偽りの微笑(1)

 ふわり、と白い花びらが目の前をひらめいていく。
   
 ――また、だ。
   
 なぜ自分がこんなところにいるのかは全く分からないけれど、この風景には見覚えがあった。
   
 その場に佇み、花の散るのをずっと眺める。
 すると、すうっと岬の横に少女が並ぶ。
 黒髪を腰まで伸ばした着物姿のの少女だ。
  
 ――確か『柚沙』って言ってた......
   
 そのことだけは思い出す。
 その名前を、相手が名乗る前からどこかで聞いたような気がしていた。だが、どこで聞いたのか、それが誰なのか、全く思い出せない。
   
 傍らの存在に目をやると、少女――柚沙――が哀しげに微笑んだ。 
  「ごめんなさい」
 柚沙は謝る。
   
 岬には、なぜ自分が柚沙に謝られるのかが分からなかった。
   
  「――どうして?どうして謝るの?――あたし、あなたに謝られるようなこと、何もないよ」
 岬は微笑む。
  「つらいことも、悲しいことも、嫌なことも全然感じないよ」
 根拠はないけれど、そんな気がした。
 今まで自分が何をしていたのか、何も思い出せない。けれど今、それはどうでもいいことに思えた。
   
 そんな岬を見て、柚沙はますます泣きそうな顔をする。
   
  「どうしたの?何がそんなに悲しいの?」
 岬は柚沙の肩に手を置いて顔を覗き込む。
      
  『本当に、ごめんなさい。私(わたくし)のせいで、あなたにこんな過酷な運命を課してしまった――』
 柚沙は瞳を伏せた。
   
  「過酷?何の話?分からない」   
 今の岬には本当に何も分からないのだ。自分が誰なのか、それすらもあやふやな気がする。
 けれど、なぜか不安は感じなかった。
 地面に足がついているのかついていないのか、時折分からなくなるほどに、体全体がふわふわとした感触に包まれていて、本当に何も感じない。それなのに、気分だけはどんどん高揚していくような気がしていた。
   
   
  『わたくしが、間違っていたのです。わたくしには、希望を捨てる勇気など持ち合わせていなかったというのに――』
 柚沙は苦しそうに拳を震わせる。
  『それでも、わたくしは、まだ、未練を断ち切れない。――......に、会いたい』
   
 肝心な部分が風の音にかき消されて聞こえず、岬は尋ねた。  
  「誰に、会いたいの?」
   
 すると柚沙は、岬と視線を合わせないままにゆっくりと顔を上げる。
   
  『愛しい方に――会いたいのです』
   
 柚沙が口にした『愛しい方』という言葉に、岬はどきりとした。
 胸の辺りに手をやると、心臓が早鐘を打っていた。
 自分も、『愛しい』と思う誰かに、とても会いたかった気がする。
   
  「一体、誰に――?」
 目を細めて考える。
 けれど、真っ白な自分の頭の中には何も浮かんでこない。
   
 ふわり、ひらり、岬の考えを遮るように、次々と目の前を花びらが通り過ぎていく......。
   
   

   ■■■   ■■■
   
   
 喜一は呆然とモニターを見つめていた。
 映っているのは一人の少女。大半は床にごろりと横になっていて、時折よろよろと這い出す。正気を失った――いや、無理やり失わされた哀しき人形。
   
 その人自身の感情など、それを利用する相手にとってはどうでもいいのだ。
   
  「感情を無視された人形――か」
 自分だってたいした違いはないのだと自嘲気味にため息をつく。
 父親である博や兄の幸一にとって、自分の利用価値などこの『医者である』こと以外にないのだ。
 それでも従っているのは、自分のプライドの最後の砦であるこの病院があるからに他ならない。
   
  「この病院のために、医者としての道を外れるなど、人は愚かだと笑うんだろうな......」
 医者は、患者を幸せに導くことを自らの喜びとする。
 だが、今自分がこの少女にしていることは、それとは正反対のことだ。自分の心に痛みがなかったかと問われれば当然『否』となる。
 とはいえ、この病院の存続・発展のためにそうすることが不可欠であるのなら、迷う余地はないのだ。たとえそのために自分は闇に堕ちても。
 せめて、あの少女がこれ以上つらいことを考えなくてもすむように、きちんと意識をぎりぎりまで壊してやることが、自分の役割――。
   
