ふたつの願い(3)
『――どうか、頼みます――』
柚沙さんの声が聞こえる。
分かった。忘れないよ。
柚沙さんの願い。
――終わらせるんだ。
何よりも、あたしと克也の未来のために――
■■■ ■■■
『あれ?』
目の前にぼんやりと人影がうつる。
それが誰かを確かめようと目を凝らすのだが、うまく焦点が合わず、霞がかかったようで見えない。
「か、つや......?」
何も考えずに唇に乗せた名前。
だが、それは違ったようで、応える言葉は返ってこなかった。
体が、まるで石になって固まってしまったかのように動かない。
必死で動かそうと、気持ち的にはもがくのだが、指先しか動いてくれない。
『どうしよう......』
焦りだけが募る。
次の瞬間、頬に温かいものが落ちてきた。
「みさきっ!」
勢いよく名前を呼ばれる。
その声には聞き覚えがあった。
「お、ねえ、ちゃ......?」
その記憶を頼りに、声の主に呼びかける。
かすれたような声しか出ず、うまく舌も回らない。
だが、瞳がきちんと機能し始めたようで、ようやく焦点を結んだ。
はっきりとした視界に見えてきたもの――
目を真っ赤にして、ぼろぼろ泣いて自分を覗き込んでいる姉の姿。
そして、その横から覗き込んでいるのは父だ。
「お......とー......さ」
父も目が真っ赤だ。
『あたし、......、助かった、の?』
自分は中條幸一に拉致されて、白衣の男に薬を打たれて――、その後のことが途切れ途切れでうまく思い出せない。
でも、うっすらと......脳裏に浮かぶのは――
目の前にいた克也の姿。
自分の目の前で、苦しそうに息をしていた――
その光景を思い出し、体中が一気に冷える気がした。
『あたし、もしかして力を、使った――!?だとしたら、あの、苦しんでいた克也はどうなったの!?』
慌てて起き上がろうとするが、体がうまく動かず、岬はもがいた。
「岬さん、ダメです!まだ薬の影響がどのくらい残っているか分からないんですから!」
どこからか、がっしりした見たこともない白衣の男性が現れ、岬の肩に触れる。
――白衣――
急に、何かここにはないものが自分の脳裏に映し出され、岬は反射的に身体を震わせた。
「......や、ああ!」
男性の触れた手がとても怖くて、頭が混乱する。恐怖で体ががたがた震えてくる。
「ど、どうしたの!?」
仰向けに寝たまま、ただならぬ様子で身体を震わせる岬に、姉の港がうろたえる。
「おそらくフラッシュバックです。岬さんは白衣を着た者に何度も薬を打たれています。その恐怖がトラウマとなって残っているんでしょう」
そう言いながら実流は白衣を脱ぎ捨てた。慌てて駆けつけた看護師たちにも、白衣では岬に近づかないように指示を出す。
だが、制服の上に白ではないものを羽織った一人の看護師が、岬の背中をさすりながら「吸ってー、はいてー」と息をするのを手伝ってくれたおかげで、少しずつ落ち着くことができた。
落ち着いてくると頭の中がだんだんはっきりしてきて、こうなる直前に自分が考えていたことが再び甦ってきた。
『克也はどこ!?』
探し続けていたその姿が見えない。ここにいない。
岬の心にどんどん焦りが折り重なっていく。
そのことを誰かに尋ねたいのに、うまく言葉が出てこない。
その時――引き戸が音を立ててスライドした。
岬は音のした方へと必死で目を向ける。
岬の瞳に、ここの鍵を開けた看護師にいざなわれ、フラフラとではあったがこちらへ向かってくる克也の姿が見えた。
『克也』
無事だった。
まずそのことに、岬は安堵した。
克也はベッドに横たわる岬のそばまで来ると、少し身を乗り出すようにして岬の顔を覗き込み、おずおずと手を伸ばして岬の頬に触れる。
「岬、本当に――?本当に、意識が戻ったのか――」
その表情は硬く、必死に岬の意識を確認しようとしているのだろう、目が真剣だ。
何か言わなくてはと思うのだが、うまく口が動かずに、心配そうに見つめる克也の瞳を見つめ返すことしかできない。
――克也に触れたい――
岬は自然にそう思った。
ずっと会いたくて、会いたくて仕方がなかった。助けて欲しいと何度幻に叫んだだろう。けれど願いはかなわぬままで。あまりにも現実は厳しかったから――。だから今、自分の瞳に映る姿、頬に触れるぬくもりも、実感がない。
今、目の前にいる克也が、自分から触れたら消えてしまう幻ではなく、現実なのだという実感が欲しい。
その思いのまま、自由にならない腕に力を入れると、まるでこの時を待っていたかのように、すうっと動いた。それでもちょっと力が足りなくて腕が震えたが、懸命に克也の頬に手を伸ばして触れた。
「か、つ......や」
まだうまく回らない舌。でも噛みしめるようにゆっくりとその名を口にする。
その瞬間、克也の目から透明な雫が一筋、頬を伝い、そのまま重力に従って岬の頬に落ちた。
そして瞳を閉じて唇を噛みしめ、必死に嗚咽を隠して、しばらく静かに涙を流す。
「岬、よく――よく戻って......。ごめん......助けられなくて、ごめん。怖い思いをさせてごめん――」
克也は岬の頬を両手でそっと包みながら、何度も岬にごめん、と繰り返す。
