助力(3)

【PG12】(参照)
   

  「その薬の名は、俗称『Paradise(パラダイス)※』。――それを過剰に体内に入れられると脳に影響をきたし、徐々に精神が壊れていく、麻薬のような薬。そして、paradise――楽園、という名前が示すように、意識が破壊されていくと本人にとっては楽園にいるように気分が良い状態が続いて――何でも言うことを聞くようになるらしいわ。興奮しすぎた患者に少量打つと一時的に気持ちを落ち着かせる効果があるとして開発された薬なのだけれど、使い方によっては精神を壊す危険性が極めて高いということが指摘されるようになったことで表向きの開発は中断された。でも、その副反応の効果が様々な悪事には魅力があるんでしょうね......どういうわけか、今でも裏社会では結構出回っているようなの」
   
  「何それ、最悪。」
 利衛子が苦虫を噛み潰したような表情で、自分の両腕をさする。
   
  「そうよ、最低最悪の薬。あいつらは既にそれを岬に投与し始めてる。」

  「――そんな!――じゃあ岬ちゃんは――もうおかしくなっちゃってるってことなのか?」
 信じられないといった表情で尚吾が額を押さえる。
   
  「Paradiseの効果が持続する時間はだいたい五、六時間程度。本来、医療的に使用する時には様子を見ながら一日一回ごく少量ずつ投与されるもので、患者がある程度落ち着いてきたらすぐに中止されるべきものよ。でも、意識を壊すことを目的とする場合――薬の効果が完全に途切れる時間を作らないよう、一定時間ごとに量を規定より多めにして何度も打って、薬を体内に蓄積させていく必要があるわ。一定量以上を短時間に何度も打つことによって蓄積された薬は徐々に脳の機能を弱らせていくらしいの......。かといってそれを急激にやり過ぎると脳が完全に機能不全に陥って死んでしまう可能性が高くなるから、あいつらはそのぎりぎりを狙ってくるはずよ。――個人差があるけれど、そんな酷い投与の仕方をされた場合、六時間間隔ごとに六、七回程度の投与――、つまり最初の薬を打ってから一日半程度で意識混濁状態になって、完全に自分では何も考えられなくなるとされている。そして......、一番問題なのは――現在の医学では体内に蓄積された多量のParadiseを分解する方法がないために、薬を中断しても、その蓄積された薬がじわじわと脳にダメージを与え続けて、すぐには薬の効果が止まらないことなの。一度、Paradiseによって精神を壊されてしまったら――元には戻らないといわれているわ......」
 麻莉絵は自分の拳をぎゅっと握り締めた。
   
  「――そんな......」
 そう尚吾が声を発した瞬間、克也がよろめいて窓のそばの壁に手をつく。
 その顔面は蒼白で、痛々しいほどだ。   
 だが、克也は少しだけ胸に手をやって瞑目すると、ゆっくりと顔を上げた。
  「――悪い、少し目眩がした。――もう、大丈夫だ。」
  「克也、お前、本当に大丈夫なのか――?」
 心配する尚吾に向かって頷くと、克也は麻莉絵に向き直る。
  「――続けてくれ」
 麻莉絵も頷く。
  「一回でも打たれてしまった以上、もう岬の変化は始まっているといっていい。だから一刻も早く助け出さなければならないわ、完全に意識がやられてしまう前に。将高からの連絡によれば、一回目の投与は十時頃。とすると――もう今頃......二回目が打たれてしまったかもしれないわね......。」
 そう言いながら麻莉絵は腕時計を見た。
 皆、沈痛な面持ちで黙り込む。
   
 どこまでも沈みそうなその場の雰囲気に喝を入れるように、麻莉絵は再び口を開いた。
  「とにかく!一回目が昨夜十時とするとタイムリミットは、明日の早朝。要するに今日中に何とかしないといけないってこと。少しでも岬の状態が良いうちに助け出してあげたいの。そうじゃないと......あまりにも岬がかわいそう過ぎる......!」
 それまで事務的だった麻莉絵の口調に感情が灯る。
   
  「ただ、どんなに早く駆けつけたとしても、症状の出方に個人差がある以上、どの程度症状が進行しているのか分からない。それは覚悟する必要がある。ただ――、あいつらに操られた岬に力を使わせることだけは、避けなければならないわ」
 麻莉絵は遠くを見つめる。それだけは阻止しなければならないという、岬を助けようという思いとは別の使命感のようなものが瞳に宿っていた。
   
