【幕間1】優しい嘘(3)
様々な事実をかき集めれば、そこに見えてくるもの。
――あたしは、使いたくないと思っていた力を再び動かして、中條幸一を殺してしまった――
わずかに、手が震える。
覚悟をしたつもりだったけれど、やはりその事実を認めるのは少し怖い。
だが、克也はそんな岬の手のひらを自らの手で優しく包み込んだ。
「違うよ、岬。――中條幸一は、俺がこの手でと止めを刺した。岬が気に病むことなどなにもないんだ」
克也の言葉に、岬ははっとして顔を上げた。
「......嘘、でしょ?」
声がかすれた。
「だって......中條幸一の遺体が見つからない、ってニュースでは言ってたよ。建物だって、崩れたというより消えたとしか思えない場所があるって。それってつまり――、あたしの宝刀の力が働いたって事でしょ?それぐらいあたしにも分かるよ、気休めは言わないで」
克也の言ったことが信じられなくて、必死で反論する。
『また克也はあたしのために嘘をついてる』
そう思ったから。
だが、克也は静かに首を振った。そして腕を岬から少し離し、胸の高さほどの位置で手のひらを下へと向ける。すると、その手のひらから蒼い光が現れ、それはやがてゆっくりと下へと伸び、光の長剣となった。
「気休めじゃない。本当に、幸一に対して先に手を下したのは俺だ。――俺が、殺した。この剣で幸一の胸を突き刺したんだ......。幸一は、息絶えた後に宝刀の力の暴走に巻き込まれて消えただけだ。岬は何もしてない。それに第一、――お前の意識を壊し、あんな無理な状態で宝刀の力を使わせようとした時から――、宝刀の力が暴走することは避けられなかった。宝刀の力を制御しようと術をかければ、暴走した時には術をかけた本人が一番初めに犠牲となる。中條幸一は自分の罪を自ら被ったに過ぎないんだ」
克也の言葉を聞き、岬が感じたものは、安堵ではなかった。
冷水を浴びせられたように、岬の全身を衝撃が駆け抜ける。
自分が幸一を力で殺してしまったのかもしれないとは頭のどこかで思っていた。認めるのは怖かったが、聞かされたときの覚悟もしていた。
けれど、こんなことは予想していなかった。
『克也が誰かを手にかけることも、誰かの手にかかって命を落とすことも、あってほしくない』
そう思っていた。それなのに――
「克也の言うように、術をかけた中條幸一が一番初めに暴走した力の犠牲になるというのなら――そのまま放っておいても幸一は――命を落としたはずだよね?それなのに、わざわざ――克也が手を下した理由は――何?」
聞いておいて、岬の頭の中には答えが見えていた。その答えをそのまま口にする。
「まさか......あたしに、直接幸一を殺させないように、するため......?」
恐る恐る克也の瞳を見上げる。
克也は答えない。だが、少しだけ伏せられた瞳と硬い表情は、それが真実だと岬に告げているように感じた。
「だとしたら――あたしの、せいだね」
感情が心からあふれるのと同時に、岬の頬を涙が伝う。
「あたしのせいで......、また克也に、罪を背負わせて......。あたし、どうしたら――」
ぎゅっと瞳を閉じて岬は身体を震わせる。
その言葉に、克也は一度目を見開いた。だが――、
「違う、岬のせいじゃない」
克也は静かに、しかしきっぱりと否定の意を口にする。
「俺が、中條幸一を許せなかっただけだ。あいつは人間として、最低だった。あいつは岬を――まるで物を扱うかのように......あんなに、酷いことを――。だから、許せなかった......」
克也の瞳に一瞬、ぎらりとするような険しい光が宿ったように感じた。
ぞくりとする。
岬の心臓がどくんと大きく脈打った。
「何......?どういう、こと?」
勘、とでもいうものだろうか......嫌な予感がする。
「いや......、意識を壊すなんて人間として最低だって言いたかっただけだ」
そう言いながら、克也はふいと視線を逸らした。
克也はそう言うが、どこか焦ったような仕草が、そんなものではないような気がした。
――自分は精神科病棟の保護室という、事実上の密室に閉じ込められていた。
途中からの記憶はほとんどない。だが、記憶があるうちでも、中條幸一は自由にその部屋に入ってきていた。当然、いつでも出入りできたはずだ。
中條幸一は自分のことを道具としてしか見ていなかった。人間的な扱いなど当然されなかっただろう。そんな関係の男と女......、密室で何が起きるのか――。
それに思い当たり、岬は背筋にひやりとしたものを感じる。
「あたし、もしかして――中條幸一に......体を......?」
「――そこまではない」
岬の言葉を察したようで、克也が否定した。
