偽りの微笑(2)

 その双眸が、まるでスローモーションのようにゆっくりと開かれるのを、固唾を呑んで克也は見つめた。
   
 克也はその顔を覗き込むが、岬はそのまま動かない。
 感情のない、無機質な瞳。目の前にある克也の顔にも反応しない。自分が今、誰の腕の中にいるのかも全く意味のないもののように、ただ、目を開けているだけ。
   
 克也も、言葉を発することができなかった。
   
 分かってはいた。
 だが、いざ目の前にすると衝撃を隠せない。
 岬を抱く腕がわずかに震える。
     
 しばらくして、岬はむくりと起き上がった。
  「み......さ、き?」
 克也はようやく名を呼んだ。声がかすれる。
 岬は何の感慨も持たないようで、克也の腕の中でも無表情のまま前方をぼんやりと見つめる。
  
 そして――何の前触れもなく、ふわりと微笑んだ。
  
 だが、一見ただの微笑だが、身近で岬を見てきた克也には、明らかにその異様さが分かってしまった。
表情は笑顔ではあるのだが、そこに嬉しいとか楽しいというような感情は見られない。
 ただ、顔が笑顔を象っているだけの、無表情に等しい、人形のような笑顔。
 『意識が破壊されていくと本人にとっては楽園にいるような気分がいい状態が続く』と麻莉絵が言っていたが、岬は今、そんな快楽の中にいるのだろうか。   
   
 自分の腕の中にいるのは紛れもなく岬であることは頭では分かっているのに、一瞬それがあやふやになるような感覚に目眩がする。克也は、呆然と岬を見つめた。
   
   
 その時――。 
 
  
  「そこまでだな」
 急に、今までいなかったはずの人物の声が投げつけられ、克也はぱっと声のしたほうへと向いた。
 内扉のすぐ外側に腕を組んだ幸一が立っている。
 幸一はすぐに扉を開け、中に入ってきたが、先ほど幸一を相手にしていたはずの麻莉絵の姿が見当たらない。
   
  「幸一......。――麻莉絵はどうした?」
  「そんな怖い顔をするなよ。御嵩の犬はあまりにも煩いから、蹴散らしてきた。あんな女の相手よりこっちが重要だからな。――鷹乃はできるやつだが、竜の長相手じゃどうなるか分からなかったし、雁乃や喜一じゃ役に立たんからな」
 ちら、と壁際にいる喜一を横目で見る。喜一は下を向いて表情をゆがめる。
   
  「ここまでたどり着けたこと、さすがだと褒めてやろう。だが、遅かったな。」
 ゆっくりと幸一は二人へと歩を進める。
   
  「こっちへ来い、岬」
 幸一が横柄に呼ぶと、岬は克也の腕を押してゆらりと立ち上がった。
  「ダメだ......!」
 とっさに、克也は岬の体を抱きしめる。
 だが、岬は克也の手を振りほどこうともがく。
  「あ......ああー......」
 まるで赤子が母親を求めるよう、その手は明らかに幸一の方へと伸ばされていた。
   
 その様子を見て、幸一は満足そうに高笑いする。   
  「そうだ!お前の主は俺だ!こっちだ、岬!!」
 語気を強めて幸一が呼ぶと、岬は起き上がる力さえ弱弱しい今の状態からは考えられないような力で克也の手を振りほどき、幸一のもとへとよろよろと歩み寄る。
   
 幸一はたどり着いた岬の肩を抱き寄せた。   
  「よし、上出来だ」
 口元に笑みを浮かべる。
   
 すると、岬は微笑みを浮かべたまま幸一の胸に頭を預けた。
   
  「この女はもう、俺の言うことしかきかないんだよ。こいつのことは諦めろ。竜の長。」
 幸一は余裕の笑みを浮かべる。
   
 克也は拳を握り締めた。 
  「――たとえ――岬が、お前の言いなりだろうと、俺を見て何も言わなくても――。俺は――岬を諦めない。ずっと共にいると――決めたんだ」   
 言い切る克也に、面白くないというように幸一の笑いが消える。
   
  「この女も、正気の時は同じようなこと言ってたっけな。だが――甘いな。目を見開いてよく見るんだな、この女が今、どういう状態なのか......」
   
 そう言って幸一は、岬の顎を右手で捕らえ、左手で岬の腰を抱く。岬は笑顔を消したが、逃げようとはしない。
 幸一は横目で克也をちらっと見やると、わざと克也にはっきりと見える角度で、不敵な笑みを浮かべながら岬の唇に自身の唇を押し付け、すぐに岬の口の中へと舌を滑り込ませる。
   
 「――やめろ......!!」
 耐え切れずに克也が叫んで幸一に殴りかかるが、幸一は一瞬だけ左手を離して防御を張る。
 突然出現した防御の壁に克也は弾かれた。一瞬体勢を崩して床に叩きつけられそうになっるが、すぐに立て直して横へと着地する。
   
 岬は幸一を瞳に映しながらも、それは意識の中には入っておらず、焦点は別のところにあるようだった。ただ目を開いたまま表情一つ変えず、深いところを乱暴にまさぐるような愛情のかけらもない口付けを受け入れる。   
   
 幸一は、左手で岬の腰を寄せたまま、唇だけを離した。
   
  「竜の長のうぶな反応があまりにも面白くて、もっと虐めてやりたくなるな」
      
 克也が青ざめるのを愉しむように薄笑いを浮かべる。
  「だが――、あいにく、俺は壊れた人形には全くそそられなくてね。何の反応もなしなんじゃ、欲情もしやしない」
  
 幸一が言い放った瞬間、克也は手のひらに光の刃を出現させると幸一の頭部めがけて粗雑に投げつける。
 刃は、それを軽くかわした幸一の、顔の横を通り過ぎる。   
   
  「お前がそう思っているってことは、岬にこれ以上の危険がないということ。それは安心した。だが、岬をそんなふうにしたのは他でもない、お前じゃないか......!......それなのにそんな下劣な言葉――絶対に許さない!」
 克也が再び手のひらへと力を集中させると、その中心が光を放ち始める。そこから出現したのはさきほど投げつけた刃より少し長い、四十センチほどの剣のような光の刃。
 それを手に、克也は再び地面を蹴った。
 そのまま、正面から幸一の頭部めがけて刃を振り下ろす。
      
 幸一が岬を離し、岬のいる方とは反対へと横に飛んでそれを避けたため、克也の刃は空を切った。だが、克也はすぐに体勢を整え、もう一度横に刃でなぎ払う。
 狭い部屋の中ではそれをよけきれず、その衝撃は幸一の肩をかすめた。
   
  「っ......、いっ、てえ」
 幸一は肩を押さえた。その押さえた指の隙間から白いシャツが赤く染まってゆくのが見えた。
  「やっぱりお前は邪魔なようだな!――殺してやる!」
 鬼のような形相で睨みながら、幸一は叫んだ。

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