計略(5)
ぼんやりとする視界に、岬は目を細めた。
自分の状況を理解することができず、ゆっくりと瞳を動かす。
見たことのない風景に岬は体を起こそうとした。
だが、とてもだるくて体に力が入らない。
体の全てが動くことを拒否しているように。
必死で腕に力を入れる。汗がぶわっと吹き出る。
体を起こしたが、すぐにバランスを崩して床に倒れこんだ。床は畳敷きだったが、受身の態勢を取れなかったのでそれなりの衝撃はあり、岬は痛みに顔をしかめた。
倒れたままのうつぶせ状態で、思考をめぐらせる。
『あたし――変な男に気を失わされたんだ――!』
その男は『中條こういち』と名乗った。初めて会うが、生理的に受け付けない嫌な感じがする男だった。
慎重に頭だけをそろりと持ち上げると、岬のちょうど正面に頑丈そうな扉があった。その扉の半分は素通しで向こうが見えた。ただ問題なのはその素通し部分が鉄格子になっていること。そしてその扉の向こうに、もうひとつ全体がステンレス製の観音開きの扉が見える。
岬はそのまま自分の周りをぐるりと見回した。六畳ほどの大きさの部屋の中には、人一人が横になれるほどのマットレスがひとつ。
まるで刑務所のようなその造りに愕然とする。
「助けてっ!誰かっ!」
叫んでも、誰の気配もない。
『一体、ここはどこ?』
不安げにあたりを見回していると、がちり、と扉を開く音がする。
手前の内扉の向こうを見ると、観音開きの扉を開け、一人の男が入ってくるところだった。その扉はオートロックのようで扉が閉まるとピーという独特の電子音と共にがちゃりとロックがかかる。
そして男は、無言で半分鉄格子の内扉の鍵も開け、部屋に入ってくる。
現れたのは、線の細い、黒い縁の眼鏡をかけた三、四十代ほどの若そうな白衣の男性だった。
起き上がろうとする岬を、男性は背にそっと手を添えて助けた。そのおかげで、岬はなんとか座った状態になる。
「気分は、どうですか?」
いきなりそう言われても、こんな訳の分からない状況では答える気が起きない。答える代わりに岬は逆に疑問を口にする。
「ここは、どこですか?」
「とある精神科の病棟です。」
精神科、と聞いて岬は焦った。
「あたし、どこも悪くありません!正常です!......ここから、出してください!」
精一杯訴えるが、男はそれを一蹴した。
「正気なのは分かっていますよ。でも、それはできません。」
「どうしてですか!?」
「あなたをここから出すなと言われてますから」
岬とは目を合わせず、うつむき気味で男は答えた。
『この男も、中條こういちの仲間......?』
背中がぞくりとした。
「あたしをここから出すなと言ったのは中條こういちとかいう人?――あなたも、奈津河の人間なの?」
男性は答えない。
それが肯定を意味するものだと岬も直感で分かった。
精神科病棟なら、少々騒いだぐらいでは気に留められないだろうから、閉じ込めるには格好の場所かもしれない。けれど、こんなところに閉じ込めて一体何をしようというのか。得体の知れない恐怖に、岬はさらに寒気を覚える。
しばらくして、遠くから近づく足音に白衣の男性が後ろを振り返った。
扉が開いて新たに二人の男が姿を現す。
一人は初老の男、そしてもう一人は先ほど自分を拉致した張本人『中條こういち』だった。
「この者が、宝刀の力の主か。まだほんの小娘だな」
初老の男が内扉のすぐそばに立ち、岬の全身を嘗め回すように見た。値踏みをするような視線。気持ちの悪さに鳥肌が立つ。
「そうだよ親父。ちょっと見ただけじゃ、強大な力をその身に宿しているとはとても思えないだろ?」
言外に皮肉を含ませ、幸一の唇がにやりと笑みを作る。そして幸一は、腕を組みながら岬の目の前まで歩いてくると、しゃがんで岬の瞳を覗きこんだ。
「お前――本当に俺たちに協力する気はないのか?」
岬はふいっと幸一から目を逸らした。幸一は途端に苦虫を噛み潰したような顔になる。
