罪の重さ(2)
玄関の扉を開けると、宣言どおり、自分を床に押し付けていた圧力が少しだけ弱まった。とはいっても、普通に歩けるほどには楽にはなっておらず、岬は壁伝いによろよろと進んだ。
普段から、三階から十四階建ての屋上までは歩けるようなものではないが、今の岬の状態ではもっとありえないことだ。
閉鎖的な空間に身をおくのは怖かったが、ほかに方法がないため岬はエレベーターに乗り込んだ。 新しくはないマンションのエレベーターは、早く着いてほしいと願う心とは裏腹にゆっくりと上昇する。
実際よりもずいぶん長く感じられる時間の後、ガタンという軽い衝撃と共にエレベーターのドアが開くと、目の前に外に出る薄汚れた扉が見えた。
いつもは鍵がかけられているその重い扉には今は鍵がかかっておらず、岬は震える腕で力をこめて押した。
目の前には、夜の黒い空が開け、ゆるやかな風が頬を撫でていく。普段なら、開放感に溢れた居心地のいい空間であるはずだが、今の岬にはそんなものを感じる余裕は全くなかった。もちろん、時間が時間だけに周りには人の気配がない。
「出てきたわね」
不意に、人の声がした。
暗闇に目を凝らす。
数メートルほど離れた給水ポンプのそばで、ウエーブのかかった長い髪の女性が立っていた。微かな風にざわりとその髪の毛の数本が揺れる。
「――、だ、れ?」
岬は眉根を寄せた。
全く見たことはない女性。だが、岬には、ある可能性が見えていた。
「あれだけの気を当てたのに、思ったより元気ね。残念だわ。」
女性は心底つまらなそうに、ほとんど表情を変えずに言った。
「私は――速水泉。今日、久遠の屋敷で会った――といえば分かるかしら?」
岬の背中を冷たいものが流れる気がした。
「あなたを、殺しそこなった女よ」
やはり、と岬は思った。
その威圧感に、足が震える。
「――昼間は殺しそこなったけど、よく考えたらあそこで殺さなくてよかったと思っているの」
泉はゆっくりと岬と距離を縮める。
恐怖で言葉を失っている岬に向かい、泉は不適な笑みを浮かべる。
「だって、何も教えてないもの。あなたが、どんな酷いことをしたのか」
「どういう、こと――?」
恐怖におびえながら、岬はそう口にした。
「竜季――、沢 竜季(さわ りゅうき)はね、私の婚約者だった。お調子者で憎まれ口ばかりたたいていたけど、本当は優しくて――私は大好きだった。この六月に、入籍するはずだったわ。それが――、会社帰りに奈津河の――大貫将高の急な襲来を受けて、彼は死んだ。」
貯水タンクを照らすわずかな明かりが、泉の横顔を妖しく照らす。
「あの事件をきっかけに若様とのことが始まったんですってね。いい気なものだわ。私にとってはあの日、全てが終わったのに。」
「婚約者......」
岬は呆然と口にした。
予想通り、目の前にいる、昼間自分に刃を向けた女性が『リュウキ』に近しいものだった。
しかし、それだけで自分が彼女からこれほどまでに憎しみをぶつけられる理由が、どうしても分からない。
「どうして......。――あたし、『リュウキ』さんに何もしてない!――確かに、あたしはその人を殺した奈津河一族の一人だけど――、そんなに恨まれるようなこと、何も――!」
肩で息をしながらも、岬は問うた。
岬の問いに、泉は冷ややかな瞳を向ける。
「『なにもしてない』!?」
泉は少しだけ笑ったような気がした。あきれたように。
「よくもそんなことが言えたわね。――本当に自覚がないのだとしたら、その自覚のなさこそが、あなたの大きな罪ね」
「どういう――」
再び岬が再び口を開くやいなや、泉は次の句を継いだ。
「竜季は多くの人に慕われていた。特に、彼より下の年齢の子たちにね。みんな良い子たちばかりで。――だからあの日――、上の者や私の制止を振り切り、三人の子達が仇討ちに向かったわ。本当に竜季のことを思ってくれていた子達だった。」
岬ははっとした。
泉は昼間岬に向かって『リュウキたちの仇』と言った。
『たち』ということは複数。
――もしかして、それは、あの時の三人のこと?
だとしたら。
その三人の命を奪ったのは――!!