岬は克也の表情から真実を掴もうと、必死に見つめた。
だが、
「幸一は、お前をそういう対象としては見てはいなかった。」
克也の瞳は、真っ直ぐに岬を捉えていた。
それは真実と信じていいような気がして、岬は少しだけホッとした。
だが、克也はすぐに表情を歪めた。
「だけど――あいつは俺に見せ付けるためだけにお前を......」
そう口にした次の瞬間、克也は岬を少々強引に自分の方へと引き寄せ、そして唇を自らのそれで塞いだ。
岬の頬に軽く添えられていた克也の指が、岬の頬のラインをなぞる。
その後、少しだけ二人の間に隙間ができたが、岬が息をつくかつかないかの間に、再び角度を変えて克也の唇が降りてきた。
角度がついたことで、いつもより深く重なり合う。
克也の熱が、重ねられた唇の隙間から岬の中へと入り込み、岬は少しだけ驚いて薄く目を開けた。だが、すぐに頭の芯がジンと痺れるような甘い疼きに耐え切れず、再び岬はゆるゆるとまぶたを閉じる。
吐息と共に二人の熱はさらに互いの深くを求め合う。
溶け合ってしまうのではないかという、かつて感じたことのない感覚に岬は戸惑いながらも、それに嫌悪を感じていない自分にも驚く。克也の熱が岬の気持ちごと絡め取ってしまうかのように、何も考えられなくなりそうだった。その不思議な感覚に、体中の力がすうっと抜けていく気がした。
その場に崩れそうになる岬をしっかりと腕に抱きとめ、克也は唇を離す。
「か......つや......っ」
乱れた息もそのままに、岬は必死で克也にしがみついた。
だが、高揚した気分の岬とは対照的に、克也は唇を噛んで俯いた。
「ごめん......こんなに強引に。これじゃ、俺もあいつと変わらない――」
この言葉で、岬は中條幸一が自分に何をしたのかを知った。
ただ、もちろんショックではあったけれど、記憶は残っていないせいで実感として衝撃が襲っては来なかった。
岬の頭の中を占めているのは、今の克也の口づけだった。余韻に、まだ心臓が早鐘を打っている。
ぼうっとする頭を無理やり働かせるために、岬はぶんぶんと頭を振った。
「同じじゃ、ないよ。少なくとも克也は――意識のない女の子を襲ったりなんてしない。それに今だってきっと、あたしが本気で抵抗したら、やめてくれたはずだもん。――でもあたし――今まで克也としたキスとは違って、ちょっとだけびっくりしたけど......あたし、相手が克也なら、嫌じゃない」
言いながら頬がどんどん熱くなっていく。
「克也と......溶け合ってひとつになっちゃうかと、思った。頭の中が、真っ白になって、ずっとこのままでいたいって、思ってしまうほど――」
呆然とした表情で岬を見つめる克也の頬も、ほんのり赤みを帯びている気がする。
「何もかも、溶け合って一つになれたら、克也の重荷も全て一緒に背負えるのかな......」
ふと岬は思った。
克也の背負うものは重すぎる。それなのに、またひとつ自分は重荷を重ねさせてしまった。
自分が代わりになれたら、いや、それすらもおこがましい。少しでも負っているものを自分へと積み替えることができたなら――と。
「あ、でもそれじゃあ、あたしの罪も一緒に背負わせることになっちゃうのか......それはダメだね......」
真剣に悩む岬に、克也は微笑む。
「それでいい。俺も岬の罪を一緒に背負いたい」
二人は寄り添いながら、近くにあったベッドに腰を下ろした。
岬は、克也の肩に頭を預けた。
「さっき、克也は『ただ、中條幸一が許せなかったから手にかけただけ』って言ったけど......、本当は、あたしのためにしてくれたことだと分かってる。憎しみの連鎖を断ち切りたいと言っていた克也が――放っておいてもいずれ命を落とすことが分かっているのに、手を出すはずはないもの。」
「岬、それは――」
克也が口を開きかけたが、岬は言葉を重ねるように続けた。
「その気持ち、嬉しかった。でも――、同時に悲しかった。あたしのせいで克也の背負うものが増えちゃったから。だから、あたし今は、あたしの力が中條幸一の存在を消したことで、克也だけに重荷を背負わせずに済んでよかった、とすら思ってる。」
岬は頭を克也の肩に預けたまま、少しだけ克也の顔を覗き込むようにした。
「あたしの前で、嘘をつくのはやめて。嘘をつかれる方が、あたしにはつらいの。あたしは、そんなに頼りない?」
岬の言葉に、克也ははっとしたように岬の瞳を見つめた。
「あたしは、克也と一緒ならどんなに辛いことも乗り越えられる。それに、あたしだって――克也の支えになりたいの。だから、どんなに辛い事実でもあたしに隠さないで。知らなければ乗り越えることも、支えることもできないから。あたしは――真実を知りたい」
克也が、息を呑むのが分かる。
