誤算(8)
さらに奥へと進むと、いくつかある部屋に今は他に誰もいないようで、ひっそりとしていた。そのせいか、空気までひんやりとしているような気がする。
突き当たりの、非常階段の横にある一番奥の部屋の前に人が一人立っていた。
おそらく奈津河一族の者だろう。
「やはり簡単にはいかないってことか......」
克也は独り言を言って小さくため息をつく。
そして改めてその顔を見て思わず口を開いた。
「――、お前は、吉沢 鷹乃(よしざわ たかの)――」
目の前にいたのは長い髪を結い上げて上のほうでまとめてある、薄いピンク色の看護士スタイルの女性――には見えるが、吉沢鷹乃は戸籍上は男性のはずである。
『吉沢鷹乃の心は女性だと聞いたことがあるが......』
何も知らなければ大柄な女性ということで疑問をさしはさむ者はいないだろう。
「竜の長ともなれば、幹部の一人であるこの私の顔くらい分かっている、という訳ですね......」
鷹乃はにこりと笑う。だがその笑みからは感情が読み取れない。
「なるほどな、名が似ているからまさかとは思ったが――、先ほどの少女はお前の妹か」
「ええ。十も歳の離れているせいか、とてもかわいくて仕方がないんですよ」
鷹乃は思い出すように少しだけ遠くを見た。そして、視線を克也へと戻す。
「あなたがここにそのカードを持ってきたということは、――雁乃を殺したんですか?」
克也の手に握られたIDカードを見つめながら、鷹乃は目を細めた。
「殺してはいない。邪念を送ってきたから、ただそれを少しだけ強めて返しただけだ。加減はしてあるから、一日も経てば目覚めるはずだ」
克也は答える。
「そうですか......。けれど、残念ですね――、そのカードだけじゃ、宝刀の力の主のもとにはいけませんよ?」
丁寧な言葉遣いは崩さず、だが友好的な空気など微塵も見せずに鷹乃が言い放つ。
克也は眉根を寄せた。
「この部屋の扉は二つあって、私が持っているこの第二の鍵がなければ、内側の扉は開かないんですよ。この第二の鍵は昨日付け替えたばかりでしてね......鍵を持っているのは私と喜一様、そして幸一様だけ」
チャラ、と音をさせながら、鷹乃は自分の目の前に銀色の鍵を掲げる。
克也がその鍵を奪おうと地面を蹴るのと同時に、鷹乃も後ろへと跳んでそれをかわす。
お互いの着地の音はほぼ同時だった。
「雁乃を傷つけたあなたに、これを渡すわけにはいきませんよ。――雁乃は繊細なんです。邪念をそのまま返されてもキツいだろうに、それを強めるなんて」
表情からやわらかさを消し、鷹乃が告げる。
「先に手を出したのはそっちだ。俺の知ったことじゃない」
克也も不快感を顕にする。
「それは――あなたたちが奈津河の邪魔をする以上、こちらも致し方ないこと......」
「お前たちが岬に手をだしさえしなければ、俺が今ここにいることもなかっただろうよ」
克也が低い声で告げる。
「宝刀の力は我らのもの。それを取り戻すことは正当なことです。非があるというのならそれを横取りした竜一族の方にこそあるはずです」
「違う......、俺はそんなものが欲しいわけじゃない。」
「違いませんよ。だって栃野岬を手に入れれば、自動的に宝刀の力も付いてくるんですから。あなたもずるい人ですね。彼女を手に入れれば宝刀の力も手に入れることができるのだということを認識したことが一度もなかったと言い切れますか?」
「それは――」
かつて、自分もそのことを考えなかったわけじゃない。そのことで悩んでもいたのだ。
自分が欲しいのは岬という一人の人間であって、宝刀の力ではない。けれど実際に客観的に見たら、自分たちの意思とは別に、岬が宝刀の力の主であることの恩恵を既に自分は受けてしまっているのだ。
「未だかつて、宝刀の力を手にした竜族の長はいない。その最初の長となる貴方――。宝刀の力を手に入れた英雄......」
聞き心地の良くない言葉を、わざと鷹乃は使う。
「違う......!」
叫びとは裏腹に、自分の何かが鷹乃に引きずられる感覚があった。
ぐるり、と克也の視界が回る。
「さあ、あなたのなかの葛藤を思い出して......苦しみから解放されて楽になりなさい......」
鷹乃の指が克也の頬をつつ、と撫で、歌うように鷹乃がささやく。
彼女の呟きは航行者を惑わすセイレーンのように、心地よく妖しい響きを持っていた。
抵抗しなければと思うのだが、頭にもやがかかったようで体が動かない。
『このままでは死ぬ』
そう思った。
分かるのだ。
『――岬!』
朦朧とする意識の中で、克也は呼んだ。
こんなところで、負けるわけには行かない。
必死で目を開けると、うっすらとする視界の中、鷹乃の姿の向こうにステンレス製の扉が見える。
――あの扉の向こうに岬がいるのに。
――こんなところで、倒れるわけにはいかない!
