偽りの微笑(4)
岬の恐ろしいまでの鮮やかな笑顔――それは、確実に克也へと向けられていた。
「岬!ダメだよ!その人はあなたの大切な人だよ!あなたの手で殺めたらダメ......!」
麻莉絵が叫んだ。
だが、その叫びも岬が巻き起こした一陣の風にかき消される。
岬は片手を頭上に掲げる。その岬の手のひらに力が集中するのが分かった。
「岬......!!」
克也が叫んだその瞬間、岬の表情が歪んだ。
そして、そのまま膝から崩れ落ちる。
「あ......ああ......っ!」
岬は頭を押さえて悲鳴を上げる。
瞬間、岬と幸一を中心にうなりを上げて風が巻き起こる。周りから全てを排除しようとでもいうように吹き荒れる風の中、克也は自分の周りに防御の壁を張ることで飛ばされずにすんだ。
岬の起こした風は以前、御嵩の結界の中で起こしたものより小さいものだが、六畳ほどの狭い部屋では一瞬にして外側の壁を崩した。
「やめろおお!」
喜一が悲鳴を上げる。
それと同時に、幸一は自分の体の内側からの変化を感じて、動きを止めた。
『な、に......っ!?』
自分の中の何かが、何かとても大きなものに引っ張られる感覚。今まで感じたことのない感覚に、うろたえる。
足元の岬を縋るように見下ろすが、岬はただうずくまって頭を抱えているだけだ。
何より、今の岬には状況を説明できる意識やこの場を収める技術などないのは分かっている。岬の意識を壊したのは他ならぬ自分なのだ。それでも見ずにはいられなかった。
「ぐっ......ああっ!!」
自分をさいなむ苦痛、それは例えるなら、得体の知れないものに内臓が全て引きずられるような苦しさだった。幸一はついに自分自身を支えていられなくなり、その場に膝をつく。
克也は、幸一の発した声に顔を上げた。
苦悶の表情を浮かべる幸一を見て、もしや、と思う。
意識を壊され、守人である岬の制御が『核』となる部分だけになった宝刀の力を制御するには、岬の制御の消えた空白部分に術者の力を制御の柱として埋め込む必要がある、制御の柱とは、言いかえれば『引きつける力』であり、そうすることで岬の意識も術者の方に引き寄せることができる。岬が幸一の意のままになっているところを見ると幸一はそれを実行したはずだ。
――ただ、宝刀の力が走り出してから、少しだけ残した岬の意識が何らかの理由で制御を完全に手放したとき、『制御の核』を見失った宝刀の力は暴走する。その時は制御の柱を埋め込んだ本人が暴走した力の制御を任されることになり、膨大な宝刀の力を一人で背負うことになる。
術をかけた者の制御の柱が宝刀の力に負けた時には――
頭を抱えたままの岬の肩を抱き、克也は語りかける。
「岬、岬!?ダメだ!やめろ!このままじゃ、お前はあいつを殺してしまう......!相手があんなヤツでも、――お前は人を殺すな!」
耳元で叫ぶが、岬は頭を押さえたまま何の反応も返さない。
克也はとっさに、その場にのた打ち回る幸一の横へと歩を進めた。
「中條幸一、お前、岬の意識を制御する術をかけただろう?」
幸一を見下ろす。幸一は苦しそうに目だけを動かした。
「お前も知っているはずだ。宝刀の守人の意識が力を制御することを完全に放棄したとき、宝刀の力は暴走する。そして術を施した者の制御の力が宝刀の力に負けた時――、暴走した力の影響はまず最初に制御の柱を埋め込んだ者にかかり、やがてその者は宝刀の力に内側から飲み込まれて消滅する。暴走した宝刀の力の最初に犠牲になるのは術をかけた者――つまり、今回はお前だ」
克也の言葉に、幸一は何かを言いたげに起きかけるが、すぐにくぐもった声を出して苦しみだす。
「だから!宝刀の力は薬の外的な力なんかで制御できるほど甘くはないんだ!!」
克也は叫んだ。
そして、息を整えると再び口を開く。
「もう岬は制御を手放した......もう暴走は始まってしまった......。このままでは宝刀の力はお前を確実に飲み込む。だが――、たとえお前であっても岬に人を殺させるわけにはいかない。だから、お前には――俺が手を下す」
克也は、すっと手のひらを胸の辺りで横にスライドさせる。すると今度は蒼い光が手のひらに出現したと思うと、それはやがて長剣の形をとる。
「お前が岬の心を壊したことが、宝刀の力の暴走を招いた。――これは当然の報いだ」
「な、にを......っ!っざけるな......!」
