助力(2)
夜中の病院はしんと静まりかえり、薄暗い灯りが独特の不気味さをかもしだしている。
利衛子は階段の脇の非常扉にもたれ、ふーっと深いため息をついた。
ここが監視カメラの死角になっていることは既に確認済みだ。
大島圭美が入院するこの病院で、高校生ぐらいの女の子を見なかったかどうか、密かに病院スタッフや他の患者に聞き込んでみたものの、有用な情報を知っている者はいなかった。それどころか、誰もがその時間帯の記憶自体が曖昧になっていた。それでいて、そのあたりの記憶を念入りに探ろうとすると、不自然なぐらい『高校生の女の子』など絶対にいないと言い張る。その不自然さが逆に『確実に奈津河一族の手が入った』ことを顕著に示していた。暗示がかけれらている可能性が高い。
中條幸一が人に暗示をかけられる力を持っているということは、竜一族にあるデータにはなぜかないものだったが、こうして実際に暗示をかけたということは、その力が中條幸一、もしくはそれに連なる者にあるということでもある。
今は暗示を解くための助っ人が必要だ。自分には『人の心に干渉する能力』はない。
頭の中に一人の人物を思い描き、再びため息をつく。
『あたしが行く!だなんて張り切っておいて、結局克也に助けを求めなきゃいけないなんて、情けないったら。ただ、克也をここに連れてくるのは危険だよね。克也はあたしと違って奈津河一族のマークも強いからなあ』
利衛子はしばし迷った。
克也の力を一時的に『分けてもらう』ことも自分にならできなくはない。
ただし、一時的にでも克也の力を帯びるということは、克也がここにいるということを示して歩くようなものだ。運悪くそんなときに一族の者に見つかってしまったら下手に相手を刺激してしまいかねない。それほどに、克也の力は、見る人が見れば鮮烈なものなのだ。力を隠すことは克也本人にはできても、自分にはできない。
――そんな時、いきなり背後から腕をつかまれ、利衛子は思わずひっと声を上げそうになった。ある程度のことでは怖がらない自分だが、だからといって何が起きても驚かずにいられるほど鋼の心臓を持っているわけではないのだ。
掴まれたあたりに視線を落とすと、肩につくか付かないかぐらいの髪の長さの女の子が、真顔で利衛子を見つめていた。唇に人差し指を当てて『シーッ』のポーズをとっている。
「だめだよ、大きな声だしたら悪いひとに見つかっちゃうよ?」
一瞬、子供の幽霊かとも疑ったが、ちゃんと実態があって触った感じも生身の人間だ。
「おねえちゃん、悪いひとをおいかけてる、おまわりさんなんでしょう?のりちゃん、テレビでよくみてるからわかるんだ」
内緒話をするように、その女の子は背伸びをして利衛子の顔に、自分の顔をできるかぎり一生懸命に近づけていた。利衛子も、女の子の話がよく聞こえるように、しゃがんで耳を近づける。
「ずっとおとなのひとに聞いてたでしょ?いなくなったおねえちゃんをしらないかって。おとなに聞いてもだめだよ。わるいひとが魔法でみんなわすれさせちゃったから」
利衛子は目を瞠った。
目の前の女の子の瞳は真剣だ。年齢は四、五歳ぐらいか。
「のりちゃんね、みちゃったの。」
「わるいひとが、おねえちゃんをゆーかいするとこ」
「――なんで、その人が悪い人だって分かったの?」
「お顔がなんとなくこわかったし、それに、そのひと、おねえちゃんがいやだっていうのに、つれていったんだよ。のりちゃんね、そのおねえちゃんのことばがきこえたの」
利衛子ははっとして女の子を見つめた。
「のりちゃんね、ここでふたっつに髪の毛しばったおねえちゃんをね、こわそうなおじちゃんが、だっこして、あっちのねんねする台においたの。それで、こうやって、おっきい車にのせていったの。そのおねえちゃんね、なんにもしゃべれなかったけど、『いやだいやだ』ってこころで言ってた」
少女は、身振り手振りを交えながらその時の様子を説明した。その子の示した肩の辺りで髪をふたつに縛った女の子、というと岬の特徴にちょうどかぶる。
小さな女の子の言うことは、時として空想が混じる。だが、今この子の言ったことは、小さい子の空想事として片付けるには、あまりにも自分の追いかけているものと符合することが多く、詳しすぎる。
でも、なぜこの子は暗示にかかっていないのだろうか。何らかのことで術にかからなかったのか、それとも存在を見落とされたのか。
というより、この子はその『おねえちゃん』が何も喋れないけれど『心で言ってた』と語った。もしかすると、少しだけ心を読む能力のある子供なのかもしれない。そういうことは、時折あることではあるのだ。
