【幕間1】優しい嘘(1)

 岬の意識が戻ってから五日が経った。
   
 岬は、目を覚ましてから一日ほどは身体の機能が十分に戻らないような状態が続いたが、その後は徐々に驚異的な速さで回復してきていた。
   
 担当の村瀬実流医師によると――、意識を完全に壊すには六回ほど打つはずのParadiseだが、三回しか投与されなかったことに加え、劇的な効果が急激に現れ過ぎたために実は三回目の投与量が減らされていて、結果として全体の投与量がかなり少なかったことがこの奇跡的な回復に一役買ったのではないかということだった。そしてこれはまだ想像の域を出ないが、Paradiseの効きが早い、すなわち薬との相性が良いということは、同じ物質に働きかける成分を持つAwakeに対しても反応がいいのではないかとも。
   
 フラフラとではあったが自力で歩けるようになった時、ひとまず峠を越えたということで、集中治療室を出た岬は、竜一族の専用だという特別病室に移った。Paradiseという薬は特殊な薬であり、薬の影響がどんなふうに現れるのかまだまだ分からず、最低でも一ヶ月は病院での経過観察が必要だということだった。本当は一般病棟を希望したのだが、まだ奈津河側の出方がはっきりしない以上危険だということで、この特別室で過ごすことになった。
 とはいえ、ほぼ普通と変わらない状態にまで回復した今は、姉から差し入れられた本を読んだり、音楽を聴いたりして過ごしているが、それでも一人の時間が多いために既に飽き気味だ。
   
 岬は窓際に置いた丸椅子に座り、少しだけ首を回して斜め上の壁にかかっているグレーに縁取られた白地のシンプルな時計を見上げる。
  「午後八時、かあ。普通ならもうすぐ面会時間が終わる頃だよね」
 ひとつだけある窓のカーテンを少しだけ手で引っ張り、外を眺めながら独り言を呟く。――もっとも、この特別室に関しては、知っている者が限られていることもあり、そんな制限は全くないのだが――。
 父と姉は先ほど会いに来て、やがて帰っていった。
   
 誰かとしゃべる機会が少ないないために、ついつい独り言が増えてしまう。部屋の外に護衛がひかえているのだがその者と話すこともないし、看護師だって呼べばいつでも来るのだが用事もないのに忙しい看護師を呼ぶわけにもいかない。
  「暇だ......」
 そんなことすらも口にしてしまう。
   
 岬が目を覚ました日と次の日、克也はずっとそばにいてくれたのだが、久遠水皇に諭されたらしく月曜日からは学校にも行っている。さらに放課後は久遠家とアパートを行ったり来たりして引越し作業に追われているらしく、毎日夜遅くになってから少しだけ会いに来る。何しろ、克也が久遠の家に移る直前に『事件』が起こったものだから、仕切り直しになったらしく引越し日自体も一週間伸びてしまったらしい。本当に申し訳ないと思う。
   
  『でも、一般市民のあたしとしては......、こんなやたらと広いVIP室に一人だなんて、落ち着かないよ』
   
 この部屋にはトイレやシャワー室までついていて、携帯のような通信機を持たされているために何かあればすぐにそれで呼ぶと誰かが飛んできてくれる。
   
 何不自由のないこの部屋。
 だが、岬にはなんとなく不自然に思えてならないことがある。。
   
  『テレビ......ないよねえ。普通、ここまで色々そろってたら、ない方がおかしいよね......』
   
 何でもそろっているこの部屋に、テレビ、ラジオ、そしてパソコンなど――外からの情報源となるものが一切ないのだ。
   
 そこまで考えて、自分がまだ『何も知らされていない』ことに気づく。
   
 知らされたのは、意識を壊す薬の効果を打ち消す薬で目覚めることができたということ。その薬がなければ、一生眠ったままだったかもしれないということ。
 そして、その薬を打って自分を助けてくれたのは、自分に恐ろしい薬を打った医師本人だということ――。
 けれど、助け出されてからではなく、助け出される前の肝心なところが知らされていない。
   
 意識が飛んでいる間、操られた自分は何かしてしまったのか。宝刀の力を発現させたことは自分にもわかってはいるが、そのせいでどんなことになったという結果までは分からないのだ。
 それに幸一だって敵である克也に対し、すんなり『じゃあどうぞ』と自分を渡すわけはない。意識のはっきりとしない自分を、どうやって克也が助け出してくれたのか。
 また、中條幸一はどうなったのか――。   
   
 克也は何も言わないけれど、岬は気づいていた。
 克也が、動く時に右脇腹を庇うようにしていること――。
 何があって克也が傷を負ってしまったのか、まだ自分は聞いていない。けれど今、克也が傷を負うとしたら、状況的に自分がらみだとしか考えられない。
  『もしも、あたしのせいで、克也が、傷を負ったのだとしたら――』
 このまま何も知らされずに、豪華な部屋でのほほんと過ごすなんてできない。
   
   
 そんなことを考えていると、病室の扉ががらりと開いた。そしてその扉から現れたのは――
   
  「――克也!」
 それまで考えていた難しいことを一瞬忘れ、岬は表情を輝かせ、椅子から立ち上がった。
 克也の姿が見えてホッとした。一人でこの部屋にいると、孤独のせいで嫌なことばかりを思い出してしまいそうだからだ。
   
 克也も岬の元気な姿に心底安心したように表情を緩め、歩み寄る。
   
 そして、手の届くところに来た瞬間、岬はふわりと抱きしめられた。
   
  「いろんなことがあったから......心配だった。離れている間に岬がまたいなくなっていたら、とか嫌な想像ばかりが頭の中をめぐって――」
 岬を抱きしめる克也の腕に、少しだけ力がこもる。
   
