退けぬ思い(5)
返り血を浴びながら、喜一は破片を突き刺す腕に力をこめる。
ガラスの破片などという中途半端なもので傷口を抉られる痛みに、博は苦しみ唸る。
博の血だけではなく、握り締めた喜一の手のひらや指からも血が滴り落ち、あたりは凄惨な現場と化していた。
「竜の長の、結界のおかげで......ぎりぎりであなたの刃から免れたんです......」
喜一は俯いたまま、呟くようにそう口にした。
喜一は刃に当たっていなかったにもかかわらず、倒れたまま様子を見ていたことになる。その事実に、克也も、そして博も驚愕した。
「だまし、て......たの、か......っ」
苦悶の表情を浮かべ、博が呻く。
「もう、終わりです、お父さん」
喜一は無表情で告げる。
「僕の病院もこの有様。建物も信用も全て地に堕ち、容易には這い上がれない。さらに、あなたがもう奈津河を追われた身とあれば、資金ももう回ってこないでしょう。もう、あなたも私も、そしてこの病院も終わりです。これも全て――人間の存在自体を冒涜した、罪。もう裁かれる時です。あなたも、手を下した僕も。」
ズッ、と破片を引き抜くと、博の血が一気にあふれ出す。
「おま......裏切る、の、か......っ」
博はその場に膝をつき、ごほごほと咳き込む。
「裏切るも何も......。僕は昔から期待されてこなかった。もっと一族に、そして貴方に――有難みを感じるように大事にされて育てば、一族への忠誠心も貴方への愛情も順調に培われたでしょう。けれど、あいにく僕にはそんなものが育つ心の土壌はありませんでしたから。――そう育ててくれたのは、お父さん、貴方です」
血の気の引いた青白い博の顔が呆然と喜一を見つめた。もう意識も朦朧としているのか、言葉を紡ぐことはない。ただ、荒い息だけが苦しそうに繰り返される。
そんな博に構うことなく喜一は話し続けた。
「僕は一族の中では認められてこなかった。だから初めから、自分は奈津河一族じゃなかった。それでも、貴方や兄たちとは家族だから――、家族だと思っていたから、一緒にいたんです。でも――、もはや家族でもなかったことが、先ほどよく分かりましたよ......。貴方が、私に刃を向けたと分かった時に。貴方にとって私は、いつでも切り捨てられる、ただ戸籍という紙切れ一枚でつながっただけの存在だったのだと」
博の瞳が、何かを言いたそうに動き、唇を動かすが、もはや声にならなかった。
「ずっと諦めたと言いながら、それでも僅かに持っていた貴方への期待も、完全にその時に切れました。まあ、ある意味すっきりしましたよ。だからもう、恨み言も終わりにします。もう僕は、――自由だから」
喜一はそこで長い息を吐いた。
「僕は医師として最後の仕事を全うします。僕を厄介者扱いする貴方と違って、どんな形であれ――今ここに、僕を......いえ、僕の技術だけでだとしても――必要としてくれる人が、いるから......」
博の荒い息が、すうっと止まった。
目は信じられないものを見るように見開かれたままだった。
それまで冷ややかに見下ろしていた喜一は、そこで初めて父親の前に跪く。
その脈を確認するようにゆっくりと博の手をとって、自然に死を迎えたようにその瞳を閉じさせ――、喜一は寂しげに呟く。
「瀕死の人間を前にして、何もしないなんて――初めてです。肉親の死なのに、こんなにあっさりと受け入れられるなんて......。虚しさは残っても、悲しみが感じられない――、僕も、もう狂っているんでしょうね」
自嘲する喜一を克也はじっと見た。
「肉親だからと全ての者がその死を悲しむとは限らない。悲しめるのは――愛を受けた記憶があるものだけに与えられる感情だ」
淡々と語る克也に、喜一は微笑む。
「貴方にも、心当たりがあるような言い方だ」
喜一の言葉に、克也はほんの少し口角を上げた。それを見やり、喜一は立ち上がる。
「僕は、ずっとこの時を待っていたような気もする。......開放される日を。」
喜一は少しだけ、様々な思いを廻らせたように遠くを見つめた。
そしてすぐにハッとしたように、博の遺体を見つめる。
「そのうちに、父の行方を捜して、父の部下がここに来るはずです。そうすれば僕のしたことがその者たちに分かってしまいます。その前に――、あなたにあの薬を渡さなければ」
喜一は、博とは離れた場所に倒れる尚吾を見た。
「かすった程度なら――それほど父の力の効力はないかもしれない」
そう口にして、喜一は尚吾のもとへと歩み寄った。そして、尚吾の体に両手をかざす。
すると、尚吾のまぶたが動き――、ゆっくりと瞳を開く。
「あれ?俺――死ななかったのか。――っ、いてーっ!」
博の刃を受けた方の肩を押さえて、痛みを堪えるように小刻みに身体を震わせる。
「喜一......お前、癒しの力を持っていたのか」
克也は驚きに目を瞠る。
