ふたつの願い(2)
岬は走っていた。
走っても走っても、背の高い樹木が生い茂る気味の悪いやぶが続く。
いくら走っても薄暗い藪の終わりが見えない。見上げると、重なり合った葉と葉の隙間から覗く鉛色の空からは今にも大粒の雨粒が落ちてきそうだ。
がさ、がさり、と足元に生い茂る雑草を分けて進む音がする。
振り返ると、藪の中から、ふたつの影がゆっくりと進み出てきた。
『逃げなきゃ!』
そう思い、足を動かそうとするのだが、自分の靴から地面に根が生えてしまったように動かない。
その影の声が頭に響く。
影には目も鼻も口もないのに、なぜかその影の言葉だと分かるのだ。
『お前の意識を壊し、お前を俺たちのものにする。』
『お前は、俺たちの意のままに動く人形へと生まれ変わるんだ』
既視感を覚えて全身に鳥肌が立つ。
「いや!やめて......!!」
必死で叫ぶ。
だが、二つの黒い影はじりじりと岬の恐怖を弄ぶように、ゆっくりと間合いをつめてくる。
そして影は目の前に迫り――、
「いやああっ!助けて!助けて――克也っ!」
とっさに岬は克也に助けを求めていた。
頭のどこかで、ここにはいないのだと理解していても。
だが、その途端、岬は確かに蒼い光を見た。
懐かしくて、温かい、自分を包み込む光。
『克也......』
克也の存在を近くに感じた気がして、岬は自分で自分を抱きしめる。
「会いたい。――会いたいよ......」
瞳から、涙があふれる。
その涙が、地面に落ちた瞬間、ぶわっと地面から白い花びらが噴き出した。勢いよく空へと舞い上がった花びらは、空中で勢いを止め、そのまま、はらはらと岬の目の前を舞い散ってゆく。
まるでその花びらが自分を慰めてくれているように感じて、岬はその場に立ち尽くし、花の舞の中に身を任せる。
先ほど舞い上がった花びらが全て散り終えてもなお、次から次へと舞い散る白。
突然、人の気配がして、岬はごしごしと手の甲で目をこすって涙を拭った。
といっても、今度は恐怖は感じない。
岬がゆっくりと振り返ると、少し離れた場所に長い黒髪の少女が立っていた。
その少女の周りだけ、花びらの嵐は止んでいた。
少女には見覚えがあった。
「――柚沙、さん?」
すると、肯定するように、少女がふわりと微笑む。
『岬』
柚沙が初めて自分の名を呼び、岬は少し驚いた。
『あなたに、お願いがあるの』
「――何?」
岬は怪訝な顔をした。
どんなことを頼まれるのか、見当が付かなかったからだ。
『私(わたくし)は和馬を、救いたいのです。』
おもむろに、柚沙はそう言った。
そう言って、少し間をおく。
『私と共に、和馬を救って欲しいのです。』
「和馬?」
何気なく口にして、それが誰を示すのかを思い出す。
「和馬って、御嵩さんに憑いているっていう幽霊?」
これが夢の中だと頭のどこかで分かってはいても、御嵩と聞いて嫌な重い気持ちになってしまうのはどうしようもないことだった。
体をこわばらせた岬を見つめ、柚沙は申し訳なさそうな表情になる。
「ごめんなさい。私にとっては、和馬は愛しい人でしかないけれど、あなたにとっては......、竜の長と敵対関係にある者と共にいる和馬は、敵も同然ですよね......。」
岬はうつむいた。
「この間、ある人にも頼まれたけど......あたしには、誰かを救えるような力なんてないよ。――宝刀の力なんて持ってたって満足に制御できないし」
体の横で、ぎゅっと拳を握りしめる。
強大な力を持っていても、満足に使えない。意味のない、ただ他人を傷つけるだけの力。
制御の利かない力なんて、いっそない方がまし――、そんな風に思ってしまうのは、色んなことがあって気分が滅入っているからだろうか。
柚沙はかぶりを振った。
