心の扉を開く鍵(1)
「いってきます」
そう口にして、笑顔で頷く水皇とそばに控える涼真、基樹、そして一番後方にいる稔里に対し、ぺこりとお辞儀をしながら岬は玄関を出た。
続いて克也が、ぼそりと挨拶しながら出てくる。
そしてちょっと離れた場所にいた利衛子が「あたしもいってきまーすっ!」と元気な声を上げた。
「はー、久しぶりの制服。なんかしゃきっとするなあ」
ぱたりと静かに玄関の扉が閉まる音を耳にしながら 岬は手を空に向かって突き出し、ひとつ伸びをする。
制服は幸一に監禁されていた間ずっと着ていたものだということで、水皇が新しい制服を用意してくれていた。
あの事件を思わせるものはなるべく岬の周りから排除した方がいいということらしい。
『まあ、あの時着てたやつも、悠華さんの用意してくれた制服だったけど』
奈津河の人たちへの思いを断ち切る意味でも、今ここであの制服を捨てて水皇の用意してくれたものを着るのは、ちょうどいいことなのかもしれないと思う。
使用人の男性が先頭をきって歩き始め、克也、岬の順でそれに続く。その少し後ろを利衛子が歩く音が聞こえる。
ざく、ざくと細かい砂利を踏みしめる音が静かな庭に響く。
外は既に蒸れるような夏の暑さだったが、緑の多いこの敷地内だけに、少しだけ空気が凛としている気がする。草木の香りが心地よい。
今日は一学期終業式。
克也と同じ屋敷に住むようになったことは世間には内緒だ。だから水皇の提案で、学校に集まる人数も多い今日は、どこでどう見られるか分からないために一緒に行くことは避け、それぞれ時間とルートをずらして別の駅経由で登校することにした。そこまでしなくてもという思いも岬にはあるが、それでなくても克也と岬は注目されやすいため、余計なトラブルに巻き込まれないために念には念を、といったところらしい。
克也と離れて行動する分、岬には利衛子が一緒に付いて護衛をしてくれることになった。久遠に来て初めて知ったことだが、水皇と岬たちの通う桜ヶ丘高校の理事長が旧知の仲らしく、目立たぬようにと言う条件付きで利衛子が岬の護衛に付くことを承諾してくれたのだという。
『そういうことなら、克也が学年途中なんて中途半端な時期に転校してきたのも頷ける』
ずっと不思議だったのだが、これで合点がいった。
岬はそっと自分の胸元に手を添える。制服の下に隠したコツンと小さな硬い感触。克也の力を少し込めてもらった、月を象ったネックレスだ。
『これも、あたしを護ってくれてるんだよね......』
ずっと付け続けているのでようやく慣れたが、克也の力に包まれる感覚を意識してしまうと、まだ心がざわつき、頬に熱が集まってしまいそうになる。
使う駅に近いという理由で、克也が出るのは東門だ。使用人の男性が門扉を開こうとするのを横目で見ながら、克也が後ろを振り返る。岬たちは北門から出るからここで分かれることになる。
「じゃあ、克也、また後でね」
岬が笑顔で言うと、克也もふわりと微笑んだ。
利衛子が横で「仲が良いことはいいことだよねえ」と、頷いている。
「行ってらっしゃいませ」
門をくぐる克也に男性が頭を下げる。
この久遠に移ったとき、使用人が学校まで送るという案も出たらしいが、克也は必要ないとあっさり断ったらしい。
しばらく克也の背中を見送った男性は、丁寧に門を閉めると岬たちのほうに向き直り、にこりと笑顔を作る。
「では、北門に参りましょうか」
歩き始めた三人の後ろでオートロックのかかる音が聞こえた。
岬は歩きながら、利衛子を横目で見た。 昨日の激しい感情は、今の様子からは想像できないほどだ。それほどまでに昨日の利衛子には、村瀬颯樹に対して鬼気迫るものがあった。
利衛子は岬の視線に気づくと、 済まなそうに肩をすくめる。
「昨日はごめんね......。びっくりしたでしょ?」
ちょっとあからさまに視線を送りすぎたかな、と岬は少し慌てた。
「いえ。―― まあ、ちょっとはびっくりしましたけど。でも、きっと一族のことで色々あるんだろうなあ、って思います」
少し笑顔が引きつってしまったかもしれない。
再び三人の靴音だけが響く。
