間者の告白(3)

 蘭子が、ゆっくりと岬たちの方に歩み寄ってくるのが見えると、克也は岬の肩を守るように自分の方に引き寄せた。
   
  「克也?」
 振り向き気味に見上げると、克也は険しい顔をして、蘭子のいる前方を睨んでいる。
 明らかな敵意が克也にはあった。
   
 以前の克也は蘭子に対しておとなしく従っていた印象があったから、今の克也の態度に岬は少し違和感をおぼえる。だが、自分が知らなかっただけで、実はずっとこうなのではないかと思い直した。
 克也が竜一族の長だということを岬が知った今となっては、自分を脅して岬との仲を引き裂いた蘭子は、敵意を向ける対象以外の何ものでもないということなのだろう。
 岬にとっても、いくら克也との仲は元に戻ったとはいえ、蘭子によって苦しい思いをさせられたことは事実であり、忘れるにはまだ記憶に新しすぎた。複雑な表情を浮かべながら、岬もその場を動くことができなかった。   

   
 人通りの多い繁華街のこの場所でも人が割り込みにくい程度の距離を置き、蘭子は岬たちの前まで来て立ち止まる。
   
 しかし、蘭子はすぐには何も言わなかった。
 饒舌な印象があった蘭子も、しばらく無言だった。
 とはいえ、しばしのこう着状態の後、 口火を切ったのは蘭子だった。
    
  「久しぶりね」
 その口元は少しだけ笑みを浮かべている。
      
  「......しばらく学校休んでたみたいだけど、元気そうじゃない。」
 岬が何となくそう口にすると、蘭子は少し目を逸らした。
  「まあ、いろいろ、ね......。複雑な事情があるのよ」

 事情??それがどんなものなのか、岬には大いに興味があったが、尋ねることに抵抗もあった。それが一族に関することであれば、うかつに首を突っ込むのは危険なことだという思いがあったからだ。
          
 そして蘭子は、厳しい顔をして睨む克也に対し、複雑そうな表情を見せる。   
  「そんなに怖い顔しなくても大丈夫よ、克也くん。安心して。もう『終わった』から。」
   
 しかし、克也が蘭子に対して向けるまなざしは厳しいままだ。
   
  「――どの面下げて再び目の前に現れたのか?って顔をしているわね......。」
 蘭子は克也を見ると、自嘲気味に笑みを作る。
   
  「当然よね。あなたたちにしてみれば――私のしたことが許せるはずもないものね。――私だって、これでも今日出てくる前には随分悩んだのよ?特に克也くんとはあんな別れ方をして以来だから――次に会ったら殺されるかもしれないって覚悟してきたの。」
   
 岬はとっさに克也の顔を見上げた。
 克也は冷めた目で蘭子を見つめたまま。
 克也のその瞳を見て、少しだけ岬はぞくりとした。恐ろしいわけではないが、プラスの感情でもない。ただ鳥肌の立つような感覚。
   
 『殺される』と蘭子が思うくらいのこと――、二人の間にどんなことがあったのか、岬は知らない。
 岬にはいつも優しい克也だから、克也が誰かを手にかけるということが自分には想像できない。でも、常に生死を分けるような争いに身を置いている一族をまとめている長として、無縁のものではないのだろうとは思う。   
 それを非難することは今の岬にはできないし、する気もない。
 けれど、自分のことを守ってくれるために、克也がそんなことをしなければいけないというのは、何だか悲しい。蘭子に対する負の感情が、自分にも分かるだけに、苦しい。
   
 克也には、そんな顔をさせたくないのに――。
   
 全ての理性を取り払った心の奥底では、争いで犠牲になる人なんてこれ以上は出てほしくないと叫んでいる自分がいる。
 自分が争いで誰かを傷つけることをしたくないのと同じく、本当は、克也にももう争いに身を置いてほしくない。克也が誰かを手にかけることも、誰かの手にかかって命を落とすことも、あってほしくない。
 でも、殺さなければ殺される、そんな中で生きる克也を、どうして責められるだろう。
 自分だって、自分や克也に危害を加えられそうになった時、絶対に誰かを手にかけずにいられる自信なんてない。
   
 何より、自分が克也のそばにいるせいで、克也は長として表に立つことになったのだ。克也を最前線に立たせているのは他ならぬ自分自身だ。
   
 それでも克也から離れたくない。こんなに自分は我がままだ。克也は自分に『もっと我がままになっていい』と言ってくれた。だが、これ以上の我がままなんてない。
     
 どうすれば、いいの。
 どうすれば、克也を救えるの。
 克也のそばにいて、自分にできることはないの。
   
 岬は心で、誰に向かうでもなく問うた。
  『分かる人がいたら教えてほしいよ』
 こんな時なのに、泣きそうになる。
 利由は、克也のそばにいて支えてやるだけでいいと言ったが、それでは『足りない』と岬自身は思うようになっていた。
 けれど、具体的にどうすればいいのかということが、いくら考えても分からないのだ。
      
 岬は、少し後ろに体重を預け、克也に寄り添った。
 それに気づいた克也が、少しだけ表情を緩めるのを見て、岬もホッとする。
    
   
 その後も少しだけ沈黙が流れたが、  
  「でも、『約束』は守ったでしょう?」
 蘭子は克也をまっすぐに見返した。
 克也が息を呑み込むのが岬にも分かった。
   
 少しの間の後、ちらと岬の方を見、やがて蘭子へと視線を戻して克也はため息をついた。
   
  「確かに。ただ――俺は、お前とお前の黒幕が俺たちにしたことを、忘れることはできない。いくら結果的に問題なかったとはいえ、岬を傷つけたこと自体が許せないから。」
 克也は一旦言葉を切る。
  「だが、そんな事態になったのも――お前たちのせいだけじゃない。俺自身の弱さや甘さがが招いたことでもある。だからこの件で俺に他人を責める資格はないんだ。」

