【幕間3】Dear My Friend(4)
少女に背中を押された気持ちで進んだ岬だが、入院棟にたどり着きエレベーターに乗り込むと、一気に緊張感が高まり、ごくりと唾を飲み込んだ。
階数表示パネルを見つめると、体の芯が震えるような気がした。
『行きたいのか、行きたくないのか―― よく分からなくなるよ......』
岬は自分の拳を握り締めた。
一、二、三......、複雑な思いとは別に着実に『あの場所』へと向かっている。
七階に着き、扉が開くと、いつか見た光景が目の前に再生される。
『そう――、あの日も、そうだった』
傍らに寄り添う克也が、そっと岬の肩を抱く。
照れ屋の克也にしては意外だと岬は少し驚く。克也はここのところ、人目があってもこういうことを自然にするようになった。以前にはなかったことだと、こんな時だというのに岬の頬へと熱が集まってゆく。
『それだけ切羽詰った状況だから?それとも―― 二人の関係が深まった......のかな......?』
そんなふわふわとした気持ちは、圭美の病室へと歩みを進ませるにつれて、少しずつしゃぼん玉がはじけるように消えてゆく。
幸いにして、白衣を着た医師や看護士にはほとんど会うこともなかったが、全くいなかったわけではなく、見かけて自分が動揺するそのたびに、まだ自分が完全に乗り越えていないことを思い知らされる。
そして――
大島圭美、と書かれた札を前に克也が立ち止まり、岬を見下ろす。
「本当に、―― 行くのか?」
「聞かないで!必死に耐えてるんだから!」
言ってしまってから、八つ当たりだと気づき、はっとする。
「―― ごめん」
謝る岬に、克也は首を振る。
「いいよ。俺にぶつけてなんとかなる感情ならいくらでも」
克也の優しさが心に沁みる。
岬は半ば自棄のように、扉を開けた。
中に一歩足を踏み入れたとき、岬は今更ながら、初めて後悔した。
『やばい......』
と思ったときにはもう遅かった。
次の瞬間、
岬の耳に聞こえた恐ろしい声。
『俺は、中條幸一。中條御嵩の従兄――』
ざわり、と心を身体を恐怖心がなめるように這ってゆく――。
「あ、あ......」
思わず言葉にならない声が漏れる。膝が、言うことをきかずにがくがくと震え始めた。
喉がからからに渇いて唾を呑み込むこともできずに空っぽの悲鳴を上げる。
いつのまにかそこは鉄格子の部屋になっていた。
『繰り返し薬を打つごとにお前の意識は薄れていき、そのうち何も考えられなくなる。そして......お前は、俺たちの意のままに動く人形へと生まれ変わるんだ』
にやりといやらしく歪められた唇が『視え』る。
『嫌......やめて......!あたしに、触らないで!!』
目の前に迫り来る青白い指先、そして無機質な瞳をして両脇から自分の自由を奪う腕。
自分の荒い息づかいと、やたらと激しくなった鼓動だけが頭の中に響き、息がうまく吸えない。
『怖い』
『たすけて』
ぐるぐると回る視界。
―― 誰も、助けは来ない。
深い絶望が支配する。
―― 細い針が、きらりと光った。
『いや!あたしは、操り人形になんて、なりたくない!』
大声で叫んでいるはずの自分の声が聞こえない。
本当に叫べているのか――。それすら分からぬまま、岬は必死で口を動かし、喉の奥から声を振り絞る。
―― たすけて―― と。
その、瞬間。
「岬!」
不意に聞きなれた声が聞こえ、身体を温かなものが包み込む感覚に、岬ははっと目を見開いた。
「もう、岬は助かったんだ!もうあいつはいない!お前を―― あんな目に遭わせた幸一は、もういないんだ......!」
うずくまる岬を守るように体ごと抱きしめ、克也が叫んだ。
「あ......?」
ここが現実なのか、すぐに理解することができず、岬は混乱した。
『ここは......、どこ?』
今いるこの空間の実感がない。
ただ、体を満たすぬくもりが確かなものであるということは、感じる。
「俺が、そばにいる。これからかも、ずっと――。もう、二度と一人で怖い思いをさせない!」
力強い言葉は、なぜか心の中にすっと入ってきて、岬は目をしばたたいた。
「もう、終わったんだ。もう、岬に害をなすものは、ここにはいない」
小さい子をあやすように限りなく優しい克也の言葉。
岬は、まるで機械仕掛けにでもなってしまったかのように滑らかに動かせない首を、必死で動かしながら瞳を回して周りを見た。
そこには静寂だけがあった。
さっきまで視えていた禍々しさが消え、あたりは清らかな空気が漂っているようにさえ感じられる。
『終わっ、た......?もう、終わり......?』
心の中でその言葉が行ったり来たりしていた。
「か、つや......」
未だ震えの止まらない腕で、必死で克也のシャツにしがみつく。
いつのまにか岬の頬には涙が、滝のように流れていた。その流れは止まることを知らないかのように克也のシャツを濡らす。
『克也が、助けにきてくれた......』
包まれる安堵感の中、岬は声を上げて泣いた。
―― 止まってしまった心の時間の一部分が、動き出したような気がした。
まだ体中の震えは止まらなかっが、恐ろしい幻影だけは不思議ともう視えなかった。
克也はそのままの体勢で、岬の額に自分の額をつけるようにして尋ねた。
「ここは、どこか分かるか?岬」
あまりに混乱したせいで体の一部の機能が麻痺してしまったようで言葉がすぐ出てこない。口をパクパクさせる岬に、克也は優しく微笑む。
「このままでいいから、少しだけ上を向いて遠くを見て」
言われるままに、瞳を動かす。
その先には、一人の少女が静かにベッドの上で横たわっていた。
『あたし、知ってる』
「圭美――」
呆然と岬はその名を唇に乗せる。
「大島がお前にしてくれたこと―― 感謝しに、来たんだよな?」
責めるようではなく、あくまで確認の言葉として告げる。
『そうだった―― 』
この部屋を見たとき、すぐに嫌なことばかり浮かんでいっぱいいっぱいになってしまっていたけれど――、
「あたし、『ありがとう』って、言いに来たんだよね......」
一度止まった涙が、再び零れ落ちた。