心の扉を開く鍵(2)
岬にとってしばらくぶりの学校。クラスメートたちに歓迎ムードで迎えられた岬だが、よもや悪い輩に薬物を打たれたとは言えず、交通事故に遭ってその治療のために入院したということになっているため、去年の秋に起きた文化祭、克也をめぐる聖蘭子との確執など、『不幸な女』の烙印を押されてしまった感がある。とはいえ、それも十分予想済みのことで、聖蘭子はともかく、岬と克也の二人は、そういう噂に対しては取り合わないと決めていた。
すぐに夏休みに入るということで、噂が沈静化するのも早いだろうというのが水皇の見解だ。
体育館での終業式の後、教室に帰ってからの担任の話も終わり、挨拶のために立ち上がる。
形式どおりの挨拶が済んだ教室内は一気にざわめきを取り戻した。
扉の向こうの廊下の窓際にさりげなく立つ利衛子の姿を視界の端に捉えつつ、岬は小さくあくびする。
『一学期ももう終わりかあ』
しみじみと教室を見回す。
最後の一ヶ月はこういう生活から全く離れていた分、やはり『いつもの風景』は落ち着く。復帰した途端に休みに入ってしまうのはとても残念だ。とはいっても、明日から補講で毎日学校に来ることは決まっているのだが。
「岬、今日これからに遊びに行かない?バスケ部の仲間も何人か一緒にさ」
同じクラスの片倉明日香が寄って来る。
岬たち三年生は受験をひかえた身であるため、夏休み以降の部活動は自由参加となる。夏休みに開催される全国的な総合大会へも、岬が入院している間に行われた地域の予選で、残念ながらあと一歩というところで敗退してしまったため、事実上一学期で部活動は引退だ。
明日香とは部活以外ではそれほど交流があるわけではなかったが、部活の仲間で一緒に出かけたことも今まで何度かあったし、部活の皆で何かをするのも悪くないとも思えた。ただ、今までの岬なら二つ返事でついていくところでも、今は護衛がつくほどの事情があるだけにすぐに答えられず言いよどんでしまう。
「あー、えっと......」
次の句が継げずにいるところへ、扉のむこうから自分を呼ぶ大きな声が響いた。
声のした方を見ると、晶子が千切れんばかりに手を振っている。そしてその後ろに、晶子の勢いに少々引き気味の克也も見える。
「あ、そっか。岬には彼氏がいるんだもんね。窮屈な入院生活から解放されたばかりじゃ、当然今日はデートだよね。ごめん、ごめん」
明日香は肩をすくめた。
「ごめん......ちょっと今日は......。いや、デートってわけじゃないんだけど――」
一緒の敷地内に住んでいるという後ろめたさのような気持ちから、岬はしどろもどろになる。そのことに、明日香は岬が遠慮していると思ったらしい。
「いいっていいって、気にしないで。また夏休み遊べる時遊ぼうよ!電話するからさ!」
明日香は目の前で手をひらひらと振る。
電話、と聞いて岬は一瞬焦った。
「――あ!連絡――あたし携帯買ってもらったから携帯にかけて。うちに、いないことの方が多いから!」
本当は、いないことが多いどころか今までの家には住んでいないのだが――それを言うわけにはいかない。父や姉たちになるべく負担をかけないように、携帯で連絡を取り合うのが一番だと思ったからだ。
「岬もとうとう携帯持ったんだ!お姉さん許してくれたんだね!」
「うん......」
赤外線通信で連絡先を交換しながら、これを持たせてくれた港のことを思い、少しだけホームシックのような気分になる。まだ久遠の家で暮らし始めて数日だというのに、あまりに今までと違いすぎる生活に少し気持ちが押され気味なのかもしれない。
「どうしたの?」
晶子が克也を引っ張りつつ、そばによって来た。
困っているようなのが表情から伝わったからなのかもしれない。
岬の代わりにすかさず明日香が口を開いた。
