【幕間3】Dear My Friend(3)

 実流からの承諾が得られた後しばらく、岬は精神科医のカウンセリングを受けながら、圭美に会いに行く日に向けた準備を進めていた。
   
 実流が圭美に会いに行くことを許してくれたのは、もちろん岬の強い思いを汲んでくれたというのもあったようだ。だがその背景には、岬が反応してしまうのが、白衣という割とよく見かけるものであるため、退院して日常に戻る前に完全とまではいかなくとも、ある程度克服しておかなければならない――、逆に言うとそうでなければ退院を検討し直す必要があるかもしれないということもあるらしい。ただ、こういう問題は一朝一夕で解決することは難しく、厳しい挑戦であることは間違いないという。
 岬も正直不安だらけではあったが、自分のためにも、そして命がけで自分を救ってくれた克也やその他の人たちのためにも、この状況のままでいたくないという気持ちも大きく、その気持ちが今の自分を動かしていた。
   
  「大丈夫か?」
 克也がそっと肩に手を添え、心配そうに覗き込んでくる。
  「ん......まだ、大丈夫」
 岬は頷くが、緊張で少しぎこちなかったかもしれない。克也の表情も固かった。少し離れたところで見ている、実流と親交の深い医師も心配そうに見ている。
 それをごまかすように、岬はつないでいだ克也の手をさらにぎゅっと握り、空を見上げた。
 梅雨の中休みのようで、雲の合間から青空が所々見えていた。  
   
 カウンセリングと平行して、まずは近場から慣らすという意味もあり、岬は何度かこの病院の中を散歩していた。最初はやはり白衣を見るだけでつらかったが、治療によりいくらかは耐えられるようにはなってきていた。ただし、白衣や看護士の制服への恐怖心が完全には消えてなくなったわけではなく、あくまで耐えられるようになったというだけの話だ。
   
  「でも、このくらいで済んでるのも、『この病院は安全だ』って安心感があるからだよね......。あそこに行って、大丈夫って保障はないんだよね」
 岬は視線を落とし、ぼんやりと呟く。
   
 ―― ここは『あの病院』ではないということが、分かっているから――。
   
 だが、この病院を離れ、外に出るとなると話は別だ。
 特に、あの病院へ足を向けることは、岬にとって非常にハードルの高いことのように感じていた。
   
  「前に進みたいなら、やるしかないんだよね」
 気を取り直して顔を上げた岬の瞳に、微妙な感情がわだかまっているような表情の克也が映る。
   
  「岬――、何度も言ってるけど......。つらかったら、無理して今、それをする必要はないんだ」
   
 岬がこうすることに賛成はしてくれている克也だが、ここしばらく一緒に散歩をしてつらそうな岬の様子を目の当たりにしてきているだけに、揺れる気持ちが見え隠れしている。
 岬は、そんな克也の肩にこつんと額を預け、瞳を閉じた。
   
  「ありがと。克也がいてくれてよかった」
   
 少しだけ時間が止まったような気がしたが、やがて、岬の頭に克也の大きな手が触れる感覚があった。その手はそのまま、ぽんぽんと優しく髪の上を跳ねる。
 克也が今、どんな複雑な顔をしているのか、岬には見なくても分かる気がした。けれどそれを目にしたら自分の気持ちも揺れてしまいそうで――、目を閉じたまま、そのぬくもりに身をゆだねた。
   
 ―― 岬が圭美のところに行けることになったのは、それから四日後のことだった。
   
   
   ■■■   ■■■
   
   
 最初は一ヶ月ほどの入院の予定だったのだが、気がつけば意識を取り戻してから実に一ヶ月以上が過ぎていた。
 まだ梅雨明け宣言は出されていないものの、空調が整えられている病室にいてでさえ日差しが強まったことが感じられるようになっていた。
   
  「そろそろ、終わる頃かなあ」
 窓の外を眺めながら、ひとり呟く。岬は、ここ三日ほど、言いようのない焦燥感をもてあましていた。
 岬の学校ではこの三日間、期末テストが行われていた。今日はその最終日だ。
 一ヶ月以上も学校を休んでいるのだからテストなんて受けても意味のないことは分かっているのだが、受験生としてはテストが受けられないというのは焦りを感じずにはいられない。
 このままだと退院する頃には一学期が終わってしまう。
   
  『夏休み中の特別補講に出て一か月分の遅れを取り戻すことにはなってるけど......』
   
 表向きには、岬は交通事故による体の不調ということになっており、病欠扱いである。そのため体が回復したら補講を受けることで一ヶ月普通に通学したことと同じ扱いにしてくれるように学校側と話はついている。
 それは分かっていても、気持ちは落ち着かない。
   