  「岬を救い出すチャンスは限られてる。岬が閉じ込められているのは、精神科閉鎖病棟の中の、さらに厳重な監視体制が施された『保護室』という場所。興奮状態になっている患者を落ち着かせる部屋であるために特に管理が厳重になっているの。殊に岬に関しては特別だから、通常の管理に加えて一族の人間による監視も強固にされてる。六時間に一度、喜一が岬に薬を打ちに部屋に入るその時だけがその扉が開かれる時なの。だからその一瞬の隙を突いていくしかない。それ以前にバレて岬を移されたらまた計画は練り直さないといけなくなる。ただし、その間も岬への薬の投与は続けられる以上、もはやそれを逃したら全てあいつらの思うとおりにことが運んでしまう。」
 麻莉絵の表情は真剣だ。その表情からは、岬を必ず助けるという強い意志が伝わる。
 水皇は腕を組んで椅子の背もたれに寄りかかりながら、じっと彼女を見つめた。懸念がないわけではないが、岬を救うという同じ目的がある以上、信じるしかないのだ。
   
  「あちらも、当然竜一族側からの追跡は視野に入れているはず。けれど、危険を承知でなんとかねじ込むしかない。三回目の投与である朝十時の投与の時間を狙うわ。その時間なら病棟自体も開いているから一般人に紛れて動きやすいし。」
   
  「――それで、具体的にはどうやって侵入するんだ?」
 尚吾が問う。
  「侵入経路はまず、病棟は一、二階は外来だから、普通に正面からでいいと思うの。こそこそするとかえって怪しまれるし。三、四階が開放病棟といって、普通の入院病棟のような様相をしていて、その上の五、六階が閉鎖病棟と言って出入りが規制される病棟。岬のいる『保護室』は六階の一番奥。スタッフのふりをしてもぐりこむつもりなんだけど......集団で行動すれば相手に見つかる可能性が高くなるから、二手に分かれて行動するわよ」
 麻莉絵が答える。
   
  「で、喜一とは戦うのか?」
 尚吾の問いに麻莉絵は首を振る。   
  「そうなる可能性がゼロとは言わない。でも、喜一は術力が弱いからおそらく一人では何もできないはずよ。あの家の実権を握っているのは博と幸一。喜一だけならなんとかなると思う。博や幸一が現れると少々厄介なんだけど、おそらく朝からお出ましってことはないと思うわ」
   
  「まずは、保護室の監視カメラを含むコンピューターシステムを狂わせる人間が必要よ。岬の様子は監視カメラで二十四時間体制で見張られているから、異変があればすぐに見つかる。見つかるまでの時間をかせぐために、そのシステムをごまかす必要があるから。壊すんじゃなくて、相手には正常に動いているように見せかけて、狂わせる。かなり技術が必要になるけど」
 麻莉絵は全員を見渡した。
   
  「それは俺がやる。一応IT関連詳しいもんで」
 尚吾がきっぱりと答える。
  「じゃあ、それはお願いするわ。――あとは直接岬のいる保護室へと乗り込む人間だけれど――、」
 麻莉絵が言い終わらないうちに、克也が口を開いた。     
  「それは、俺が行く」
   
 克也へと皆の視線が集中する。
   
  「克也、お前また――!」
 たしなめようとする尚吾に、克也は首を振った。
  「違う。確かに岬が心配でいても立ってもいられない気持ちなのは確かだ。だが、今回はそんな感情的な判断だけで言ってるんじゃない。――その時が全てなら、絶対に失敗できない。皆を信用していないわけじゃない、だけど――岬の状態が分からないなら......、もし万が一岬の力が暴走を始めてしまったら――他の者では到底太刀打ちできない。俺だって宝刀の力の前にはどうなるかは分からないが......少しは何かができると思う」
 克也の言葉に、一同はシンと静まり返った。
   
  「同感ね。あたしも、そう言おうと思っていたところなの」
 ややあって麻莉絵が同意した。それを見て、尚吾が鼻息を荒くした。
  「お前、克也を進んで危ない目にあわせようって魂胆じゃねーよな?」
 少々棘を含んだ尚吾の言い方に、麻莉絵はきっと尚吾を睨んだ。
  「ふざけないでくれる?あたしだって真剣なのよ!こっちだってひとつ間違えば御嵩様の立場を危うくするようなことなのよ!――あたしはね、最悪の事態を想定して、もし岬の意識がぎりぎりの状態だとしたら、この人なら岬の心に何かを投げかけられると思ったのよ。......そうならないことが一番だけど!」
  「ごめん......」
 麻莉絵の迫力に、尚吾も小さくなって謝る。
 確かに麻莉絵のしようとしていることは、一歩間違えれば一族内の争いごとに発展する。それをおしてまで、麻莉絵はこちらに協力してくれようとしているのだ。
  「それに――あの幸一たちの部下の目をかいくぐるには――『人の心に干渉できる力』を持つ者が必要だわ。そういう意味でも、あなたに来てもらった方がいい」
  「承知した」
 克也は頷いた。
   
