心の扉を開く鍵(3)

  「あー、早く重くん来ないかなあ」
晶子が小さくため息をつく。     
  「もう少しで来られるって言ってたんでしょ?さっき家を出たんなら、急いだとしてもまだもう少しかかるよ」
  「そうだけどさあ」
 口を尖らせる晶子の動作がほほえましい。
     
  「岬はいいな。好きな人と一緒に住んでるんだもんね。うらやましいなあ」
 急に晶子に言われ、岬はどきりとする。
   
  「あー、やだなあ。一緒に住んでるって言ったって、晶子が想像するようなのとは全然違うよー」
 一緒に住んでるっといえば、さぞかし甘い生活を想像するだろうが、残念ながら自分たちの場合そういうものではないのだ。
      
 ぼんやりと晶子を見つめる岬の少し後ろを歩く克也の横に、利衛子がスッと歩み出た。
  「ねえ、克也、ちょっと聞きたいんだけど――」
 克也は歩調を変えずに顔だけを利衛子に向ける。
   
 しばし間をおいた後、利衛子は再び口を開いた。
   
  「さっきの......気づいた?」
 少しだけ、目の前の岬たちを気遣うような視線を向けながら利衛子は尋ねる。岬たちは自分たちの話に夢中で、こちらの話には気づいていないようだった。
   
  「――学校でのことか?」
 全てを分かっているといったように答える克也に、利衛子は肩をすくめた。
   
  「やっぱりね。さっきの......」
  「かすかに感じた。あれは紛れもなく奈津河の『気』だった......」
 克也は、眼光を鋭くした。そして続ける。   
  「岬の持っていたネックレスに俺の力が働いていたことで、直接介入されることは避けられた。だが......、部分的に影響を受けたせいで岬が、混乱した」
   
  精神への介入を試みる術――
   
  片倉明日香自身ではなく、彼女を媒体として何者かが遠隔操作をしていたのだ。おそらく、片倉明日香は岬の友達であることで選ばれ、既に知らないうちに明日香自身が術に嵌っているのだろう。
 精神のみを集中的に攻撃するこのようなやり方――、 ねっとりとした執念を感じる。その特徴に、克也はひとつの可能性を思い浮かべずにはいられない。
   
  『その最終目的は何だ――? 岬か、それとも―― 』 
   
 克也は、鋭い瞳で遠くを見つめた。
    
      
   ******   ******
   
   
  「鷹乃姉さま?」
 遠くを見やりながら、目の前のコーヒーカップの縁を弄びながら考えにふけっていると、目の前ににこにこと無邪気な笑顔を浮かべる妹―― 雁乃が擦り寄ってきた。
 甘えるように体をぺたりとくっつけ、私のシャツをつんとつまみながら、その腕に顎を乗せるようにして寄り添う雁乃に、いつものように、よしよしと指で優しく髪を梳いてやる。
 この妹は、自分と同じく、とことん腐りきった親に育てられたおかげで少しばかり特殊な生い立ちをしている。そのせいで、極度に甘えたがりなのだ。
   
  「どうしたの?お姉さま、とっても楽しそう」
 コロコロと玉を転がすようにかわいらしく、高校生ほどの女性が笑う。
  「ええ、そうですね。確かに楽しい」
 自らの指を口元に軽く当てて、鷹乃は微笑んだ。
   
  「雁乃、あなたが連れてきてくれたあの女子高校生のおかげでうまく事が運べそう」
  「嬉しい。お姉さまのお役に少しでも立てるなんて――。雁乃、頑張った甲斐があったあ」
 そう言って、すりすりと鷹乃の腕に自分の頬を擦り付ける雁乃。

  「本当にありがとう。雁乃がいてくれるから、私もこの世で生きていける」
 軽く雁乃の紅色の頬に唇で触れると、雁乃ははにかんだように笑った。
  「それにしても、鷹乃姉さまは天才だね。次々と色んなことを思いつくもの」
 雁乃の妄信的な言葉に、苦笑する。
  「天才だなんて。ただ―― 借りはきっちり返させてもらうって気持ちでいるだけ」
  「ふうん?」
 上目遣いに見る雁乃に対し、微笑む。   
  「この間、わかった。私の記憶があの男にまさぐられると同時に――あの男の記憶も流れてきた。それで分かった。あの竜の長も――、私たちに負けずとも劣らないほどの心の闇を抱えてるって」
 再び、目の前のテーブルの上のカップを自分の目の高さまで持ち上げる。 
    
  「心の一番根元にある一番嫌な記憶を引き出す――。最終段階では、さぞや楽しいショーが見られるはず」
 心の奥底に眠る、自分が乗り越えてきたと思っている記憶。その中に本当に乗り越えられたのではなく、ただ蓋をしただけの傷を抱える者がいる。その不安定さを、自分は自分の身をもって知っている。
 長いこと、傷から血を流し続けているにもかかわらず、そのことに傷を持つ本人は気づいていない。そんな傷は、ちょっと突けば大量の血が流れ出す。
   
  「幸一様......」
 その名を唇に載せると、自分の中の新しい傷も開く。
   
 中條幸一と自分は浅からぬ中だった。 
 幸一には愛する妻と子供ががいたが、別に自分はそれでもよかった。
 物珍しさからでも何でも、おそばに置いて可愛がってもらえた。幸一に触れられるたびに体中が紅潮し、自分の心が女性なのだと心から再確認できた。
 幸せだった。
   
 それなのに、そんな幸せは奪われてしまった。
 どんな理由があっても、許せない。
   
  「雁乃と私の心をひっかきまわし、そして幸一様を殺したそのツケ――、しっかりはらってもらいますね......」
 鷹乃の、紅を引いた唇が、にいっと狡猾な笑みを象った。

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