  『もしかすると、状態によってはもう薬を打つ必要もないかもしれない』
 喜一は背もたれに背中を預け、腕を組んだ。

     
 「あと少しで三時か......」
 片手でParadiseの入ったケースを持って椅子から立ち上がる。悲劇の少女を狂わせる悪魔の薬。そして同時に、余計なことを考えずに済むように彼女を救う唯一の薬でもある。たとえ本人が望まない形だとしても、今はそれが最上のことなのだ。
   
 手伝いの看護士を呼ぼうとして、三回目の投与の時の少女の様子を思い出す。
 『もう、一人で十分だろう』
 思い直し、そのまま歩き出す。
   
 あの部屋へと――。   
   
   
   ■■■   ■■■
   
   
 克也は一歩を踏み出した。   
 それだけで、緊張で心臓がきりりと締め上げられるような錯覚にとらわれ、心が悲鳴を上げそうになる。
   
  『何を見ても――逃げない自信もあるか?』
 尚吾の言葉が思い出される。
  
 少し先にもうひとつの扉がある。その扉は上半分が鉄格子になっている。
   
 覚悟をしてここに来たはずなのに、足が重い。
   
 ――会いたい。けれど、今の岬がどんな状態なのかを確かめるのは怖い。
   
 わずかな距離なのに何倍にも感じてしまう。
 鉄格子が目の前に迫った時。
   
  「――っ!」
   
 克也は思わず鉄格子を掴んだ。
 もうその前にあった葛藤など一瞬で飛び去っていた。
   
 鉄格子のその先に、一人の少女がうつぶせに横たわっている。
 見覚えのある制服。――表情は乱れた長い髪に隠されていて見えない。だが、紛れもなく、岬であることが、克也にははっきりと分かった。
   
 克也は慌てて先ほどの鍵を取り出し、施錠された錠前の鍵穴に差し込もうとした。  
 だが、焦って手がもたつく。
   
  「くそっ」
 
 何度かの試行錯誤の末、ピンッという音と共に、ようやく鍵が開いた。
 ようやく内側の扉を開こうという時――
   
  「誰だっ!」
 克也の背後で鋭い声がした。
 振り返ると、外扉から入ってすぐの場所で、白衣の男がこちらを睨んでいる。
   
  「中條喜一......」
 内扉を後ろ手に、克也は喜一へと向き直った。
 麻莉絵によれば喜一の力はそれほどでもないらしいが、油断は禁物だ。
   
 喜一は克也を見て目を瞠る。   
  「あなたは竜の長......?」
      
 克也は答えない。だが、それこそが肯定の意であることは、喜一にも分かったようだった。

  「なぜ?病院内の監視カメラに異常はなかったはず......」
 喜一は呆然と呟く。
  「さあな」
 そう答えながら、克也は心の中で尚吾に感謝した。
  『幸一は無理でも、こいつは誤魔化せたか......』
   
 次の瞬間、視線は喜一から離さず、克也は後ろ手に扉を一気に開いた。
   
  「待てっ!」
 喜一も慌てて走り寄るが、とっさに克也が張った蒼い壁に当たって弾き飛ばされる。
   
  「岬っ」
 走り寄り、横たわる岬を抱き起こした瞬間、克也はぞくりとした。
   
 岬の体には全く力が入っておらず、しかも体温も低く感じられたからだ。   
 まるで体の機能が、いろんな意味で削ぎ落とされ、最低限の機能だけ残されたような――
   
 だが、静かな呼吸音が聞こえてきて、克也は少しだけホッとする。
   
 そして喜一は、跳ね飛ばされた衝撃で腰を打ち、痛みに体を震わせていた。
  「......もう、遅いですよ、竜の長」
 うめくように言葉をつむぐ。   
  「彼女は既に......あなたの知っている、彼女じゃ、ありません。中途半端に、意識を残せば、彼女が、辛いだけです......」
   
 喜一の言葉に意味を図りかね、克也は眉根を寄せた。
   
 喜一は続ける。      
  「彼女は――Paradiseと相性が、良すぎた。まだ、半量なのに、もう、後戻りは、できない状態になってしまった。なら、せめて、これ以上、彼女が余計なことを考えないでいられるように、してやることが、優しさ......」
   

 喜一の言葉に、克也は一気に怒りの感情が高まる。
  「勝手なこと言うな!そんなもの、優しさでもなんでもない!自分の行為を正当化するための言い訳だ!」
   
 克也の叫びに揺り起こされたのか、腕の中の岬がみじろぎをした。
   
 ――克也は、しばし息をするのを忘れた。

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