「あ、ううん、なんでもない。今日遊びに行かないかと思ってたけど、デートだって言うから遠慮したところ!」
意味ありげな視線を送る明日香に、岬はなんとなく落ち着かない気分になる。久しぶりの学校のせいなのか、明日香の一言一言がなんとなく心に引っかかってしょうがないのだ。
「あ、いやー、だから別にデートってわけじゃ......」
ごにょごにょと小さな声でつぶやく岬は、つい、視線が目の前の机の上に下がっていってしまう。
「今日は岬、あたしたちとダブルデートってことで約束してたじゃない!岬ってば忘れちゃったの?」
晶子がとっさに機転を利かせてくれたようで、岬は曖昧に「う、うん」と相槌を打った。
何となく急に解放されたような気分になる。
「やっぱりデートだったんじゃん!あたしに遠慮なんてしないでよ」
明日香の言葉に、また何か心にひっかかりを覚える気がする。
「ごめん......」
謝る岬に「いいって、いいって!じゃあまたねー!」と笑顔で明日香はひらひらと手を振り、自分の席へと鞄を取りに行ってしまった。
その姿をぼーっと見送っていると、突然背中をべしっ!と晶子に叩かれ、はっと我に返る。
「ちょっと岬!なに呆けてんの!大丈夫!?」
「あ......ごめん」
謝る岬の耳に顔を近づけ、他の者に聞こえないようにこそっと晶子が囁く。
「ねえねえ。なんかあたし勝手に、岬が困ってんのかなーって思って、ダブルデートだなんて言っちゃったけど、本当はあの子と遊びたかったの?だとしたら余計なことしちゃったかな......?」
眉をひそめる晶子に、岬は首を振った。
「ううん、余計なことじゃないよ......あたし多分、困ってたと、思う」
岬も小声で答える。
「なあに、『多分』って」
晶子が呆れたような声を出した。
「あ、ほんとだ、『多分』だなんて自分の気持ちなのに変だよね......」
言われて気づいたが、確かにおかしい。
『なんだろう?あたし、なんか変だ。――薬の影響?』
幸一たちに打たれた薬の後遺症と思われるものは、最近は白衣に対する恐怖の他はしばらく出ていなかった。あの、毎日あった頭痛でさえも、最近はなくなっていたのに。
『あれ?そういえば......』
ここにきて岬は、先ほど晶子に連れられてきた克也がこちらに来てから一言も声を発していないことに気づく。
克也を見上げて岬は、はっとした。
克也の視線は岬にはなかった。片倉明日香の方をじっと見つめている。そのまなざしに少しだけ厳しい『長』の目を見たような気がして岬は一瞬息を呑む。
「克也?」
恐る恐る声をかけると、克也ははっとして岬の方を見た。
「あ、ごめん」
克也は明らかにぎこちない笑みを浮かべる。
「あーもう!この二人はっ。蒼嗣くんまでぼーっとしちゃって。いくらラブラブだからってそんなところまでシンクロしてないでよねー」
晶子が呆れ声を出した。
「ごめん晶子」
「ごめん」
なぜか、ほぼ同時に謝ってしまい、岬と克也は顔を見合わせた。晶子も目を丸くして驚いた後、吹き出す。笑いが一段楽したところで
「ホントに仲良いよねえ」
と晶子は、わざとらしく大きなため息をつく。
「ていうか、さっきの話じゃないけど、実際あたしこれからダブルデートに誘おうかと思ってたんだよね。どうかな?」
再び耳打ちされ、岬は「いいね」と笑った。
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三人で並んで校門をくぐる。
『それにしても、なんであたし明日香の言葉にあんなに動揺してたんだろ?』
改めて考えると、明日香としていたのはそれほど気にするような会話じゃない。
『久しぶりの学校だったからかなあ』
岬は首をかしげた。
真夏の太陽が、岬たちの歩くアスファストの上に湯気を立たせそうなほど、容赦なく照り続けていた。