幸一は胸を押さえながら克也へと光の刃を投げる。だが、苦しさの元で繰り出された攻撃だったため、その刃は的を外し克也の頬に一筋の傷をつけて空洞の開いたかつて壁であったところの向こうに消える。
克也は幸一の放った刃の行方を見ることもせず、冷たい目で幸一を見つめた。
幸一は宝刀の力の威力にのた打ち回り、ついには床に仰向けに転がった。
「お前ももう終わりだ」
身の危険から逃げようと身をよじる幸一だが、そんなことは気に留める様子もなく、克也は告げる。
「岬の恐怖と苦しみを思えば、お前はもっともっと苦しむべきだ。こんなに簡単に楽にしてやるのも癪だが......お前には、もう時間がないからな......」
そう言って克也は刃を振り下ろす。
蒼い光の刃は、幸一の心臓に真っ直ぐ突き刺さった。
幸一は、驚愕に目を見開いたまま、一度びくりと動き――そのまま動かなくなる。
そして一瞬にして――亡骸ごと消え去った。
その瞬間、克也ははっと岬の方を見た。
亡骸ごと消し去るような力はは克也のものではない。岬の力だ。
自分が幸一にとどめを刺したことで幸一の抵抗がやみ、あっさりと宝刀の力がその存在を消し去ったのだ。
岬はまだうずくまって頭を抱えている。
瞬間、岬の周りを取り巻く風がいっそう強くなった。
自分の制御を手放し、そして中條幸一の制御も失い――今、宝刀の力は制御を完全に失っている。暴走した力がさらに威力を増すことは必至だった。
岬を取り巻く風はいっそう強くなり、周りがどうなっているのかが分からない。
だが、遠くで何かが壊れる音と悲鳴のようなものが次々に聞こえていた。
喜一の姿も、麻莉絵の姿も、見えない。
『とにかく、岬を止めないと......』
このままでは、この病院ごと――いや、この世界ごと、破壊し尽くした後に消滅する。
すなわち、岬はこの世界を終わらせてしまうのだ。
その果てに何があるのかは分からないが、岬にそんな恐ろしいことをさせるわけにはいかなかった。
――『だってあたし、克也がいいもの。どうせ操られるんだったら』
急に、先日の岬の言葉が克也の脳裏によみがえる。
――岬。
克也は、うずくまる岬のそばに跪いた。そして岬の両腕をつかんで、ゆっくりと頭から離させた。そこから表れた岬の顔にはやはり表情はない。
「お前の代わりに威力を増した宝刀の力を止めることができるのか――、分からないが、やってみる」
とはいえ、岬が完全に制御を手放し暴走した宝刀の力を止めるほどの力が自分にあるとは思えないことは頭のどこかで分かっている。
以前御嵩が宝刀の力を暴走させた時とは違う。あの時にはまだ岬の意識が戻る希望があった。だが、今回は岬の意識が戻ることは絶望的なのだ。
けれど――
「このまま何もせず、お前だけに全てを背負わせるわけにはいかない。――ごめん......な」
岬の頬にそっと自分の手のひらを添える。
『俺も、一緒に、世界を終わらせる罪人になるから......』
克也の悲痛な決意の言葉にも、幸一に人としての意識を奪われた岬は表情を変えることはない。ただ、呆然とどこかを見つめているだけ。
けれど克也はそんな岬を見つめ、限りなく優しく微笑んだ。
「愛してる、岬」
好きだとは何度も言ってきたが、この言葉を使ったのは、もしかすると初めてかもしれない。
ゆっくりと、表情を失った岬の唇に自分の唇を触れさせる。
その瞬間、克也は宝刀の力の制御を背負うべく、岬の意識へと制御の柱を埋め込む。
すると、勢いを止めることのなかった岬を中心に吹き荒れる風が、勢いを弱めた。
それと同時に、克也は息苦しさに胸を押さえ、がくりと膝をついた。肩で息をする。
『引きずられる――!!』
克也は苦しさにうめいた。
体の中のものが全て引きずり出されそうな感覚、これが暴走した宝刀の力。
『あいつも、苦しかったろう』
先ほど自分が黄泉に送りつけた男のことを思った。
額に冷や汗がにじむ。
諦めたくはない。
引きずられる自分の力を何とか自分に留めようとする。
だけど、この強大な力は想像をはるかに超えている。自分に力がなかったら、とうに一瞬で生命までもぎ取られて消滅しているはずだ。
こんな化け物じみた力を、持ち主以外が制御しようとするだなんて、はなから無理な話だったのだと思い知らされる。みんな無駄なことをしているのだ、竜も奈津河も。
「み、さき......」
克也は苦しい息の中、岬の名を呼び体を抱きしめる。
もう動くことすらままならない。だが、克也は懸命に腕に力を入れた。
愛しい、岬。
何があっても、もう離さない。
さいごまで――