「はあああああああっ!!」
克也はありったけの力をこめて、叫んだ。邪念を跳ね飛ばすように。
途端に力の放射が起こり、小さな爆発が起こる。
それは小さいけれど、その場にいた鷹乃に衝撃を与えるには十分だった。
鷹乃の身体はそのまま壁に強く打ち付けられ、そのまま床に崩れ落ちる。
「くっ......」
鷹乃のくぐもった声が克也の耳に届く。
鷹乃の力から開放されて克也は肩で息をしながら立ち上がり、倒れたままの鷹乃を見下ろした。
鷹乃が今使った力は、誰の心の中にも存在する葛藤を引き出して、死に導く死神のような力だ。
竜一族の巽志朗も似たような力を持っていたが、鷹乃のものはそのままその者を直接死に導けるほどの威力があり、志朗のものそれよりももっと術の完成度は高い。自分の心のもっと深いところの問題を突かれたら、果たして戻ってこられただろうかと思うと、ぞっとする。
打ち付けられた衝撃で体の自由が奪われて動けなくなった鷹乃を前に克也は手をかざす。
ある種の覚悟を持って克也は自分の手に力を集中させた。
「や、やめろ......!!」
鷹乃から言葉の丁寧さが消え、切羽詰った様子で叫んだ。
克也は両手を鷹乃の方にかざし、そしてすぐに、まるで糸を手繰り寄せるように見えない何かを掴んで自分へと引き寄せた。
途端に、様々な映像が自分の中に流れ込む。
「こいつも......苦労、してきたんだな......」
意識朦朧となったようで、ゆるゆると瞳を閉じた鷹乃を克也はちらと見る。
克也の頭の中に流れてくるのは鷹乃の経験だ。
卑劣ないじめ。
『おんなおとこ』
子供のはやし立てる声がぐるぐると頭に回り、響く。
そこから、映像が別のものに切り替わる。
『あの子は、死ぬために生かされているのです』
『ああ、【影】の方か』
声が響く。
いつか聞いた声。
それが『自分自身の体験』なのは克也にも分かっていた。
鷹乃の記憶に引きずられて、自分の中の苦い記憶も引きずり出されている。
吐き気がする。
だが、
「今は、それに構っていられないんだっ!」
頭のもやもやを振り払うように克也は叫ぶ。
「眠れ......」
鷹乃の心を一時的に支配下に置こうとする。
『イヤダ、オマエナンカノ メイレイナンテ キクカ!』
鷹乃の心の声が反発する。
その反発はなかなか抑えられない。
長引くと、今度は自分の記憶が膨らむ。
苛立つ気持ちに溺れそうになった時――突然、岬の笑顔が脳裏に浮かんだ。
鮮やかに思い出せる笑顔と明るい声。
『お前は――、こんな時にまで、俺を助けてくれるんだな......』
克也は薄く微笑んだ。
これは、実際に岬が力で助けたわけじゃない。だが、マイナスの意識にとらわれそうになった自分を引き戻したのは、自分の記憶の中にある岬の笑顔だった。
心の集中を高めるため、息をすうっとひとつ吸う。
そして、克也は扉の向こうにいるはずの愛しい者に向かって告げる。
「全く......。助けるのは『お前が俺を』じゃなくて、『俺がお前を』なんだっていうのに――」
口元に笑いを残したまま克也はそう口にすると、一気に自分の力を目の前の対象に向かって開放した。
鷹乃の弱弱しくうごめいていた腕は、克也の術によって気を失ったせいで、そのまま重力にしたがってぱたりと床に下ろされる。 とはいえ、鷹乃も雁乃と同じように一日も経てば復活するはずだ。
「ぶしつけに記憶を読んで悪かったな......」
克也は気を失ったままの鷹乃に謝った。一時的にとはいえ、他人の意識を支配下に置こうとすると、その意識とシンクロするため、どうしても記憶を読んでしまうのだ。
自分の記憶を読まれるということは、裸にされるのと同じくらい屈辱的なことだと克也は思う。
誰にでも、他人に不用意に踏み込まれたくない記憶というのはあるのものだ。能力があるからといって、好き勝手に覗き見ていいものではないはずだ。そういう意味でも、克也はこの能力をできることなら使いたくない。
だが、今回はそんな生ぬるいことを言っていては岬を助けることはできない。
ほっと一息ついて、克也ははっとして腕時計を見た。
時刻はもうすぐ三時になってしまう。
慌てて鷹乃のポケットを探ると、金属の硬い感触が指に触れる。先ほどの鍵だ。
乱暴に鍵を掴むと、目の前のステンレス製の扉の横についているリーダーにカードを滑らせる。
すると、カチリというロックが解除される音がした。自動でその扉が少しだけ開いた。それと同時に克也は目の前の扉を押した。
―― 扉が、開いた。