『そんなことない。あなたは、あんな酷い状態でも、最後まで諦めなかった。そしてその思いは、宝刀の力の暴走を止めたのです。あなたは気づいていないのかもしれないけれど――、宝刀の力を止めたのは他でもない、守り人である【あなたの力】よ。』
ふわりと微笑む。
『あなたの、竜の長を思う気持ちは本当に強い。その強さが、諦めという霧の中で彷徨っていた私を揺り起こした』
「――そうかな?どちらかというと、あたしが柚沙さんに起こされたような――」
『初めはそうだった。あなたがあまりにも哀れで、つい声をかけてしまった。でも、操られた状態――あんな精神状態の中、自らの意思であの力の動きを止めるなんて荒業ができる人はまず、いないもの。あの力の暴走は半端なものではないから。あなたの、愛する者を守ろうとする強い想いは、二度も、竜の長に襲いかかろうとする宝刀の力を止めた。一度目は、操られて彼に力の矛先を向けそうになってしまった時、そして二度目は――宝刀の力に彼が飲み込まれそうになっていた時に」
「うそ......」
信じられない気持ちで岬は呟いた。
自分の力。
それは、望まないのに授けられた、他人を不幸にするしかない宝刀の力だけだと思っていた。
けれど、宝刀の力の暴走を止める力が自分にあって、さらに、それが克也を救ったなんて――、信じられない気分だった。
『あなたを動かしたものはまさに愛する者を思う気持ちと、諦めない心。その二つが、暴れ馬のごとく走り出したら止まらない宝刀の力の暴走を止めるほどの新たな力を生み出した』
そう言いながら柚沙は岬の手を取った。
『どうか、私を助けて――私にも愛する者を救うことができるように。もちろん、あなたばかりに大変な思いをさせるつもりはありません。私も残されたもてる力の全てを尽くします』
瞳に強い意志を持って柚沙はそう口にした。
「柚沙さん――」
『岬。あなたの強い想いに、私も勇気をもらいました。だから、もう一度【幸せになる勇気】を持ってみようと思えたのです。」
「幸せになる勇気」
意外な言葉に、岬はただその言葉を繰り返した。
『私は一度自らの幸せを諦めてしまった。そのせいで、かつて持っていた力のほとんどを失ってしまいました。でも、今度こそ、諦めたくない。弱い心に負けたくない。そして――、私の罪をあなたにまで永遠に背負わせ、強く想い合っているあなたたち二人を不幸にしてしまうことは、私も望みません。幸せになりましょう。私もあなたも共に』
「あなたの幸せって――何?」
岬の問いに、柚沙の動きが一瞬止まる。そして、やがて微笑んだ。
『あなたと一緒。――私の幸せは、愛する者と共にあること。たとえ魂のみになっても、永遠に寄り添えること。もう離れていたくない」
柚沙の気持ちが、痛いほど伝わってくる。
――あたしも、克也とずっと一緒にいたい。離れているのは寂しい。そばにその存在を感じたい――
『私が和馬と幸せに――そして、あなたと、竜の長も幸せになるために――どうか岬、あなたの力を貸して――』
幸せになるために、何かを成したいのだと柚沙は言った。
柚沙が幸せになることが、岬たちの幸せにもつながるのだと――。
ならば、自分もそれに賭けてみてもいいのではないだろうか。
克也と、幸せになるために――
「あなたとあたしの望みを叶えるために、一体あたしは何をすればいいの?」
岬は真っ直ぐに柚沙を見据えた。
柚沙は、満足そうに笑って頷いた。
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特別室のドアが勢い良く開いて、利衛子が顔を出す。
「克也っ!」
利衛子は下の階の集中治療室にいたはず。ここまで走ってきたのか、息を切らしている。
少々焦りを含んだその声に、ベッドの上に座っていた克也はもちろん 他の三人も一斉に開いたドアの方を見た。
「岬ちゃんが目を覚ました――!」
克也は目を瞠った。