「かわいくないガキだ。これで、お前が俺たちに協力することがないのは良く分かった。ならば、かわいそうだが採る方法はひとつだ。」
「な、に?」
とても嫌な予感がする。
そして岬の予感の通り、幸一が次に口にした計画はおぞましいものだった。
「お前の意識を壊し、お前を俺たちのものにする。そうすれば御嵩も俺に跪かざるを得ない」
にやりと、いやらしい目つきをして幸一が笑う。
「――それは、誰にでもできるものではないと聞いたけど?加減が難しい術だって......」
岬は恐怖を隠して、幸一を睨んだ。しかし、幸一は鼻で笑う。
「それは医学の発達していない昔のことだろう?――そんなこと、現代では、薬を使えば簡単なことなんだよ」
白衣の男性が、A5版のノートほどの大きさの、グレーのプラスチック製の箱の蓋を開ける。
中には、何本もの注射針、そして薬の瓶が納まっていて、その中の一本を慣れた手つきで取り出す。
血の気がひくのを岬は感じた。
黙ったまま注射器に薬を注入していく白衣の男を横目に、幸一は話し続ける。
「この薬はもとは精神疾患の患者用に開発されたもの。少々脳にちょっかいを出して興奮しすぎた患者を落ち着かせる効果を持ってる。ただ、量や回数によっては意識障害が起きるっていうんで、公には使用できない薬だ。――この薬を、少々多めに、何度かお前に投与させてもらう」
「っ......冗談よしてよ!そんなこと警察にばれたらあんたたちだってただじゃすまないじゃない!」
「ばれるわけない。それに万が一ばれたって、警察ごとき、どうとでもなる」
岬のあごを幸一が片手で捉えようとするのを、岬は首を振って阻止した。
「安心しろ、痛くも苦しくもない。この薬を打つと、どうやら幸せな気分が持続するらしいぞ?楽な方法だろう?――繰り返し薬を打つごとにお前の意識は薄れていき、そのうち何も考えられなくなる。そして......お前は、俺たちの意のままに動く人形へと生まれ変わるんだ」
うっとりと陶酔するように幸一は語った。
『狂ってる、この男』
しかし怒りより何より、絶望的な恐怖が岬を襲う。
やがて、白衣の男が無造作に岬の左腕を掴み、制服の袖をたくしあげた。
「嫌...!」
岬は叫び、目の前の白衣の男を渾身の力をこめて突き飛ばした。
白衣の男は不意をつかれて尻もちをついたが、いつの間にか看護士の格好をした男二人も入ってきていて、あっという間に岬は二人の男に両脇を抱えられ、身動きが取れなくなった。
「や、っ!いやっ!!!」
もともとうまく体に力が入らない上、羽交い絞めにされているので自由になるのは首から上だけ。
いつの間にか岬の瞳からは涙があふれていた。
『――嫌だ!――嫌だよ、操られるのは嫌!!』
「克也......っ!!」
来ないことが分かっていても叫ばずにはいられなかった。
しかし、叫びもむなしく、岬の前に注射針が迫る。
「あ、ああ......っ、いやあああああ!!!」
左腕に針が差し込まれ、ひやりとした液体が自分の中に流れ込むのが、岬にもはっきりと分かった。
自分の身にこれから何が起きるのか、考えただけで恐ろしかった。
『この人たちは宝刀の力を操って何をしようというの!?この力は、敵も味方も全てを不幸にする力なのに......。あたしはもう、力を使いたくない。これ以上――人を、殺したく、ないよ......』
「しばらくおとなしくしていてくださいね」
白衣の男が、放心状態の岬を丁寧に横たえる。
有無を言わせず恐ろしい薬を打っておきながら、その態度の丁寧さが不自然で恐ろしい。
涙が、次々にあふれてくる。
自分が自分でなくなることの恐怖に、岬はただ泣くしかなかった。
やがて、ふわりと体が浮くような不思議な感覚が岬を襲う。全ての思考が遠ざかっていきそうな、『不自然な』心地よさ。
さらに再び訪れた睡魔に抗えず、岬はまた意識を手放した。