【幕間3】Dear My Friend(1)

 時計の針は午後二時を回っていた。
 いつものように岬は、病室で主治医である村瀬実流医師の回診を待っていた。
 特別室にいるために、回診、という実感はないのだが、毎日同じような時間に実流は岬の病室を訪れ、岬の様子を診察しているのだった。午前十一時頃と午後二時十五分過ぎ頃の二回。
   
 岬が退院後に久遠の家に住むということが決まったあの日から一週間が経つ。 
 克也は相変わらず忙しいようで、病室には毎日来てくれるものの、少しの時間しかいられない。久遠の家に行ったことで、長としてしなければならないことがアパートにいた時よりも増えているのだという。これまで本家の長としての仕事をほったらかしにしてきたツケが回ってきたのだと尚吾が言っていたが......。
   
  『体、壊さなきゃいいけど......無理しそうで、心配だな......』
 克也のことを思いながら、ぼんやりと窓の外を見る。
   
 梅雨特有の灰色の空。
 外の蒸れた空気が伝わってくるようだ。
 ここは空調がかなりいい具合に効いていて快適。
 けれど、ここにずっといるとそんな外の不快感すらも感じてみたくなるから不思議だ。   
 小さくため息をついた瞬間、ノックの音と同時にドアが勢いよく開き、実流がにこにこと入ってきた。
   
  「朝から今まで、特に変わったことはない?」
  「はい。ただ――、一日に少なくとも一度はやってくる頭痛が今日もお昼少し前にありました。横になればなんとかなるくらいの痛みでしたけど......」
 岬の訴えに実流は少し考えるようなそぶりを見せる。
   
  「以前は頭痛はこんなに頻繁ではなかった?」
  「はい。頭が痛いのなんて病気の時ぐらいでしたから」
   
 意識が戻って二週間。この部屋にいる限りでは全く体調に問題はなかった。
 ただひとつ、一日に一、二回襲ってくる頭痛の他には。
 これが始まると、少なくとも一時間は横にならないとつらい。色々調べてはみたものの、血液検査でもParadiseの成分は検出されなくなったし、画像診断などを行っても問題は見当たらず原因は不明だが、やはりあの薬によって一気に大きな負担をかけたことで、身体にダメージが残っているのではないかというのが実流とParadiseとAwakeの開発チームの見解だった。
   
  「しばらくはその痛みは取れないかもしれないね......。あの薬の影響が残っている可能性は否定できないから。また痛み止めを処方しておくね」
  「よろしくお願いします」

 カルテに何やら書き込んでいた実流は、走らせていたペンを止めてふと顔を上げた。
   
  「そろそろ、一時的に外に出てみてもいい頃かも。外に出て問題がないかどうかもチェックする必要もあるし......」
   
  『え......外?』
 思いがけない実流の言葉に、岬はかなり呆けた顔で聞き返した。
  「外、行っていいんですか!?」
   
 実流は笑顔で頷く。
  「いいよ。ただし、その場合は、必ず長と一緒にという約束を守ってもらう必要があるけどね」

  「あ、ありがとうございますっ、嬉しいです!!」
 今すぐに出られるわけではなかったが、岬の気持ちは一気に急上昇した。
     
  『――外に出られる!しかも克也と!』
 単調な毎日に少し光が差しこんだようであまりに嬉しすぎ、心だけは一気に外へと飛んでいた。
 だから、カルテの紙で隠しながら、実流が少し難しい顔をしたのには気づくことができないのだった。
   
   
 診察が終わって実流が病室からいなくなってからも、しばらく岬の頭の中は外に出られるということでいっぱいだった。
 その時のことをあれこれ考えていると、ドアをノックする音がした。
 開いたドアから顔を覗かせたのは克也だ。一番会いたかった人の来訪に岬は満面の笑みを浮かべる。
 そして、微笑みを浮かべた克也の後ろから、ひょこっと他に二、三人が顔を出す。
 晶子と高島、そして尚吾だ。
   
  「やっほー、岬!来ちゃったあ!ごめんね、蒼嗣くんと二人きりでいたいところにお邪魔しちゃって」
 晶子が一番先に口を開いた。
   
 晶子に会うなんていつぶりだろうか。
 岬が意識を取り戻した日、晶子と高島も病院にいてくれたらしいが、二人は岬が眠っている間に少しだけ様子を見に来て、安心して帰ってしまったのだと、聞かされていた。だから、岬の感覚としては、幸一に拉致される直前のあの時以来、であるといっていい。
 あまりにも様々な思いが入り混じりすぎて声が出ない。その代わりに岬の瞳にじわりと水分が溜まってゆく。
   
