたしが恥ずかしいじゃないかあー。でもやっぱりこの体勢はドキドキだよ』
寝てしまった克也を、自分の体をずらしながら、ゆっくりとソファに横たえる。相当深い眠りに入ったらしく、それでも克也は起きる様子はなかった。自分の部屋から上掛けを持ってきてかけてやる。
そして、ソファの脇に膝をついて克也の顔を覗き込み、少し長い克也の前髪をそっと人差し指でかきわける。
「......ハードな一日だったもんね。......とどめにここまで走らせちゃってごめんね......」
克也の寝顔に向かって、返答が帰ってこないことを承知で話しかけた。
昼間、家まで送ってくれた利由が、別れ際に言った言葉を思い出す。
これは、克也は絶対に言わないことだろうが、敢えて言っておくと。
『君のことが克也の長としての立場を確固たるものにしたことはさっき言ったと思う。ただ、その逆もまたいえる事なんだ。竜一族にとって君が必要ないと判断されたとする。それでも克也は君を守ろうとするはず。――一族に必要ないという存在をかばおうとすれば、克也は長としてどうなってしまうのか......君にも分かるよね?』
『極端に言えば、克也を生かすも殺すも岬ちゃん次第ってこと。』
継承式で感じた、克也が一族から受ける期待の大きさ。
自分のために、あの重責の元に立つことを克也が決めたのなら、その想いに応えたい。
不安要素である自分を、数々の犠牲を払ってまで守ってくれようとする克也のために。
そして、岬が生きることが自分の生きる意味だと言ってくれた克也のために。
悠華に言われたことを今思い出す。
『では岬さん、あなたの心は――?』
あの時には分からなかったが、今ははっきりと分かる。
今、自分の心は克也のところにある。
「あたしは、克也のためにも、生きる。」
決意の言葉を口に出し、克也の頬に自分の唇を寄せる。
克也の温かさが唇を通して伝わってきて、一気に顔が火照る。それと同時に、泣きたいような愛しさが、心の底からわきあがってくるような感覚に、思わず目を閉じた。その愛しさは泉のように溢れ、海の波のように岬の心を揺さぶる。
『克也が――好き。大好き。』
思いが溢れすぎて、そんな言葉だけじゃ足りない。こんな気持ちが『愛している』ということなのかもしれないと、漠然と岬は思った。
『失いたくない。一緒に、生きていきたい。そばにいるだけじゃなく、克也を助けたい。』
強く願う。
『大切な人を守りたいのよ』
悠華は言った。
今なら分かる。今の自分も同じ気持ちだから。
ただ、きっと悠華とも戦わなければいけないだろう。そして麻莉絵とも。
互いの『大切な人』が敵同士であるならば。
岬に、譲れないものがあるのと同じに、麻莉絵には麻莉絵の、悠華には悠華の、譲れない想いがあることも知っている。
決して交わることのない想い。
それを思うと、心のどこかがきゅうっと締め付けられるような感覚に陥る。
岬は床を見つめた。