どこか遠くで蝉が鳴き始めるのが聞こえた。
しばし無言のまま、時が過ぎる。
しばらく歩くと急に目の前か開け、岬は顔を上げた。
ここに来た日に正面の正門から入り、昨日は家から出なかったので分からなかったが、北門は食料などを搬入する車も通るということで、一際横に広い。背の高い金属性の、横にスライドするタイプの黒い門扉が重々しい。
使用人の男性が守衛のような者に声をかけると、その門が自動でゆっくりと開いた。
岬も、使用人の男性が学校まで来てくれるという申し出を断ったので、ここからは利衛子と二人だ。
頭を下げる男性に、こちらも一礼して門を離れる。
「別に岬ちゃんが頭下げなくてもいいのに。律儀だねー」
「だって、何か、頭下げられるのに慣れてなくて......」
そう言うと、利衛子は笑う。
「岬ちゃんって、ホント、かわいいよね」
アスファルトで舗装された道を二人で歩く。歩道と車道を隔てるガードレールの向こうには、時折大きなトラックや車が通り過ぎる。岬の住んでいたマンションの周りより大幅に道幅が広かったり、あたりには大きなお屋敷が立ち並んではいるのだが、『ごく普通の生活風景』に、岬はホッとする。
夏の日差しが肌を焼く感覚。いつもなら不快なその感覚も、一ヶ月以上の入院で外に出ることが少なかった岬にはそれすらも新鮮だ。健康であることの幸せを噛みしめる。
「克也は―― 何か言ってた?颯樹のこと......」
視線は路面に置いたままで、おもむろに利衛子が口を開いた。
こちらの出方を窺うような瞳で見つめられ、岬は曖昧な笑顔を返した。
「双子のお兄さんの――久遠智也さんの、許嫁だった人だと......」
岬の答えに、納得したように利衛子が口を開く。
「そっか、克也は智也のことまで岬ちゃんに話してるんだ」
「はい。でも、少しだけですけどね」
答えながら少し寂しくなる。
克也はもっといろんなことを抱えている。それなのに、その核になる部分に自分はまだ触れさせてもらえない。こんなに近しい関係になっても。根本的なところでまだ心を開いてもらえないのかと思うと寂しくなる。
『あたしは、もっと何でも話して欲しい。克也の力になりたいのに――』
ひとつ小さくため息をつく。
「克也はまだあたしが知らない色んなものを抱えているんでしょうね。お兄さんのこととか、一族のこととか......」
「そうだね......」
岬の言葉に一拍間をおいて利衛子も頷く。
「あたし、もっと克也のこと知りたいです。まだ分からないことだらけで――。本当はもっと、何でも、言って欲しいのに――」
利衛子に言っても困らせるだけだと分かっていても、つい口にしてしまう。
利衛子は本当に少しだけ困ったように眉根を寄せて――、微笑む。
「そうだよね。岬ちゃんの立場なら、知りたいよね。 ごめんね岬ちゃん。あの子――、小さいときから本当にいろんなことがありすぎたの。それは、たやすく口にできないほど重いものなんだよね」
「利衛子さんは当然知ってるんですよね......。あたしには、言えないことなんでしょうか......」
唇を噛みしめ、立ち止まる。横に並んだ利衛子も同じように歩みを止めた。
「あたしはあの子の姉だから――、一緒に過ごした時間がある分、知ってる部分も多いのは確かだよ。でもね岬ちゃん、あの子が岬ちゃんに過去のことを言わないのは決して岬ちゃんを信用してないとかいうことじゃないと思うんだ」
利衛子は岬の肩に手を添える。
「あの子は、辛いことも苦しいことも全て自分の中で解決しようとする癖があるの。傍から見てきっと苦しいだろうなとか、嫌なんだろうな、とかそういうことがわかって、話して欲しい、もっと頼って欲しいと言っても――、決してそれを話そうとはしない。その感情自体を表に出そうとしない。自分一人が我慢すればいいと思ってる」
そこで一旦言葉を切る。利衛子は一瞬立ち止まり、腰に手を当て、目を細めて空を見上げた。
「克也はね、きっと口に出すのが怖いんだと思う。、過去を話す時、その思いを再び甦らせることになる。その時に自分がどうなってしまうのか、分からないから。訳分からなくなって、岬ちゃんに迷惑をかけてしまうのことが、きっと怖いんだよ」
