誤算(3)

【PG12】(参照)
   

 もうすぐ午前九時になるという頃だった。
 突然前触れもなく病院に現れた幸一に、喜一は驚いた。
  「まさかお前がこんな時間にここに来るとは......どうした?」
 何か計画に問題でもあったのだろうかと、喜一は幸一の顔を見た。
 幸一は、少しだけ間を置いた後、ぎらりと瞳を光らせた。その瞳が、いつもより狂気を孕んでいるようで喜一はぞくりとする。
   
  「――今からあいつに薬を打て」
 幸一の言う『あいつ』が誰なのかは明白である。だが、彼女に次の薬を打つと決めた時間には、まだ早く、喜一は目を丸くした。
  「『彼女』に?まだ次の時間までに一時間もあるけど......」
  「いいから!」
 幸一は声を荒げた。
   
  「無茶言うなよ、あの薬は一歩間違うと死んでしまうかもしれない薬なんだ!そんなことをしたら、どんなことになるか分からない――」
 喜一も食い下がった。医師として、自分の担当した者を『死なせる』ことだけは避けたかった。

 だが、幸一は喜一に詰め寄る。
  「一時間ぐらいたいした時間でもないだろう?――この病院がどうなってもいいのか?」
  「そ、そんな」
 喜一は口ごもった。
 素人の幸一には分からないかもしれないが、この薬を用いる場合の一時間は相当重要なものなのだ。それを乱すことは危険度を増すだけにしたくはなかった。
 だが、大切なこの病院を自分は守りたいのだ。この病院の存在が、一族の術力をほとんど持たぬ力弱い自分が、この世で生きていくための誇り。
      
  「病院をどうにかすることだけは、勘弁してくれよ......」
 困った顔の喜一に、幸一は笑いながら囁く。
  「そうだろう? ――じゃあ......どうするべきかは分かるよな?」
   
 悪魔のような囁きに、喜一は唇を震わせた。
   

   ■■■   ■■■
   
   
  『起きて』
   
 気持ちの良いまどろみに浸っていた岬は、突然強く体をゆすられた。
 だが、起きようとは思いつつもまたすぐに眠りに引き戻されそうになり、まぶたを開けることすらできない。
   
 ――あたしを起こすのは、誰?
   
  『起きて!』
 声は、より強くなる。
   
 ――起こさないでよ、あたし、まだ眠いんだから。
   
 力を振り絞って少しだけ目を開けると、目の前に、いつか見た長い黒髪の――少女が真剣な表情でこちらを見ている。
   
 「――誰?」
 ここが現実ではないと、頭のどこかで分かっていながら、岬は聞いた。
 長い黒髪の少女は、少し困ったように微笑むと、唇を動かした。

  『私は――、柚沙よ』
   
   
    
   ■■■   ■■■
    
   
 目はうっすらと開けているものの、ここではないどこかを見ているような岬に、幸一はにやりと残酷な笑みを見せる。
  「もうあっちの世界に行っちゃってるんじゃないのか?こんな小さな体だ、効きも早いのかもな」
 うつ伏せになっていた岬の体を、乱暴にごろりと転がし、仰向けにさせた。
 だが、どこか一点を見つめたままの岬は抗おうとはしない。
 制服は乱れ、留めていた髪はゴムが緩み今にも外れそうになっていた。中途半端に口を開き、四肢は力なく投げ出されている。
  「ある意味そそる格好だな。」
 言うことはどぎついが、幸一自身はたいした興味もなさそうに岬を一瞥する。
   
  「まだ、薬の利きが強い状態だ。本当はもう少し前回の薬の効果が減少してから次の薬を打たなければいけないのに......。こんな状態で次の薬を打てばどうなるか......」
 難しい顔をして唸る喜一を、幸一は睨みつける。
 喜一は一度ため息を漏らすと、プラスチックの箱のふたを開ける。
      
 喜一は岬を見つめた。
 一回目と二回目の時にはあんなに抵抗したのが、今は全く抵抗を見せない。薬との相性が良すぎるのか、まだ想定の半量も投与していないというのにこれでは、薬の影響が強く出すぎている。自分がこれまでに見た症例にも、ここまで効きが強かったことはなかった。この薬の怖さを改めて感じる。
 ――もはや正常の姿ではない――......医師としての良心がちくりと痛んだ。  
 だが、自分には幸一の言うとおりにする以外の選択肢はない。
 薬の入った瓶に注射針を挿し、薬を注射器へと吸い上げる。
      
  『本当に、ごめん』
 心の中で岬に謝りながら、喜一はそっと岬の左腕をとりアルコール消毒をする。そして、同じく左腕に打った一回目の時に刺入した場所とは、少々ずらした位置に針を差し込み、ゆっくりと針を進めて薬を注ぐ。
 岬は身じろぎもせず、それを受け入れた。否、受け入れたというよりも、何もしなかったという方が正しい。白昼夢の中にいる岬は表情ひとつ変えなかった。暴れた時のことを考えて、一族の男性看護士二人を内扉の外に待たせてはあったが、今回はこの者たちの出番はなかった。
   
 そんな喜一の斜め後ろで立ったまま腕を組んでいた幸一は、喜一が注射の跡に保護パッドを貼り終えると、おもむろに岬と喜一の前に片膝をついてしゃがみこんだ。
 喜一が針をしまったりと後片付けをしている間、じっと岬を見つめる。
   
  「これで三回目完了か......。まだ先は長いな。でもまあ、これほどおかしくなってるなら、こうするにはもう十分だろう......」
 幸一は、注射をした左腕を上にして横たわった状態の岬のあごを片手で乱暴に捉え自分の方に向かせた。
 顔はこちらを向いたが、心はどこか遠くにあるような表情の岬。
 覆いかぶさるようにして、岬の唇に自分の唇を最大限近づける。どちらかの唇があと少しでも動いたら触れてしまうというところで、   
  「幸一、お前――!」
 喜一の方が慌てて声を荒げた。
   
  「冗談だよ、こんなお子様を襲うほど、俺は飢えてないっての」
 岬を離し、幸一は肩を揺らして笑う。   
  「――ただ、ちょっと暗示の術をかけさせてもらっただけだ。俺の言うことだけを聞くようにね」
  「幸一 ――?」
 喜一は怪訝な顔をした。
  「これでこいつ――宝刀の力の主は俺の言うことしか聞かない。誰のことも――親父の言葉さえも。――俺はもう親父を超えた!いつまでも古い考えにしがみついている親父の言うなりにはならない!俺はもう自立できるんだ!――そして、ついに俺は今、あの御嵩をも超えたんだよ......!」
   
 愉悦に満ちた表情で言いながら、幸一は再び岬の顔を覗き込む。   
   
  「そうだよな?――『岬』」
 幸一の呼びかけに、岬の表情が動く。
 その様子に喜一は恐怖を感じずにはいられなかった。
 幸一に声をかけられた岬は――、鮮やかに微笑んでいたのだから。

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