「あのさ、のりちゃんはそのときどうしてたの?」
気になって利衛子は聞いた。
「こわいおじちゃんがきたときは、ぜったいにみつかっちゃいけないってママに言われてるから、こうやって箱のとこにかくれてたの。」
と、小さくしゃがんだ。
中條幸一がどういう種類の術を使ったのかは分からないが、この子の存在を見落とした可能性が高い。
この子自体が罠ということも全く考えられなくもないが、この何もない状況を打破するためには、罠でも何でも乗ってみる価値はある。
「その怖いおじちゃん、なんか言ってた?」
「んーー......」
女の子はちょっと考え込む仕草を見せてから、自信なさげに口を開く。
「なんかね、『せいしん、びょう』......?に、つれていくっていってた。おねえちゃん、『せいしんびょう』ってなあに?」
「せいしん......」
利衛子は何気なく繰り返した。
『セイシン』という名前か、それとも『精神病』か――。
だが、わざわざ連れて行った以上、ここではなく中條幸一にとって有利な場所であることは間違いない。とするとやはり中条喜一の所縁の病院と考えるのが自然だろう。
水皇が見せてくれた資料の中で、中條喜一とつながりのある病院に『セイシン』という名前の場所はなかった。だとすると『セイシン』は『精神』だろう。
――『精神病院』もしくは『精神病棟』――
中條喜一に連なる病院の中で、精神科がある病院は二つ。ここから三十分ほど離れたところにある本拠地『グリーンタウン総合病院』と、ここから三時間以上もかかる田舎にある『こころのもり精神病院』。
そのどちらかは分からないが、ひとつずつ当たるしかない。利衛子はまず、近い方から当たることに決めた。
「お手柄よ、のりちゃん。これでわるいおじさんから、髪の毛結わいたお姉ちゃんを助けられる」
利衛子がウインクすると女の子は心底嬉しそうににこりとした。
「でもね、のりちゃん、一つだけお約束して欲しいの。」
真顔になって女の子を見つめる。
「このことはね、悪いおじちゃんが聞いてたら、のりちゃんも攫われちゃうかもしれないから、誰にも言っちゃダメだよ?おねえちゃんとの秘密ね」
女の子も真剣な表情で頷く。
「うん、のりちゃん、ぜったいにしゃべらないよ。だってのりちゃんは心がおとなの女だもん」
その口ぶりに、利衛子は笑い出しそうになるのを必死で堪えた。こんな場面じゃなかったら『かわいいー!』と叫んでぎゅーっと抱きしめてぐりぐりと髪の毛を撫でてやりたいぐらいだ。
「オッケー。じゃあ、一応、約束の印にゆびきりしよっか」
利衛子が薬指を出すと、女の子はにこりと笑って小さな薬指をそっと絡ませた。
女の子が自分の部屋に戻ってベッドに入るのを見届けて、利衛子は病院を後にした。
■■■ ■■■
利衛子は『グリーンタウン総合病院』で夜間診療の受付兼カルテ運びなどのの仕事をしながら、ちらちらと探りを入れてみていた。働きながらでは拘束時間も長い上、仕事の合間に情報を集めることは容易ではなく、思うように情報が入手できない。だが、夜間に情報集めをするにはスタッフとしてもぐりこむ以外になかったため、仕方がなかった。
夕方、精神病棟に女の子が運ばれたという話をちらっと聞いたという人物だけは見つかったが、何も具体的なことは分からなかった。思うように情報が集まらず、さすがの利衛子にも焦る気持ちが出てきていた。
ちらりと腕時計を見る。
――午前三時。
先ほどまではそれなりにいた患者が少しまばらになり、休憩をとっても良いと言われたため、利衛子は職員休憩室近くの自動販売機の前でコーヒーを飲んだが、そのくらいでは強烈な眠気は去ってくれそうになかった。自然とあくびが出る。
「やばいやばい、強い眠気が襲ってきた......」
お手洗いにでも行って気分転換をしようと、数メートル歩いたその時――
「待って」
背後から声をかけられ、利衛子は歩みを止め、ゆっくりと振りかえると、Tシャツにジーンズ姿の十五、六歳ぐらいの女の子が立っていた。こんな時間にここにいること自体がおかしな存在。
「あなた、竜一族の手の者?」
単刀直入の言葉に、利衛子はひやりとするものを感じた。
『もうばれたの?』
目の前の相手が、目深にかぶった帽子を指で少しだけ引き上げると、女の子の顔が明らかになる。それを見て、利衛子はあっと声を上げそうになる。
目の前にいたのは、中條麻莉絵。中條御嵩の腹心の部下だ。冴えない格好をしているというのに、やけに全身から自信を放っているような気がする。