  『あんなことさえなかったら......』
 とてつもなく嫌なことを思い出しかけてぶるぶると首を振る。
  『思い出したくもない......』
 寒気を感じたような気がして、両腕をさする。
 岬は小さくため息をついた。
   
 その時、病室のドアをノックする音が聞こえ、扉の向こうから元気な声がした。
  「利衛子です!」
 どうぞ、と返事をするとすうっとドアが開いた。

  「岬ちゃん!」
 利衛子はひょこっと出てくると、その人懐こい笑みを岬に向けた。
 利衛子と会うのも実は一ヶ月以上ぶりだった。岬が意識を取り戻した次の日に少し話をしたきり、今のうちに片付けておかなければならないことがあるからと、ずっと顔を見せていなかったのだ。
   
  「もう普通に動けるんだね。尚吾から話だけは聞いてたけど、ホントによかった......」
 ぎゅうう、と抱きしめられ、岬は目を白黒させてしまうが、心は温かかった。
   
 午後にはテストを終えた克也と晶子、そして大学生組の尚吾と高島、そして担当の精神科医師も加わり、圭美の病室へと向かった。
   
   
   ■■■   ■■■
   
   
 病院の入り口に近づく。見覚えのある風景に、岬の足が止まった。
   
  『うそ......、まだ入り口入ってすぐなのに......』
   
 頭では、先に進まなければと思うのに、自分の中に潜む『何か』が先に進むことを阻む。
   
 克也も歩みを止め、そっと岬の肩に触れる。
   
 見守っていた医師が、そっと声をかける。
  「焦らなくていい。気持ちが整理できそうになったら教えて」
 岬は頷くが、動揺を隠せなかった。
   
 そんな時――小学校就学前ぐらいの女の子が、たたたっと走り寄ってきた。
 少女のふわりとした髪は肩の上で揺れており、胸にレースのリボンがついた淡いピンクのワンピースを着ている。
   
 いち早くそれに反応したのは利衛子だった。   
   「のりちゃんじゃない」
 にこにこと少女に近づき、あたりを見回す。
   「あれ?今日は洋服なんだね。もしかして退院?」
 利衛子の問いに、少女は満面の笑みを浮かべた。
  「うん!もうだいじょうぶだって、おいしゃさんがいってくれた」
  「よかった!よかったね!」
 利衛子もうれしそうだ。
  「ってことは、家族の人は?」
 その言葉に、少女はちらりと目を動かした。
 少し離れた場所には、医師らしき人物に頭を下げる若い女の人が見える。むこうもこちらが気になるようで、話をしながらも、ちらちらとこちらを見ている。
   
 少女は岬をちらりと見ると、笑いかける。
  「おねえちゃん、帰ってこられてよかったね」
  「え?」
 岬は少々呆気にとられてしまった。どういうことか分からない。
 そこに利衛子が助け舟を出す。
   
  「のりちゃんはね、あたしに岬が連れ去られたことを教えてくれたんだよ」
  「えっ?」
 岬は少女をまじまじと見つめた。この幼い少女になぜ自分が拉致されたことを知ることができたのか――。
    
  「この子、連れ去られる岬の心の声を聞いたんだって。もしかすると一族の能力かもしれないし、そうじゃないけれど持っている性質なのかもしれないけど......」
 利衛子は岬に向かって小声でささやいた。
 少女は少しだけ真顔になると「あのね......ちょっとお耳こっちに近づけて」と岬の腕を引っ張った。岬はそのまま腰を落とし、少女が話しやすそうな高さにしゃがみ「なあに?」と首を傾ける。
   
  「のりちゃんがおねえちゃんの声、聞こえたってことは内緒ね。いつもそういうことは他の人にいっちゃだめなんだって、ママに言われてるから」
 と少女は岬にそっと耳打ちした。
 少女のまっすぐな瞳がまぶしく、岬は目を細める。

  「そっか......ありがとね。おかげで、おねえちゃん、大好きな人たちのところに帰ることができたんだ」
 岬は少女の頭を撫でた。
 撫でながら、心にほんわかしたものが広がるのを感じていた。
   
  『こんなに、たくさんの人に支えられて、あたしは生きてる』
   
 今回のことは、自分にはありがたくない事件ではあったが、そのおかげで、自分がたくさんの人に支えられ、見守られて生きていることを、ひしひしと感じていた。
 幼い少女に元気をもらいながら、岬は顔を上げる。
   
  「大丈夫、行ってみる」
   
 少女に別れを告げ、岬たちは病院の入り口をくぐった。

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