  「大丈夫だよ。ここは警護の厳しい特別室なんでしょ?克也がここにいることを決めてくれたんじゃない。――でも、ここにいるとちょっと退屈で落ち着かないかなー。抜け出したくなっちゃう」
 いたずらっ子のような表情で笑った岬だったが、
  「――おい――」
 本気で克也に睨まれて、岬は肩をすくめた。
  「冗談だよ、冗談。警護も厳重なのに一般人のあたしが抜け出せるわけないでしょ。それに、もうできるだけ単独行動はしないよ。あたしだって、あんな思いはもうたくさんだし」
 舌を出しておどけるが、克也の表情は固いままだ。
   
 岬は、克也の背中に添えていた自分の手を、するりと克也の首へと回す。
   
  「ねえ、抜け出したりはしないけど、退屈なのは確かなんだよね。せめてテレビとかあると嬉しいんだけどな......」
 岬の言葉に、克也は途端に難しい顔をした。
   
  「うん......今度実流さんに相談してみるよ......」
 そう口にするものの、目が泳いでいる。
 克也が何か隠している気がして、岬は真顔になる。
   
  「ねえ、克也――。あたしに、何か隠してない?」
 そのままの体勢で、じっと見つめる。

  「――いや......何も?」
 にこりと笑顔で返されて、岬はどきりとした。未だに克也に対してこんなにドキドキしてしまう。
  『その笑顔は反則だよ......』
 毒気を抜かれた岬は腕を下ろし、横を向いてぷうと頬を膨らませる。
   
  「ごまかさないでよ。あたし、考えてたの。なんであたしが助かったのか――」
  「それなら、この間も言ったように、薬の効果を打ち消す薬で――」
 克也の言葉を岬は遮る。
  「違う、あたしが言いたいのはその前のことだよ!だってあたしは――中條幸一につかまってたんでしょ?意識を壊されて――そこから、どうやって克也のもとに帰ってきたか――あたしは詳しく知らない」
 思わず責める口調になってしまったのに気づき、岬は口をつぐむ。体力が戻っていないからなのか、まだ薬の影響が残っているからなのか、息が上がる。
   
  「――岬、大丈夫か?」
 克也が気遣うように瞳を見つめたが、岬は「大丈夫」と一度深呼吸すると、克也の両腕を掴んだ。
  「ねえ、克也、お願い!教えて。中條幸一は、あたしの意識を壊して自分の意のままに操るって言ってたの。あたしはあの人に操られて――何かしちゃったんでしょ?」
 岬の真剣な瞳に、克也は小さくため息をついた。
   
  「意識朦朧としている岬を、俺が助けに行った。だから岬は帰ってきた。――事実はそれだけだ。岬は何もしてない」
  「じゃあ、あの人は!?中條幸一は、どうなったの!?」
  
 立て続けに質問を口にする岬に克也は少しだけ困ったような表情をした。

 眉根を寄せて泣きそうな表情の岬を、克也は少々強引に引き寄せ、再び抱きしめる。
   
  「岬は、何も考えなくていい。今は自分の体のことだけ考えていればいいんだ」
 克也は岬の耳元で囁くように言った。
   
  「自分のことだけ考えるだなんて――そんな勝手なことできないよ!だって......あたしがみんなに迷惑かけたかもしれないのに――!」   
  「もう少ししたら、ちゃんと話すから。今は、何も聞くな......」
 苦しさを含んだような声で搾り出すように克也は言った。
 その後、岬が何度その話題を持ち出しても克也はそれについて何も言おうとはしなかった。
   
   
 しばらくの後、まだ片づけが残っているということで克也は帰っていった。
 釈然としないまま岬はその日眠りについた。
   
   
   ■■■   ■■■
   
   
 次の日の午後二時半、村瀬医師による回診が終わった頃。
 特別室に元気な客がやってきた。
   
  「やっほー、岬ちゃん。何だか暇してるって聞いたから、このマシンガントーク野郎、利由尚吾、ただいま馳せ参じましたー!」
 一人なのに急激ににぎやかになった気がして岬は思わず吹き出した。
   
  「ありがとうございます。一般庶民のあたしにはこの部屋は快適すぎて。少々不便なことがないと落ち着かないんですよねー」
  「あ、分かる分かる!俺も同じ。『なんだよこれ、つかえねー!』とか文句言いながら色々工夫するのが醍醐味なんだよな」

 ものすごく分かる気がして、岬は激しく同意した。
   
 『利由先輩と話してると、とても気が楽になるなあ』
   
 この明るさが、闘いに疲れた心を癒してくれる。相手へのさりげない気遣いを含んだ明るさであるがゆえに、そばにいる者をホッとさせてくれるのだ。
 克也が尚吾をそばに置いている意味も分かる気がする。
   
 ――果たして、自分は今、克也にとって心安らげる存在なのだろうか。
   
 自分は自信を持ってその問いに肯定的な答えを返すことができない。
 それどころか、克也を苦しめているのではないかと不安になる。
   
 情報の入ってこないこの部屋。そして明らかに何かを隠している克也。
 もし、克也が今、隠すとしたらどんなことか、と考えると、ぼんやりとではあったが、あるひとつの可能性が浮かんでしまうのだ。
 もしも自分の考えている仮説が正しいとしたら――、
        
  「利由先輩、どうしても教えてほしいことがあるんです」
 岬は口を開いた。

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