「なか......」
名を呼びかけた利衛子に、それは口にしてはいけないというように目の前の少女は小さく首を振った。
「あなた、見かけない顔だけど――。――探してるんでしょ?」
『誰を』とは麻莉絵は言わなかった。だが、利衛子にもその対象は明らかだった。
「何の、話でしょう?」
利衛子はくるりと踵を返したが、すぐに麻莉絵に腕を掴まれる。
「ちょっと、待ちなさいよ!あんたたちに協力してやるって言おうと思ってんのに!」
麻莉絵は周囲を気遣い小声になりながらも、強い口調で言った。
「え?」
利衛子は動きを止めた。
麻莉絵の言う『協力』という言葉が耳に残る。
そういえば、中條幸一と中條御嵩の仲は悪いはずだ。だとしたら、中條御嵩の部下である麻莉絵は、幸一とは違う立場で動いている可能性も高い。
麻莉絵は利衛子の手を引き、女子トイレへと移動すると、先ほどよりは大きめな声で言った。
「あの朴念仁に話があるの。いきなり直接が無理って言うんなら電話ででもいいわよ」
「朴念仁?」
朴念仁とは、頭が固く物分りが悪い人。または無口で無愛想な人のことを言うのだが、それが誰を指すのか、利衛子はしばし考えた。
「あんたたちの長よ。――何かご不満?」
麻莉絵の言葉に、利衛子は思わず吹き出しそうになる。
「いや、別に......」
利衛子は言葉を濁した。
何があって克也が麻莉絵にそう呼ばれるようになったのかは分からないが、なんとなく分からないでもないという気もしていた。
■■■ ■■■
利衛子の代わりに仕事をする人物を病院に置き、麻莉絵と利衛子は某ホテルの一室に向かった。
敵の腹心である麻莉絵を、さすがに久遠水皇邸に連れて行くわけには行かず、水皇の用意した、竜一族に連なる者の経営しているホテルの一室で話を聞くことにしたのだ。
「なかなか良いホテルじゃない。」
麻莉絵が調度品などを眺めながら歩を進める。
「あたしの持ち物じゃないけど、お褒めに預かり光栄だわ」
そういいながら愛想笑いを浮かべ、利衛子は指定された1205室のベルを鳴らした。腕時計を見ると、すでに時計の針が示す時間は午前四時に近かった。
ややあって、中から勢いよく扉が開く。
扉を開けた尚吾は、利衛子の後ろにいる人物に、一気に苦虫を噛み潰したような表情を見せる。
「ほんとにおまえなのかよ」
麻莉絵に対しておもしろくなさそうに言い放った。
「こんなところで争ってもしょうがない。中に入ってもらえ」
尚吾の後ろから、水皇が声をかけた。
「ようこそ、お嬢さん。」
大人らしく、余裕の笑みを浮かべる水皇に、麻莉絵も頭を下げた。
「ありがとうございます。こんな時間にごめんなさい。でも、あなたのような紳士的な方がいてくれて助かります」
水皇の横で尚吾がさらにむくれる。
麻莉絵を中に招き入れると、利衛子はゆっくりと扉を閉めた。
中は広く、まずは中央に位置する高級そうなソファとテーブルが目に入る。、
ベッドなどはさらに奥の部屋にあるようだった。
そのテーブルの向こうに、夜景が見渡せる大きな窓があった。その前に佇むのは克也だ。
「こんなに早くあなたたちがピンポイントであの病院にたどり着くとは思わなかった。まあ、あいつらの詰めが甘かったせいでもあるけれど。――こちらは最少人数、ってところね。まあ、事情が事情だけに、しょうがないかもね。宝刀の力の主とはいえ、岬は奈津河の人間。本気で助けようって人間は一部よね。でもその選択は正しいわ。中途半端な気持ちの人間は今の場合、かえって邪魔になるもの」
その場にいる人間を見回しながら麻莉絵は言う。そして、少しだけ間を置き、再び口を開いた。
「あたしが、協力――してもいいわよ」
その言葉に、その場にいた全員が麻莉絵を見つめた。
「――っ!馬鹿言うなよ。こいつのおかげでこの前、俺は危うく殺されそうになったんだぞ!?こんなやつ信用できるかよ」
尚吾が噛み付く。
「お前は中條御嵩の忠実な私兵だ。利用するだけ利用して、最後は御嵩に引き渡すってことも大いに考えられるよな」
吐き捨てるように言った尚吾に麻莉絵はため息をついた。
「それは分からないわ。そんなのは御嵩様が決めること。御嵩様が決めたことなら裏切ることもあるかもしれないわね。でも、今は過去のいざこざや、そんな先のことまで構っていられる場合じゃないの。事態は一刻を争うほど深刻よ。あたしはね、岬が好きなの。ただ、あんなやつらに岬がいいようにされるのが許せないだけなのよ」
『岬』の名前に、克也の表情が動く。
