【幕間3】Dear My Friend(6)

 岬は自分の病室のベッドに腰を下ろしながらふーっと深く息を吐いた。
   
 窓のブラインドを下ろす克也がこちらを窺うように振り返る。   
  「大丈夫か?」
   
 克也の肩越しに見える窓の外はすっかり暗くなっていた。   
  「うん大丈夫――、っと言いたいところだけど......今日はさすがに、ちょっと疲れたかな」
 岬は肩をすくめて微笑んだ。
   
 ブラインドを下ろし終えた克也が、ゆっくりと岬のそばに戻ってくる。   
 克也をのぞいて他の皆は先に帰ったため、今ここにいるのは克也と岬の二人だけだった。
   
 『二人のお熱いとこ、散々見せ付けられちゃって悔しくなったから、あたしも重くんとラブラブしてくるよ!』と笑った晶子の含み笑いを思い出し、思わず顔をほころばせた岬を、克也が少し怪訝そうに見つめる。
   
  「なに?」
  「なんでもないよ。ちょっと晶子との女子トークを思い出しちゃっただけだから」
 克也はまだ疑問符をさしはさんでいるような表情だったが、岬は気づかないふりをして口を開く。
   
  「友達って、いいよね。あたし、今回のことでそれがよーく分かった。まあ、世の中には色んな形の『友達』があるんだろうけど......、あたし、素敵で頼りになる『友達』に囲まれて本当に幸せだって――、心から思うよ」
   
 岬の笑顔に、克也の表情もほころぶ。
   
  「......大島のこと、本当によかったな......」
  「うん」   
   
 あの時――、目を開けて静かに微笑んだ圭美。
 あれから、しばらくばたばたと病室が騒がしくなった。
 圭美が目を覚ましたとの知らせを受けた医師たちが次々とやってきて、その医師たちがそろって白衣を着ていたせいで岬は正直動揺を隠せなかったが、その度に拳を握り締めて耐えていると、克也がすっとその手を握って微笑んでくれたおかげで何とか耐えることができた。
      
 そんな状態がようやく落ち着いて――圭美とみんなでひと時の楽しい時間を過ごした。
   
  「圭美が目を覚ましてくれる日が本当に来るなんて......。まだ夢の中にいるような気がする......」
   
 自分のしてしまったことが、許されていいのかどうかは分からない。けれど、圭美が微笑んでくれたから――岬は今日、初めて『許された』ような気がした。
   
 圭美の意識ははっきりしているらしく、問いかけに対して頷いたり、目で何かを訴えたりもしてくれた。だが、まだ言葉が発せなかった。担当医師によれば、リハビリ次第でそれも復活する可能性は大いにあるということではあったが。
 そうなると、岬が拉致された日に晶子に対して言葉を発した圭美の行動が、いかに奇跡的なものだったのか、よく分かる。
   
 そんな奇跡を、圭美は自分のピンチを救ってくれるために起こしてくれたのだ。
   
  「本当に、圭美には――、感謝してもしきれない......」
 『感謝』という言葉を使いはしたが、そんなものでは表せないような気がしていた。

   
 そこまで言って「あ」と声を上げる。
   
  「もちろん......今日のことでは、克也にも感謝してるんだよ」
  「......何、そのとってつけたような。いいよ、別にそのことは」
 克也が岬の座る目の前の丸椅子に腰を下ろしながら、苦笑いした。
   
  「あたしが言いたいだけなんだから、いいじゃんっ」
 岬はちょっとだけ頬を膨らませて―― もちろん本気で怒ってなどいないけれど ――、克也を見つめ、一瞬止まった後に笑う。   
 そしてベッドの端に腰掛けたまま、目の前の椅子に座る克也の手を取り、掴んだままの克也の手を自分の額へと引き寄せた。額に、克也の硬い指。そこから伝わるぬくもりを肌で感じながら、岬は瞳を閉じる。
   
  「―― 今日は、本当にありがとう。あたし、克也があそこで現実に引き戻してくれなかったら、どうなってたか分からない」
 克也の指が少しだけ、ぴくりと動いた。
  「いや――、俺は何も。実流さんには『絶対に俺が岬を守る』だなんて大見得切っちゃったけど......、心のことに対して全く素人だし、今だから言えるけど、正直不安だらけだった。でも、岬が前に進むために頑張ると決めたなら、俺もできるかぎりのことをしたいと思った。、――少しでも岬の役に立てたなら、良かった......」
  「少し、じゃないよ。――あたし、あの時幻覚を見てた......。あの人に拉致されて、あの鉄格子のある部屋で薬を打たれる、そんな光景。不思議なの。本当に目の前で自分の身に起きているみたいにリアルなの。私を押さえる手の感覚とか、目の前で光る注射針とか――、本当にそこにあるみたいだった......」
 口にすると、まだ少しだけ体の芯の方がひやりとする。
   