 ややあって、克也は水皇を見た。
  「水皇さんは――、この後、屋敷に戻って引き続き、井澤や岬の家族へのフォローをお願いします。」
   
 晶子を水皇邸に招き入れる時に、すでに晶子の両親と岬の家族への連絡はしていた。もちろん、普通の生活をしていた者にこの状況がすぐに飲み込めるはずはない。時間をかけて説明することが必要だと考え、全員に水皇邸へ来てもらっていた。特に岬の父親と姉の心の中はどれほど複雑な思いが渦を巻いているのかと思うと、克也自身、すぐにでも駆けつけて二人に土下座をして謝りたいくらいなのだ。だが、今、自分が一番に優先すべきは岬の救出だと水皇に諭され、岬の家族とは会っていない。
   
 水皇は「分かった」と一言答えると、椅子から立ち上がった。
 それを見届けて、克也は視線を利衛子へと移した。   
  「利衛は、尚吾と共に行動して欲しい。」
  「分かったわ」
 利衛子も頷く。
   
 水皇は麻莉絵の目の前まで悠然と歩いてくると、目の前に鍵を差し出した。
  「中條麻莉絵。長の言うとおり、今は全てのことを忘れて僕も君を信頼しよう。――この部屋のとなりに、もうひとつ部屋を用意してある。そこで作戦を練るといい。もちろん監視や刺客など入れていないから安心していい。」
 麻莉絵は少しだけためらうと鍵を押し返す。
  「いえ、結構です」
 表情を硬くする麻莉絵に、水皇はふっと微笑んだ。
  「遠慮は要らない。本来は敵とはいえ、今は協力体制を敷いているのだし。それに、奈津河の様子は、この中では君が一番知っていることだ。君の助力が今の我々に必要である以上、君自身に倒れられても困る」
 その言葉に、麻莉絵もわずかに口角を上げた。
  「じゃあ、ありがたく受け取っておこうかしら。正直、時間もあまりないし、確かにあたしとしても休む時間は少しでも長い方がいいし」
 水皇の手からするりと鍵を受け取る。
   
 水皇は利衛子にも違う部屋の鍵を渡してそこで休むように言った。
  「水皇さん、すでに部屋を用意してあったなんて気がきいてるわねー。さすが大人の男だわ」
 利衛子が水皇に向かってウインクする。
   
  「水皇さん、俺はー?」
 せがむ尚吾に、水皇は笑って言い放つ。
  「お前はここで克也と寝ろよ。ヤローなんかに一人分の部屋を用意するなんて、そんなもったいないことできるか」
   
  「ひでー、水皇さんってば」
 しおれる尚吾を、水皇はにやにやと眺めて言った。
  「なんだ、お前、克也と一緒じゃ嫌だって言うのかー?」
  「いや、別に嫌って訳じゃないですけどね......」
 そう言って膨れながら、尚吾は克也を見た。尚吾の視線を感じ、克也がすまなそうな表情になった。
  「――尚吾、ごめん」
  「お前が謝るようなことじゃねーだろ」
  「あ、そうか――ごめん」
  「だから謝るなっての!」
 呆れたように尚吾は長いため息をつく。
    
 そんな二人のやりとりに水皇は満足そうに微笑んだ。
  「じゃ、長のことはたのんだぞ、尚吾。」   
  「へいへい」
 尚吾はひらひらと手を振る。
 水皇がなぜ自分と克也を一緒の部屋にしたのか、本当は尚吾にも分かっていた。
 克也のことが心配だからだ。
 今、精一杯の努力で普通の状態を保っている克也が、一人で考え込んでおかしなことにならないように、自分と一緒の部屋にしたのだ。
    
   
 麻莉絵はドアの方へと歩くと、ノブに手をかけながら、後ろを振り返った。   
  「それじゃあ、十時ごろの決行に向けて手はずを整えるわ。それまでそれぞれ体を休めておいて。眠れないかもしれないけど――横にはなって体だけでも休めておくのよ。分かったわね、蒼嗣克也」
 フルネームを呼ばれ、克也は少しだけ目を瞠った。
  「あたしが協力するのは竜一族じゃないわ。蒼嗣克也、あなただから一緒に行動できるのよ」
 麻莉絵は不敵に笑った。そして克也の目を真っ直ぐ見る。

  「ひとつ確認だけど......あたしたちが行った時に、岬がどんな姿になって、どんな状態でも、受け入れられる覚悟はあるわよね?」
  「もちろん。どんな状態でも、岬は岬だから」
 克也は即答した。その答えに麻莉絵は満足げに微笑む。
  「あなたならすぐにそう言うと思ってた。――だからこそ、あたしはあなたと協力する気になったのよ。岬を限りなく愛し、そして岬に心の底から愛されている、あなただから」
  「中條......」
  「中條がいっぱいいて紛らわしいから『麻莉絵』でいいわ。」
 麻莉絵はウインクし、ひらひらと手を振りながら部屋を出て行った。

   
   
   
【注釈】
  ※ → 実在の薬ではありません。
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