その事実に行き当たり、岬は心臓が跳ね上がるのを感じて前のめりになった。
自分の胸に手を当てると、鼓動が早鐘のように打っている。嫌な汗が出る。さらに吐き気まで。
『そう、そうだよ。――あたし――、あの三人を――、ううん、三人だけじゃない――もっと、何人か――』
電気が走ったように、手足の感覚が麻痺してくるような感覚に襲われる。
そんな岬の変化を知ってか知らずか、泉はさらに言葉の刃を岬に投げ続ける。
「それなのに――。あなたは、指先一つ動かさず――彼らを消したのよ。亡骸ひとつも私たちに残さず!」
二人の距離が、あと一メートルほどになる。
憎しみを湛えた瞳は、弱っている岬を容赦なく貫く。
足に力が入らなくなる。
「彼らが一体あなたに何をしたって言うの!?彼らの狙いは大貫将高だけだったのに!大貫にやられるならまだしも!あなたに、何の関係もないあなたに......!」
岬は拳を握り締める。――苦しい。
今まで、何も、考えていなかった。
自分が、本当は何をしたのか。
知らずに、のうのうと生きてきた。
自分だけの感情で動いて。
『馬鹿だ。―― あたしは大馬鹿。』
命を奪うという重さを、全然分かっていなかった。
自分で何も考えず、言われるままに命を奪ってしまった。ただ術にかかっていたからというだけでは済まされない。
巽志朗とは違い、あの三人や他の者たちに対して自分は何の恨みも持っていなかった。
それなのに、『なんとなく』命を奪ってしまった。
命の重さを考えもせずに。
あの人たちにだって、家族がいたはずだ、友人もいたはず。恋人だっていたかもしれない。それらの人からみたら自分は仇でしかない。当たり前だ。
「ごめ、......なさい、ごめ――」
岬はやっとのことで搾り出すように言った。
「謝ってもらったって彼は、そして彼らは帰ってこないのよ!」
かっ、と瞳を見開き、泉は岬を睨んだ。
先ほどのような、体全体を床にたたきつけられるような衝撃が再び岬を襲う。
「......ごめんなさい......」
地面に崩れ落ち、肩で息をしながら岬は頭を下げる。
そんな岬を、泉は勝者の瞳をして見下ろした。
「ついでにひとついいことを教えてあげる。あなた、一番重要な人に謝っていないわよ。」
「え......?」
岬は訳が分からず聞き返した。
「本当に救いようのない馬鹿な女ね。」
泉は大げさにため息をつく。
「あなたが殺したあの三人も、私たちの仲間であることには変わらない。竜季は若様の――克也様の直属の部下よ。若様とあの三人に面識はなかったけど、若様、直属の竜季の部下であるということは、若様にとっても同胞であるということよ。」
この言葉は、今日一番の衝撃だったかもしれない。
自分が命を奪ったあの三人は克也の同胞――。
頭の中でそのことがぐるぐると渦巻く。
「なんで......」
思わず岬は声に出していた。
この前、巽志朗のことで克也は私に謝ってくれた。
他人のことなのに、自分がしたことではないのに、一族の長だからという理由で。
それなのに、自分は、自分のしたことなのに、謝っていない。
克也にも、そして自分が命を奪ってしまったあの人たちを大切に思っていたであろう人たちにも。
自分はなんて傲慢だったんだろう。
「あ、たし......どう、償ったら――」
岬の言葉に、泉の表情が凍りついた。
「償いなんて、いらない。でも、そうね。ひとつだけ――」
鮮やかに、泉は笑った。
「あなたが、死ぬことが、それが唯一あなたにできる償いね。」
泉は両手を向かい合わせ、少しずつそれを離していく。それと同時に、手の中に昼間見た光の刃がすらりと姿を表す。
岬はその様子を無機質な瞳でただ、見つめていた。
殺気に当てられて頭はがんがんするし、息も苦しい。
まともな思考もあまり残されていなかった。
『あたしが......死ぬことだけが......』
呆然と、岬は天を仰いだ。なぜか天には膜が張っていた。
知らずのうちに結界が張られていたのだと気づく。
『ああ、だからこんな大声で叫んでても、誰も来ないんだ......』
岬は変なところで感心した。
そして、もう助からないのだと絶望する。
――自分は、ここで死ぬ。
『おかあさん......』
岬は、亡くなった母のことを思い出した。
母が死んだとき、母にもう一度目を開けてもらいたくて、一生懸命叫んだ。そして、それが無理だと分かった時の絶望。今になって脳裏にそのシーンが蘇る。
『ごめん......ね、ごめん、お父さん、お姉ちゃん――』
もう謝ることしかできない。
家族を残して逝った母も、こんな気持ちだったのだろうか。
『克也も......ごめん、ね......』
岬の目には、泉の怒りが克也の絶望をも表現しているような気がしていた。
克也は優しいから何も言わない。
けれど、きっと優しい彼は、同胞を失ったことを心から嘆いただろう。
同胞の命を奪ったのが岬たちであればこそ、なおさら彼は岬にそれを言わない。
同胞の命を奪われた大きな悲しみを、彼は胸にしまいこんで生きているのだろう。
自分の存在こそが、克也に痛みを与えているなんて。
『あなたの仲間を殺したあたしに、唯一できることが、これしかないなら――。』
光の刃がこちらを向くのを、岬は霞む視界の端で捕らえた。
「これで......誰にも邪魔されずにあなたを殺せる!――覚悟しなさい!」
泉の声が、結界内に響く。
『それでも本当は――、最期に、――あなたに、会いたかった......』
岬は、ゆるりと瞳を閉じた。