 蘭子も岬も克也を見つめた。
 克也には、以前のような迷いゆえの苦しそうな表情は見られない。何かを乗り越えたような強い瞳に、岬は言葉を忘れた。
   
 克也の言葉を受け、蘭子はまぶしそうに目を細め、肩をすくめた。
  「まあ、なんだかんだいってあんたたちがモトサヤに収まってくれてホッとしたのよ」
   
 意外な言葉に、岬は驚いて目を瞠った。
 自分たちをあれほど苦しめておいて、その元凶である蘭子が、岬たちが元に戻ったことを歓迎するような言葉を吐くなんて。
      
  「いくら任務とはいえ......あまり後味のいいものでは、ないから。」
 表情を緩める蘭子に、岬は息を呑んだ。
  「任務?」
 岬は聞き返す。
   
  「そう、私は『ある人』の命令で動いているの。あなたたちを引っ掻き回すのも私の役目だったってこと」
  「ある人?――聖さん、あなた竜一族なんでしょう?」
 岬は訊いた。

  「......そうね、血筋的にはね」
 蘭子は肩をすくめる。
  「......」
 黙ってしまった岬に蘭子は不敵な笑みを返した。
  「栃野さん、あなただってそうでしょう?血筋としては奈津河のあなたでも、まさか克也くんを裏切ろうなんて思ってないでしょう?それと同じよ。私は『あの人』のためだけに動くの。心は、『あの人』のもとにある。どこにいても」
 目の前の蘭子は、本当に心がその人の元にいるような瞳で遠くを見つめて言った。
   
  「聖さんにも、大切な人が、いるんだね」
 それだけは、岬にも分かった。
  「じゃあ、しばらく学校を休んでたのも、その『あの人』とやらの命令なわけ?」

  「......まあ、当たらずとも遠からず、ね」
 蘭子ははっきりしない言い方をした。
   
 今度は克也が口を開いた。
  「今回お前が俺たちの前に再び現れたのは、『黒幕』の意思なのか」

 克也の問いに再び沈黙が流れた。
      
  「いいえ。――あの人は止めたの。危険すぎるからと。でも――私がどうしてもと願ったの。――もしかすると、こんなこと初めてかもしれないわね」
 と、少しだけ、笑みを浮かべる。
   
  「その黒幕が誰なのか、まだ話す気にはならないのか?」 
 克也の問いに、蘭子は微笑んだ。
   
  「ちょうどその用事で私はここに来たのよ。今言ったとおり本当は『あの人』は、私をよこすつもりではなかったようだけど。」
 蘭子は岬に目を向ける。       
  「あの人が、栃野さんに会いたいと言っているの。もちろん、あなただけを連れて行くなんて克也くんが許すはずがないと思うから、克也くんも一緒に。」

 岬と克也は顔を見合わせた。
 克也に話というなら分かるが、なぜ何も分からない自分になのかが岬には分からなかった。
   
  「けれど――、竜の長である克也くんをあの人に会わせるには、どうしてもこちらの条件をのんでもらわないといけないわ」
  「条件?」
 克也は不審そうに蘭子を見つめた。
   
  「あの人と会ったことを、一族の誰にも話さないでほしいの。もちろん利由先輩にもよ。」


  「随分と勝手な条件だな。岬に会いたいと言ったのはそっちだろ?会えないと困るんじゃないのか」
 克也は自分の腕を組んだ。

  「克也くんだって、私の後ろに誰がいるのか、分かった方がいいのではないの?もちろん、危害を加えるようなことはもうしないと約束するから。」
 斜に構えてではなく、真剣なまなざしで蘭子は克也を見つめる。
   
 そんな蘭子を見て克也はしばらく考え込んでいたが、やがて口を開いた。    
  「分かった。こちら側に危害を加えないということが守られる限り、俺もお前たちの条件をのもう」
   
 岬は焦った。
  「克也――大丈夫なの!?一族のみんなにも、利由先輩に対しても秘密を抱えることになるんだよ?もしも、それが何かの拍子にバレちゃったら――」

 もしも自分のために、克也の立場が悪くなることあったら、耐えられない。
 そんな気持ちが伝わったのかは分からないが、克也は岬に微笑んだ。
  「大丈夫。そんなことぐらいでどうにかなるほど、俺たちの間柄は薄くない。特に尚吾とは」
   
 克也の言葉に後押しされ、岬も蘭子の方を向いた。
   
  「あんたの大切な『あの人』と――会うよ。なんであんたを使ってあたしたちのことを引っ掻き回さきゃいけなかったのか、ちゃんと聞かせてもらわないと気がすまないし。でも――、お願いがあるの。」
  「何?」
 聞き返した蘭子を、岬は正面から見つめる。
   
  「克也には手を出さないで」
   
 岬の言葉に、蘭子も克也も同時に岬を見た。
     
  「あんたの『あの人』が竜一族なのか奈津河一族なのか、それともどちらでもない第三者なのか分からないけど、克也は、竜一族の大切な長なの。私個人のことで、その長が危ない目にあうなんてこと、あったらダメなの!」
 必死で訴える。   
  「岬、大丈夫。俺は大丈夫だから......」
 克也は岬を抱き寄せる。
  
  「あんたたちには負けるわ」
 蘭子はそんな二人を眺め、少しだけ寂しそうに微笑んだ。

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