「お前は――、岬のために動くというのか?中條御嵩のためじゃなく?」
「――もちろんそうよ。でも正直に言えば、岬のためだけじゃなく、御嵩様のためでもあるわ。御嵩様のために、幸一のすることを止めたいというのもあるわ」
そこで尚吾が二人の会話に割って入る。
「中條幸一を止める?――同じ奈津河一族なのに?」
「そうよ。――あいつらは御嵩様の目の上のたんこぶでもあるのよ。あんなこと――御嵩様に内緒で、許されることじゃないわ。」
麻莉絵は唇を噛んだ。
「なぜ直接中條御嵩が動かない?」
水皇が麻莉絵に問う。
「一族内部のことだけに簡単には動けないわ。もともと御嵩様とあのへんの人たちとの間には確執があるから、やり方によっては大きな内部分裂につながる恐れもある。竜一族だって、そんな複雑な人間関係の一つや二つ抱えているんじゃないの?」
「なるほどな......」
水皇は自分のあごを指でなぞった。
しばらくの沈黙が流れる。
誰もが、複雑な思いを抱えていた。
麻莉絵が御嵩の腹心の部下であることは明らかだ。そんな、まさに『敵の中の敵』の言うことを素直に信じていいものか、迷いがあった。
沈黙を破ったのは、克也だった。
「――分かった」
承諾の言葉に、尚吾がぎょっとしたように克也を見た。
「克也!お前!何考えてるんだよ?!こいつは敵だぞ!?こんなやつのことを信用するのか!?」
「中條麻莉絵は中條御嵩の腹心の部下だ。中條御嵩のために動くのは当たり前だろう。だが――『岬のために動く』と言った言葉にも、嘘はないんだろう――。以前、蘭子のことで岬と俺がもめた時、先頭に立って岬の味方をしたのは中條麻莉絵だ。その思いに下心があったとは、俺には思えない。だから今、たと敵である俺たちと一時的に手を組んでまで岬を救いたい、という気持ちがあってもおかしくはないと俺は思う。『岬を救いたい』という共通の思いが同じならば、俺たちが協力を拒む理由はないはずだ」
克也は麻莉絵を真っ直ぐに見た。
そんな克也の言葉に、水皇は感心するような表情を浮かべた。
利衛子も、グリーンタウン総合病院からこのホテルまでの短い間ではあったが、麻利絵が良くも悪くも真っ直ぐな表裏のない性格をしていると感じ取っていたので、克也の言葉には頷けるものがあった。
「もちろん、その気持ちに嘘はないわ。岬はかわいいあたしの妹みたいな子だもの」
麻莉絵も、克也の思いに応えるように、真っ直ぐに克也を見返した。
二人の視線がぶつかる。
「では、――少なくとも岬を、中條幸一たちから救うまでは裏切らないということが約束できるのなら、一時的に協力体制を敷こう」
克也の言葉に、麻莉絵は微笑んだ。
「それなら約束できるわ。その先は分からないけれど」
「ということで、水皇さん――それでいいですか?」
克也は水皇を見た。水皇はゆっくりと頷く。
「尚吾、どうか理解してくれ」
「――お前の言うことに、異を唱えられる立場でもない」
克也の言葉に、不満を残した表情をしながら、あさっての方を向いた。
「尚吾......」
克也が少し困ったようにたしなめる。だが、少しして、
「――岬ちゃんを、助けるまでだからな!」
そっぽをむいたまま、尚吾は吐き捨てるように言った。
「ありがとう、尚吾」
済まなそうな顔をしながらも、克也はわずかに微笑んだ。
「利衛――」
克也が名を呼ぶや否や、利衛子は「異議なし」と答える。
克也は一通り確認を取ると、麻莉絵の方に向き直った。そして口を開く。
「ではまず――、お前の持っている情報を全て示してほしい」
麻莉絵は真顔で頷いた。
「いいわ。――どんなことを聞かされても、落ち着いて聞いてね。」
克也はぎくりとした。
こう前置きがあるということは、これから示される情報は、良くないことであるということだ。
麻莉絵はひとつ深呼吸をすると、ゆっくりと静かに話し始める。
「今、岬は中條喜一が院長を務める『グリーンタウン総合病院』の精神科病棟に閉じ込められているの。将高が今、グリーンタウン総合病院に潜入して様子を探ってる。ただし、将高は面が割れているから、下手な動きをすると幸一たちにばれてしまうから、ただ見守ることしかできない。手出しができないの。幸一の部下が目を光らせてスタッフにおかしな動きをしている者がいないかチェックしているせいで、連絡できる時間が限られているの。だから、岬の最新の様子を知るのにこんなに時間がかかってしまった......」
少しだけ瞳を閉じて唇を引き結んだ。
息を整えて、続ける。
「中條幸一たちは『精神を壊す薬』を岬に注射し、その上で岬を操るつもりよ」