克也の涙を岬は初めて見た。
『克也のせいじゃないよ』
そう言いたかった。
けれど、まだ自分の体が自分でうまく制御できなくて、すぐに言葉にできないのがもどかしい。
だから岬は、言葉の代わりに頭を二回振って否定の意を表し、克也の頬を撫でる。
途端に、何ともいえない切なさがこみ上げてくる。
「かつ、や......」
岬はもう一度呼んだ。
幻では何度も見た。夢と現実の狭間でも、なんどもその姿を見た。
けれどそのたびに、幻だという絶望感に打ちのめされてきた。
でも、今自分が触れた克也の頬は温かく、優しいまなざしから止まることなく流れる涙も、全て触れても消えることはなく、こうして手を伸ばせばそこに在る。
「......あいたかっ、た」
岬の瞳からも涙が溢れ出る。
克也は流れる涙もそのまま――少しだけはにかんだように笑って――優しい瞳で岬の額と前髪を愛しそうに撫でた。
■■■ ■■■
夜中じゅう降り続いた雨はあがり、外は明るかった。
「行くのか?」
尚吾は、裏の通用口から出ようとする喜一の背中に声をかけた。
振り返りもせず、「そうです」と喜一が答える。
岬の目が覚めたとき、喜一はすっとその身を隠し、しばらく密かに中を窺っていた。
だが、岬が徐々に落ち着きを取り戻すのを見届けると、誰にも何も告げず病院を出て行こうとしたのだ。
この通用口は、もうひとつの通用口の方が使いやすいため、あまり使う者はいなかった。
少し離れたところに守衛の姿は見えるが、よほど大きな声を出さない限り声までは聞こえないだろう。それを確かめた上で尚吾は次の句を継ぐ。
「あんたの親父の部下に命を、狙われるかも知れないぞ」
尚吾の言葉に、喜一が一瞬息を呑んだのが分かる。
「私にとっては手にかけるしかなかった父ですが......一人の人間の命を奪ったという事実は変えられません。医師として、一番してはいけない行為をしました。その代償として、父の部下が私を狙うというのであれば――仕方のないことかと」
死さえ受け入れるのだと喜一は言う。
「お前クール過ぎるぞ」
「諦めることは慣れてるんです。そう育ってきてしまったので」
喜一は寂しげに微笑んだ。
「克也は、お前の意思を尊重すると言っていた。お前が望むのなら――、あいつならお前を匿って助けられるかもしれない。それでも?」
「ええ。彼には、一度救ってもらいました――彼の言葉に。彼の言葉のおかげで、自分がこれまで幸せだったのだと――気づくことができました。人の命を奪うこと――それを、能力がないおかげでこれまで強要されてこなかった。人の命を救うことだけに集中できたということ。本当に、僕は幸せだったんです......。――それで、もう十分です。自分のしたことの始末は、自分がつけます」
そこまで言って、ああ、と思い出したように口にする。
「そういえばあなたにも、父の刃から救ってもらいましたね......。とても感謝しています。あそこで倒れてしまっていたら、栃野岬さんに対して僕がしたことの落とし前をつけることができなかった。竜の長とあなたのおかげで僕は自分の中のけじめをつけることができたんです。だからこそ――もうこれ以上はいいんです。」
「もっとお前は貪欲になってもいいと思うけどね」
この男と、克也はどこか同じ匂いがする。多くを望まないといえば聞こえはいいが、要するに、諦めることが平気になってしまった――というより、それを当たり前としているうちに、自分が諦めているという自覚も無くなってしまっているのだ。だからこそ自分はこうして、喜一を引きとめようとしてしまうのかもしれないと思った。
『もっとも、最近の克也は岬ちゃんのおかげでそういうところが少しずつ抜けてはきているけど
ね......』
そう思いながら、尚吾は壁に手をつく。
「岬ちゃんのことは?まだ未知数の薬だ。何が起こってもおかしくないだろ?」
「後のことは村瀬先生に頼んできました。それでもどうしても解決が難しいことがあれば、Awakeの開発メンバーである私の仲間と連絡を取れるようにもなっています。仲間には僕から既にその旨を伝えてありますし、一族とは全く関係のないメンバーですから、何かあれば快く手を貸してくれるでしょう。――あとは自分じゃなくても大丈夫です。日本の医学の力は......偉大だから」
透き通るような瞳に、尚吾ははっとした。
「お前......今までお前は散々他人のために我慢してきたんだろ?これからは自分のために生きろよ。人間、何もしなくたって死ぬ時は死ぬんだ。だから――せめて簡単に人の前に命を差し出すな!」
少々声を荒げた尚吾に、一度深々と頭を下げると喜一は歩き出す。
それ以上、尚吾も何も言えなかった。
喜一に少しでも迷いが見られれば、もっと強く引き止めることができたのかもしれない。だが、喜一はもう考えを変える気はないのが分かってしまった。
あるいはもう少しだけ彼といる時間が長ければ、状況も変わったかもしれない。
けれど今の尚吾にはそれ以上喜一にかける言葉を見つけることができなかった。
その後、喜一は行方不明となる――。
<第4章 終>