  「やだやだ、何泣いてんのよ、この子はー」
 そう言いながら、晶子も瞳を潤ませて、ベッド脇に立つ岬のもとに駆け寄り、ひしと抱き合う。
   
  「晶子ー、ごめん、ごめんね。急にいなくなったりして......色々心配かけて」
 泣きながら謝る岬に、『何言ってんの!』と晶子は呆れたように言う。
  「岬のせいじゃないでしょー!もう!謝んないでよー」
 よしよしと背中を叩かれ、余計に溢れ出す涙が抑えきれない。
   
  「本当に、よかった。岬ちゃんが元気になって......」
 晶子のすぐ後ろに立つ高島からも温かい言葉が聞こえる。
  「ごめ、なさ......。せんぱっ、...も......」
 しゃくりあげながらなので、うまく話せない。
   
  「いいよ、岬ちゃん、とりあえず落ち着いてから話せばいいから」
 涙で歪む視界に、高島のちょっと困ったような笑顔が見える。そのすぐ横にに尚吾が、そしてその少し後ろに克也が、それぞれ微笑んでいる。
   
   
  ――あたし、本当に【帰って】きたんだ。もう一度、みんなに会えて、よかった......――
   
   
 こうしていると、幸一に捕まった時のことが嘘のようにも思え、けれど、それが現実だということもまた実感があることで――。
 今のこの瞬間瞬間が、とても貴重なもので、少しも無駄にできない大事な宝物だと本当に感じる。
 

   
 少しして、嗚咽も落ち着いてきた頃、
  「あたし、あの時のことを思うと、よく、こうして普通の状態で、戻ってこられたな、って思う」
 岬はしみじみと呟いた。
   
 幸一に連れ去られ、気づいたらあの狭い部屋で、逃げることも許されず......、薬を打たれた時の、あの絶望感。――今でもはっきりと覚えている。
   
 思い出して少し震える腕。岬は反対の腕でそれを押さえ、ごまかす。
   
 岬の様子をじっと見つめていた晶子は、にこりと笑った。
  「それは、みんな蒼嗣くんのおかげだよ!岬への愛だね!」
 『愛』の言葉に頬が一気に熱を帯びる。
 ちらりと上目遣いに克也を見ると、やはり何ともいえない表情で頬を染めている。
   
  「も、もちろん、そう......なんだけど......。他にも、みんなのおかげっていうか......」
 何となく気恥ずかしくてしどろもどろになりながら岬は赤くなった頬を人差し指でこすった。
   
  「そ、そうそう!......あの日、晶子がすぐ克也に電話してくれたんだってね!ありがとう。」
 ごまかすように岬は話題を変えた。
 自分が圭美の病室から行方不明になったことをいち早く知らせてくれたのが晶子だ、ということは克也から聞いていたからだ。
   
  「ううん、あたしなんてただ電話しただけだよ?本当にえらいのは圭美」
 晶子は首を横に振る。
  「圭美?」
 意外な名前に、岬は目を瞠った。そんな岬の様子に晶子は一瞬固まって――克也の方を振り返った。
  「あれ?これって話しちゃいけなかった?」
   
 晶子の言葉に、岬ははっとした。もしや――と克也を見上げる。
  「何?克也、まだあたしに隠してることがあるの?」
   
 『この間、隠し事はしないでとあれほど言ったのに』
 ――沈んでいく気持ち。
   
 眉根を寄せる岬に、克也は慌てたように手を横に振った。
  「いや、別に隠してたわけじゃなくて!ただ単に話しそびれていただけ......」      
  「何それ......。圭美が関わるようなこと......、言いそびれた、じゃあ済まない大事なことって気がするんだけど......?」
 声が低くなるのが自分でも分かる。
    
 そんな岬の肩を、ばしばしと晶子が叩いた。
    
  「ハイハイ、夫婦喧嘩はやめてねー」
 晶子の間延びした物言いに、岬は毒気を抜かれてしまった。つい、顔がほころぶのを感じる。
   
 それを確認し、晶子は克也へと視線を移す。   
  「ちょっとお。蒼嗣くんも、ちゃんと岬と意思疎通しておいてよね、心臓に悪いなあもう!」
   
 克也もまた、ばつが悪そうに小さくなっている。
   
  「あのね、岬......、ってあたしが言っていいの?」
 晶子は岬に視線を戻そうとして、はっとしたように視線を再び克也へと向ける。
 少々力なさげに「頼む」と克也が答えるのを受け、傍らの岬の手を取ると晶子は話し始める。
   
  「岬が拉致されたって、教えてくれたのは、圭美なんだよ」
   
 その言葉に、岬はすぐには言葉が出ないほど驚いた。

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