「訳わからなくなるって......、どうなるんですか?」
岬も歩みを止めて利衛子を振り返る。
岬と利衛子の視線が交差した。
「岬ちゃんは、克也が自分の心の内を他人から隠すために無表情という仮面をつける癖があるのを知ってる?」
そう利衛子に言われ、岬はすぐに会ったばかりの時のことを思い出した。
「そういえば、会ったばかりの時は無表情なことが多かったような......」
岬の言葉に、利衛子は頷いた。
「転校したての頃は克也も相当参ってた時期だろうから、感情自体失われていたかもしれないし、周りに自分の心を見せたくなかったのかもしれない。そういう意味で無表情だったのかもしれないね。それも確かに問題だよね。でもね、それ以上にもっと危険なのは――、あの子、ショックなことがあればあるほど無表情という仮面で自分を隠そうとするの。そして自分で制御できないほどの衝撃を心に受けた時――」
言葉を止めた利衛子に、岬は思わず息を呑んだ。
胸の前で拳を握り締めて次の言葉を待つ。
「そんな時は無表情から、しばらく戻れなくなる。かと思うと、いきなり狂ったように叫びだしたりすることもあった」
利衛子の言葉は、衝撃的だった。
自分は、そんな克也を見たことはない。
「そんなになるほど―― 、ショックの大きいことだったんです、か?」
声が震えた。
「そうだね。あたしが見たのは二回だけど、最近岬ちゃんがらみでわりと軽めのがもう一度あったって尚吾は言ってたかな」
「えっ......」
自分がらみということで、心臓が一際大きく跳ねた。
「あ、でもこの間じゃないよ。この間のことも条件としてはそうなってもおかしくなかったと思う。でも、少々危なっかしいところもあったけどならずに頑張ってたもの。―― 岬ちゃんを救うにはそんなことになってられない、っていう気持ちが強かったのかもね。まあ、あのまま万が一岬ちゃんがどうにかなっちゃってたら間違いなく狂っちゃっただろうけど」
この前のことではないとすると――。
岬は記憶を総動員するが、思いつかない。離れていた間のことだろうか。
考え込む岬に利衛子は優しく微笑む。
「でも――これはあたしの勝手な推測だけど――、あの子が岬ちゃんに全てを話してくれる日はもうすぐそこまで来ているような気がする。」
「え......」
岬は驚いて動きを止めた。
「克也は以前、一族がらみの色々なことから逃げてた。――といっても......、あの子の性格的に――岬ちゃんにも想像できると思うけど、最初は自分から逃げたわけじゃなかった。様々なものを抱えながらも逃げようとせずに自分を追い詰めて生きてた克也を、心配した水皇さんがかなり強引な方法で無理やり色んなしがらみから引き離したの。一族からできるだけ離れて一人暮らしをしていた理由のひとつはそこにある。」
克也が長いこと世間から隠されていた理由について、何か事情があるとは思っていた。
そして、克也が一年留年していた理由も――。
利衛子の言う『一族がらみの色々なこと』『しがらみ』と全て関連しているのだろうか。
「でも――、この久遠の家に移るとあの子が決めた時から、あの子は過去と向き合う覚悟を決めたんだという気がしてならないんだ。それに、この久遠の家に岬ちゃんを迎え入れるなんて、その覚悟がなければ絶対に無理だもの。あの子の抱えているものを考えたら、それってよほどの覚悟がいるはずなんだ......」
そう言う利衛子の瞳は険しい。
「利衛さん、あたし――」
つい、愚痴めいたことを言ってしまったが、こうして改めて利衛子の話を聞いていると、克也が抱えるもののは確かにそんなに簡単なものではないのだろうことが伝わってくる。
『あたしなら、理解できると思うのは、思い上がりなのかな......』
複雑な気持ちになる。
しゅんとしてしまった岬を励ますように、利衛子は岬の肩を自分へと引き寄せる。
「克也が過去と向き合うとしたら、岬ちゃんのために決まってるんだからね。そこは自信を持って!」
利衛子は力強く微笑んだ。