計略(4)

 晶子が戻ってきたとき、そこに岬の姿はなかった。
   
  「――岬?」
 晶子は不安になってその名を呼んだ。   
   
 自分の荷物はベッドの横の椅子に置かれていたが、そこから少し離れた床に岬の鞄が、『置いた』というより『落ちてそのまま』といった様子で無造作に横たわっていた。  
 部屋には相変わらず静寂が流れていたが、なぜか、晶子には『ここで何かが起きた』ように感じられた。
 晶子がいないのを分かっていて、何も言わずに何もかも置いて部屋を出ることは、岬の性格からは考えられない。
 晶子は、ベッドの下に落ちていた岬の鞄を両手で拾い上げた。
   
  「何か、起きたの?」
 しかし、ここにはその疑問に答えてくれる人はいない。    
   
 だが。   
   
   
 声が聞こえたような気がした。
 微かに。
   
  「......こ」
 はっとして声のした方向を見る。   
 次の瞬間、晶子は心臓が止まるかと思うほど驚いた。
   
  「け、圭美!?」
   
 圭美の瞳がうっすらと開いている。
   
  「先生呼んでこなくちゃ......」
 慌てて駆け出そうとする晶子の手を、圭美がつかむ。
 晶子の行動を制止するように。
   
  「......けて」
 細い、かすかな声を聞き取れず、晶子は圭美の顔のそばに耳を近づける。
 すると、圭美はすぐに次の句を継ぐ。
  「み......さ、きを......た、すけて――!」
   
  「岬!?岬がどうかしたの!?」
 晶子の問いに圭美も何かを口にしようと唇を動かすがなかなか声にならない。
   
  「そ......しく......」
 やっと、といったように言葉を口にする圭美。
  「何!?」
  「そ、うし、く......」
  「そうし!?――蒼嗣くん!?」
   
 圭美は僅かにうなずく。
   
  「つ、たえて......そ、しく...に」   
  「蒼嗣くんに!?何を伝えればいいの!?」   
  「み、......さき、が......つれ、てかれ、た......」
  「連れてかれた!?誰に!?」
  「な、かじょ、う――こ、うい、ち」
 それが人の名前だと晶子が理解するのに数秒がかかった。
  「なかじょうこういち?――誰、それ?」
 疑問を口にする晶子の手をぎゅうっと握る圭美。まるで、その様子は「急いで」と言っているようだ。
   
  「た、すけ......みさき、たすけ、て......!!」
 これまでで一番はっきりと圭美は言った。
 その真剣さに、晶子も頷かないわけにはいかなかった。
  「分かった、分かったよ!――蒼嗣くんに『岬が、なかじょうこういち、っていう人に連れてかれたって伝えればいいのね!?それで蒼嗣くんは分かるのね!?」
   
 圭美は微笑んだようだった、そしてそのまま、ゆるりとまた瞳を閉じる。
 晶子は慌てたが、息はしている。
 圭美の様子を医者に知らせるべきかとも思ったが、圭美があんなに必死で訴えたことを無視するわけにはいかない。何より自分も何か言いようのない胸騒ぎを感じて仕方がなかった。
   
  「なんなの、もう――!何が起きたの??」
 そう言いながら、晶子は鞄から携帯を取り出し、電話帳を開いた。

   
   
 ■■■   ■■■
   
   
  『克也――!』
   
 岬の声を聞いたような気がして、克也は荷造りの手を止めた。
 なぜか息苦しさを感じて、とっさに胸の辺りを押さえる。
   
  「岬?」
 その名を口にするが、ここにいるはずもなく、答える声はない。
 分かっていて、それでもその名を呼んでしまうぐらい、なぜか心が騒いだ。
       
 その瞬間――携帯が鳴った。
    
 画面を確認し、克也は目を丸くする。
  「井澤――?」
 不思議に思いながらも、携帯の通話ボタンを押し、耳に当てる。
   
  『もしもし蒼嗣くんっ?!これ、蒼嗣くんのケータイでいいんだよね!?』
 慌てたような晶子の声に、心臓がどきりと大きく脈打った。
   
  「井澤――?一体どうし......」
 克也が言い終わるか終わらないかのうちに、晶子が叫んだ。
   
  『蒼嗣くん!大変なの!!何だか訳分かんないけどっ!岬が!......なかじょうこういち、って人に連れてかれたって!!ねえ、意味分かる!?』
   
 その瞬間、あまりの衝撃に克也は体の力が抜けて携帯を落としそうになった。
       
  「中條、幸一!?」
 その名前を確認するように口にする。もちろん、その名前には聞き覚えがあった。
 今、岬を連れ去るなど、奈津河の者の仕業としか考えられない。自分の記憶が正しければ、中條御嵩の従兄に中條幸一という人物がいる。
   
  『そう、そうなの!意味分かる!? どうしよう、どうしよう!』
 晶子も言っているうちにだんだんパニックになってきたらしく、電話の向こうで叫んでいる。
   
 崩れそうになる体に鞭打ち、克也はぶんっと首を振って自らを律しようとした。
   
  「大丈夫、大丈夫だ。」
 まるで自分に言い聞かせるように克也はそう口にする。
   
  「とりあえず意味は分かった。――ありがとう、井澤。そのこと、まだ誰にも言ってないよな?」
 晶子が肯定の言葉を口にするのを聞き、克也は続けた。
  「誰にも言わずにお前は今すぐ家に帰れ、その場から離れろ。事情を知ったと相手に知られたら、お前まで危ない目に遭うかもしれない」
  『ねえ、何かヤバいことなの!?警察、警察に言った方が良いよね!?』
 晶子の提案を克也は制した。
  「ダメだ、警察に言っても無駄だ。やつらは警察にも通じている」
  『そんな――。――ねえ、岬はどうなるの!?』
 食い下がる、晶子の声が電話越しに聞こえる。
   
  「――分からない。でも、俺が――なんとかする」
  『なんとかするって――?』   
  「ごめん、これ以上は今は言えない!でも必ず、岬は助けるから......!」
   
 そこで半ば無理やり電話を切り、克也は携帯を持つ手とは反対の手を壁に強く一発打ち付ける。
    
 自分は、また間違えたのだ。
 まさかそんなところまで手を出してくるはずがないと油断していた。
 そして、中條御嵩ばかりに焦点に当てすぎて、その周りが動く可能性を見落としていた。
 自分の甘さに、吐きそうなぐらい腹が立つ。
    
  「み、さき、っ――」
 あの時感じた違和感を無視してはいけなかった。――あんな違和感を一瞬でも感じたら、岬のそばをできるだけ離れてはいけなかったのに。
 よろりとバランスを崩し壁に倒れこむ。目の前が揺らぎ、克也は瞳を閉じた。
 あまりの衝撃に気が遠くなってしまいそうだった。
 実際今までの自分なら、こんな時はきっと狂ってしまっただろう。
   
 けれど。
   
  「落ち着け、今、俺がしなければならないことは――」
 今にも悲鳴を上げそうな自分の心を押さえ込み、克也はあえて言葉を発する。
 ここで狂っているわけにはいかない。このままでは何も解決しない。
 岬を、助けるために今できる限りのことをしなければ。
   
 かっ、と瞳を見開く。
      
  『どうか、どうか無事でいてくれ......!』
 心の中で叫びながら、克也は携帯を持ち直し、電話をかける。
   
  「水皇さん、緊急事態です。ちょっと呼び出しをかけてもらってもいいですか――」

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