「僕の力なんてほんの少しですよ。まともに父の刃を受けたら無理だったと思います。でも今回のはおそらく、かすった程度ですから、この人の身体に回っていた父の術の効力は少しだったはずです。僕はそこから少しだけ目覚める手伝いをしただけです」
喜一は笑った。
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一般人の目をごまかすために克也は、博の遺体を数日はもつだろうという結界で隠した。
だが一族のそれなりの術力を持つものには見える種類の結界にしたことで、結界の効力が無くなるのを待つことなく、すぐに博の部下が博を探し出すだろうことは容易に想像できた。
克也と尚吾、そして喜一は、人の目をかいくぐるようにしてParadiseの効果を打ち消す『Awake(アウェイク)』と名づけられた薬の保管してある部屋にたどり着いた。
幸いにしてあまり人通りのない場所であり、あたりはしんと静まり返っていた。
「僕が父を殺したことは一族の者にはすぐに分かるはずです。それを父の部下が知れば――僕に追っ手をかけるはず。僕と一緒にいてはあなたにも迷惑がかかります。」
そう言いながら、喜一は薬の入ったアタッシュケースの中身を一通り調べ、ふたを閉じて克也の手に渡した。
「一応使用方法はこの中に入っています。医師であればそれを理解できると思います。ですが――Awake(アウェイク)はまだ治験段階で扱いが難しいんです。扱いには本当に気をつけてください。――本当は僕が行ければいいんですが――」
言いよどむ喜一に、克也は告げる。
「それなら、一緒に来てもらう」
その言葉に、尚吾も喜一もぎょっとして克也を見た。
「ですが、それでは――」
先ほどの説明を繰り返そうとする喜一を克也は遮った。
「岬をあんなふうにした責任は、最後まで取るべきだ」
真剣な克也の表情に、喜一は頷かざるを得なかった。
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喜一を伴って岬の入院している県立医大病院に帰ってきた克也と尚吾に、その場にいた皆が愕然とした。
喜一は、アタッシュケースをひとつだけで、他には何も持っていなかった。そして、上着で隠されてはいるものの、その身に残る大量の血の跡――見た者誰もが一歩退いてしまうような様相だ。
「克也様......」
実流は眉根を寄せて克也を見た。
「詳しく説明している時間はないが、今は喜一を信用するしかない。どうか一緒に、岬を救って欲しい――頼む」
頭を下げる克也に、全てを飲み込んだように実流はゆっくりと頷く。
「分かりました。では――克也様、あなたも付き添っていただけますか?」
「――いいのか?」
「もちろんです。あなたが、見届けなくてどうするんですか?」
実流は静かに微笑んだ。
微妙な雰囲気の中、喜一は身支度を整え、集中治療室へと入っていく。
その様子には、医師として凛としたものを、見るものに感じさせずにはおれない何かがあった。
だからその場にいた誰も、何も言うことができなかった。
ガラスの外で、利衛子もその様子を息をつめて見守った。
ふと傍らを見ると、尚吾が、やはり真剣な表情でガラスの向こうを見つめていた。その衣服は、肩から流れたと見える血であちこちが汚れている。
「尚吾、あんた――、大丈夫!?」
心配そうに利衛子が尋ねる。
「問題ない。――克也に比べたら、軽い傷だ。」
しれっとそう口にする尚吾。
「その血の量じゃ『軽い』とも言いがたいような気もするけど......」
そう言って上目遣いに尚吾を見る。
だが、尚吾の関心はガラスの向こうで起こっていることに注がれているようだった。
「分かった。何があったのか聞かせてもらうのはあとにするよ。あとでちゃんと手当てしてもらいなよ?」
利衛子はため息をつく。とはいえ、自分の一番の関心も今は尚吾と同じものに注がれてはいた。
ガラスの内側。
中にいるのは喜一と実流、そして少し離れた場所に克也の三人。そして実流の片腕である一人の看護士。
機械の音だけが響くこの部屋に、喜一と実流の事務的な会話が静かに響く。
そして喜一は、静かに横たわる岬の腕をとった。
克也が息を呑んで見守る中――岬へのAwakeの注射が施された。
「一度投与しただけでは顕著な変化は見られないかもしれません。しばらく様子を見る必要があります。これでまだ意識レベルが上がらない場合は、この分ずつだけAwakeを追加していきます」
そう言って、喜一は説明書を指差して確認した。
実流が承諾した刹那――克也は床に膝をついた。
「克也様!」
実流が克也のもとへと駆け寄り、上半身を支える。
「気を確かに!どうしました!?」
克也の息は荒く、肩で息をする。
「ごめん――目の前が、回って――」
かすれた声でそう答えたまま、克也は意識を手放した。