  「後から、その間ずっと『嫌だ、怖い、助けて』って震えながらうわごとのように繰り返して暴れてたって聞いて、ちょっと驚いたけどね......」
 岬はそう言って唇を引き結んだ。
   
  『こんなに動揺しちゃってること、触れている部分を通して克也に伝わっちゃうかも......』
 そうは思っても、克也に触れていると『あの時』の恐怖に冷えた体温を取り戻せるような気がするから、離せない。
   
  「あの混乱した頭の中にも、克也の言葉は、すっと入ってくるような気がした......。その声が、温かさが、あたしを救ってくれたの。まるで魔法の言葉みたいに、克也が『もう終わった』って言ってくれて......その時に『本当に、もう終わったんだな』って感じたよ」
 岬がゆっくりと目を開き、顔を上げると、克也の優しいまなざしがそこにあった。
   
  「なんか、幸せすぎて、泣きそう......」
 岬は笑ったが、泣きそうなのは事実だった。瞳に溜まってゆく涙は、たちまち許容量を超えて流れ落ちる。
  「幸せで泣けるなんて......人って......こんな不可解で複雑な感情を持っているんだね。あたし、克也といると今まで知らなかった自分をいっぱい発見する気がする......」
   
  「岬」
 名を呼ばれて、岬はひとつ瞬きをした。その瞬間、克也の唇を頬に感じる。離れてはまた触れ、また離れては触れる、ついばむような克也の口付けに、顔が一気に火照るのを感じる。
   
  「や......待っ......」
 落ち着かなくなって、岬は思わず克也から身体を離そうと身をよじった。 
  「そんなことしたら――、し......しょっぱくないっ!?」
 岬がそんなことを口走ると、瞳に呆気にとられたような克也の瞳が映る。   
  「お前な......。ムードぶち壊すようなこと言うなよな......」
 克也は苦笑した。
   
  「だ、だってあたし――、なんか、変なの。この間から――っ」
   
  「『この間』?」
 心配そうな克也の瞳。『変』という言葉に、薬による何かの影響を心配しているのだろう。だが、今思わず岬が口にしてしまったのはそんなことは全く関係のないことだった。
   
  「だ、だから......その、変って言っても、その、心配、するようなことじゃ......なくて――」
   
 岬がそう言っても、なおも心配そうに眉根を寄せる克也。
   
  「そういう、ことじゃないの!―― この前の、キス、してもらってからっ、何か、克也にキスされると......落ち着かなくなるというか、どうにかなっちゃいそうになるっていうか......、って、あーもう!何言ってんだろあたしっ」
   
 きょとんとする克也の瞳を見ながら、岬はもう焦りと恥ずかしさで穴があったら入りたい気分になっていた。
   
  『意味不明だよね』
 自分でさえ意味がよく分からないものを、説明しようとしたのが間違いだった、と岬は後悔した。
 だが――、
 次の瞬間、克也の唇が今度は自分の唇に降りてきた。
   
  『ほら......もう余計に、訳わかんなくなる――』
 次第に深くなる口付けに、岬はまた力が抜けそうになる。
 岬の頬に添えられていた克也の手が、肩に降りて――びくりと反射的に身体が震えた。
   
  だが、そこで克也は唇を離す。 

  「そんなこと言われたら――、俺の方が...どうにかなりそうだけど......今日は止めておく」
  「――え?――あ......はい」   
 頭の芯の方がまだぼうっとしていて頭がうまく働かない。岬は必死でこくりと頷いた。 
   
  「岬にもうひとつ言っておかなきゃいけないことがある」
  「......何?どんなこと......?」
 克也の改まった言い方に、岬は一気に気分が引き締まった。
   
 ひと呼吸置いてから、克也は再び口を開いた。
  「今、岬が無事にここにいられるのは―― これまでに分かっているように、大島や井澤をはじめ、色々な人のおかげでもある。けれど今回―― 礼を言わなければいけない人物がもう一人いて―― 俺は、わざと今まで、それを言わないできた」
   
 
 岬は眉をひそめた。
  「まだ......隠してること、あったんだ......」
 少しだけショックを隠しきれずに岬は呆然と呟く。
   
  「ごめん。でもこれだけは―― 岬がある程度落ち着いてから言おうと思っていたんだ」
 克也は落ち着いた表情で岬を見つめた。
   
  「もう一人お礼を言わなければいけない人って―― 誰なの?」
 岬も、克也をまっすぐに見つめ返した。真実を聞くために。
 克也は一度『分かった』とでもいうように頷くと、その名を告げる。
   
  「―― 中條、麻莉絵」

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