岬は続けた。
「正直、自分が人を殺めたという事実は重い。本当は今だって、震えが来るぐらい――心が苦しくて、怖いよ......。あたしは......中條幸一に対してだけじゃなくて、暴走に巻き込まれた全ての人たちに対しても責任がある。でも、これはあたしの罪だから。自分の罪から目を逸らさないで、もう二度とこんなことがないようにどうすればいいかを考えていくこと、それが命を奪った人たちへの償いだって、いつか克也が教えてくれた。そんなふうにあたしも生きたい。克也と一緒に頑張りたいの。だから、もう何も隠さないで」
言い切った。
克也は腕を回してそんな岬を抱きしめる。
抱きしめた腕に、いっそうの力がこもった。
岬は克也のぬくもりを全身で感じながら、泣きたいほどの愛しさがこみ上げてくるのを感じていた。
自分だけに罪を被せないように一緒に罪を背負ってくれた克也。
それほどまでに想ってくれる克也に、これ以上、どうやって報いたらいいのか。
「克也......」
腕の中で、岬は名を呼び、克也を見上げた。
そのまま、吸い寄せられるように再び、唇を重ねる。
それはやがて熱を持ち、気持ちの高まりとともに深くなっていく。
克也が、ふいに何かを振り切るように唇を離した。
身体は離して岬の肩だけに触れながら、俯く。
「ごめん――、もう、これ以上は......自分が抑えられなくなる、かも」
克也の言葉に、既に早鐘を打っていた鼓動がさらに大きく岬の耳に聞こえ、体全体が心臓になってしまったんじゃないかと思うほど自分全体が脈打つような感覚に襲われる。
肩から離そうとした克也の手を、岬は掴んだ。
驚いた表情の克也と目が合うと、途端に様々な思いが去来して何も言えなくなってしまい、ただ、克也を見つめ返した。
視線がぶつかる。
「......いい、よ......」
必死で岬はこれだけ言った。
顔から火が出るというのはこういう状態を言うのだろう、頬が妙に熱い。
克也は驚きを含んだ何ともいえない表情で岬を見つめた。
そして、もう一度岬を引き寄せ――、
そのまま、ゆっくりと岬を横たえた。
緩やかにベッドの上で広がった岬の髪を避けるようにしながら、克也の左の手のひらが岬の顔のすぐ横へ置かれた。そして覆いかぶさるような体勢で、克也の唇が降りて――、岬は瞳を閉じた。
その時――
コンコン、とおもむろに病室のドアをノックする音がして、岬も克也も慌てて弾かれたようにぱっと身体を離した。
いきなり動いたせいで傷に激痛が走ったらしく、克也は右脇腹を押さえて声もなく悶えている。
それを気遣いおろおろしていると、コンコン、と、もう一度、ノックの音が響いた。
「はっ......、はいっ!」
岬は慌てて髪の乱れを両手で直しながら答えた。
すると、ドアの向こうから落ち着いた声が聞こえる。
「今、入ってもいいかな?」
その声に、岬と克也は思わず顔を見合わせた。
久遠水皇だ。
「あ、えーと......、だめ、じゃなく、だ、大丈夫です......」
かなり不自然な応答だったが、その後、ドアがカラカラ、と軽い音を立てて開いた。
「おや?」
入るなり水皇は、岬と克也を交互に見た。
そして、意味ありげににやりと笑う。
「どうした?克也も岬さんも。何だか妙によそよそしいけど......」
微妙な雰囲気を残しつつ、岬はベッドの上でちょこんと正座し、克也はベッドの脇に立って、お互いをちらりと見た。
「――何でも、ありません」
まだ脇腹に手をやりながらも、克也が努めて冷静な声で答えた。
だが、それすらも水皇をごまかすのにはまだ人生経験が足りないようで、水皇はクック、と喉の奥で押し殺したような笑いを漏らした。
「どうやら、若い二人の邪魔をしてしまったみたいだな。だが、親世代の俺としては、『間違い』が起きないように見守るっていう役割もあるわけだし......良いタイミングではあったのかな?」
水皇はにやりと笑った。
まあ、俺は『間違い』とは一概には思わないけどな、と小さな声で付け加える。
全てが見透かされているような気がして、岬はベッドの上で小さくなって俯くしかなかった。
「――っ、水皇さんっ!一体何しに来たんですかっ!」
恥ずかしそうに俯いたまま、克也は呆れたように声を張り上げた。その横顔を見ると、ほんのりと顔が赤い。
まるで悪戯を見つけられてしまったやんちゃな子供が必死に反抗しているようだと、岬は思った。思わず笑いがこみ上げる。
「そうそう、そうだった」
と、わざとらしく言いながら、水皇は笑いを引っ込め、真顔になる。
「例の件――久遠家は整った。あとは、克也――お前がメインの仕事だ」
水皇の言葉に、克也も神妙な面持ちで頷いた。
<『【幕間1】優しい嘘』終>