恭順の家(7)

ガラスを一枚隔てた向こうには梅雨明け後の灼熱の世界が広がっているが、こちら側は太陽の熱は感じるものの、空調がしっかり効いていてうだるような暑さは感じない。
   
  「克也?――克也ってば!!」

 庭に面した廊下の端に並んで座りながら、岬は克也に話しかけるが、克也の返事は一拍ずれていたり、的外れだったりと、どこか心ここにあらずといった状態だ。
  「あ、ごめん」
 そう謝るものの、すぐにまた考えにふける克也。
   
 もう何度か同じやり取りを繰り返している。
   
 岬は小さくため息をつき、話すのをやめた。そして克也の横顔をじいっと見つめる。
 だが、克也は岬が話を途中でやめたことにも気づいていない様子だ。
   
  『こんなこと、はじめてかも......』
 うぬぼれるわけではないが、今まで、克也は岬のことに関しては可能な限り応えようとしてくれたし、実際に応えてきてくれてきた。だから、付き合い始めてから――、特に聖蘭子によって引っ掻き回された後に再び思いを通じ合わせた後は、自分の存在がここまで克也に無視されたと感じることはなかった。
   
  『なんか、怖いよ』
 克也の中で、自分がとてもちっぽけなものに変わってしまったようで、不安になる。
 いや、実際今現在においては、確実に何か自分以外のものが克也の心を大きく占めている気がする。
   
   
 ―― そう、『あの瞬間』から ――
 
   

   ******   ******
   
   
 あの時――、岬は思わず克也のそばへと駆け寄り、その腕にしがみついた。
   
 なぜ、そうしたのか、岬自身にも分からなかった。
 けれど見つめあう二人を見て、そうしなければ克也が離れてしまう、そんな不思議な気持ちになったのだ。
   
 はっとしたように体をびくりと震わせ、克也は傍らの岬へと視線を移した。
  「ごめん」
 謝られたが、何に対して克也が謝っているのか、岬には全く読めなかった。
 だからただ、克也の腕を必死で掴むしかなかった。
   
  「それじゃ、私はこれで」
 それ以上を語ることなく、印象的な微笑みを残して村瀬颯樹は立ち去っていき、後には何ともいえない空気が流れる。
   
 その場にいた誰も、何も語ることができなかった。
      
   
   ******   ******
   
   
  ―― 克也はあの人を『颯樹』と親しげに呼び捨てにした。そしてあの人も同じく『克也』と――。
   
 かつて、何年も離れて過ごしていた姉の利衛子に対して、久しぶりに会った克也が見せた表情も複雑なものだったが、その時とは全く違う。
 克也の表情にはもっともっと深い感情が底の方でうごめいているような気がした。
      
  『あの人は誰?前に克也と何かあったの?』
   
 そう、軽く聞けばいいのかもしれない。
 でも、二人の間に流れたあの独特な雰囲気――、なぜか、聞くのが怖い。
   
  「岬」
 克也の呼ぶ声ではっと我に返る。
  『今度はあたしが考え込んじゃってたよ......』
 考え込んでいるうちにいつの間にか逸らしていた瞳を再び克也へと戻そうとした瞬間、克也が両手を伸ばし岬の肩をぐっと引き寄せ、抱きしめた。
 少し乱暴な仕草なのが、岬の心に引っかかる。
   
  「かつ、や?」
 強く抱きしめられて身動きがとれず、岬は克也の胸に額をつけながら名を呼ぶ。
  「ちょっと、苦しいよ。どうしたの、急に」
   
 岬の言葉に克也が腕の力を少しだけ緩めるが、まだそれほど体は自由にはならない。
   
  「克......」
 再び名を呼ぶのを遮るように、克也の唇が岬の唇を覆う。その口付けは、先ほど抱きしめられた乱暴さのままに深くなってゆく。息のつく間も十分に与えられないような、まるで、岬の思考を奪うかのような口付け。
   
 『どうして、どうして今、こんなキスをしてくるの......。こんな......、まるで何かをこのキスで紛らわすような―― 』
 岬の心で、克也の情熱に溺れそうになる自分と、何かが違うと警鐘を鳴らす自分がせめぎあう。
   
 やがて、長い口付けから解放された岬は克也の胸へと倒れこみ、肩で息をした。
   
  「ごめん、大丈夫か......?」
 はっとしたように、克也が心配そうな顔で岬の瞳をのぞき込む。その瞳には、もう先ほどまでの乱暴さは見られない。
 岬は克也の胸に額を預けたまま、拗ねるように顔だけぷいと克也の反対側を向いた。
  「ずるい。克也はずるい。こうすればあたしがおとなしくなると思ってのこと?......っていうか、実際におとなしくなっちゃうけどっ、でもこうして何かをこんな風に誤魔化されるのは、嫌だ!」
 次第に口調がきつくなる。
   
  「ごめん、そんなつもりは、なかった。ただ―― 」
  「じゃあ、どういうつもり!?『ただ』何なの!?」
 岬は克也の瞳を真っ直ぐ見上げた。
 途端に克也の表情は固まり、瞳だけが心の波を語るように揺れている。
   
  「あの、村瀬颯樹さんっていう人のことが気にかかってるんでしょ?」
 図星であるように、克也の体がこわばった。
   
  「あの人は一体何?克也にとってどういう人なの?」
 勢いに乗って口にした。
   
 しばらく克也は動くことはなかった。
 だが、やがて唇を引き結んで一度遠くを見つめ―― 、そのまま岬へとゆっくり視線を戻した。
   
  「颯樹は――」
 そう克也が口にしかけたとき、いつの間にか近くに来ていた使用人の男性が申し訳なさそうにその場に立っているのに、二人とも気づいた。
 岬と克也がぱっと離れると、二十代後半ぐらいに見えるその男性はおずおずと口を開く。
  「あの......克也様、申し訳ないのですが、水越様がもう一度確認したいことがあると――」
   
 一体どこから見られていたのだろうと思うと、体中が沸騰しそうだ。だが、目の前の克也は、少々頬が紅いような気がするものの、冷静にその男性のいる方を見ていた。   
  「分かった、今行く」
 克也が事務的に答える声がやけに耳に響く。
   
  『何を、言おうとしたの......』
 このまま聞けずじまいになると思った岬は、小さくため息をつく。
 それを横目でちらりと見る克也は、使用人の男性に向かって言った。
  「すぐに行くから、先に報告に行ってくれないかな。場所は藤の間だよな?」
 呼びに来た男性はそれを肯定すると「かしこまりました」と一礼して足早に去ってゆく。
 その様子を見送り、男性が見えなくなると克也は岬へと向き直った。
   
  「岬、ごめん。俺はさっき――、色々なことを思い出してしまって頭が混乱してた。......ずっと会ってなかった人に、会ってしまったから」
  「ずっと、会ってなかった人......」
 それが村瀬颯樹のことを指すのだと言うことは明白だ。
 一拍置いて、克也は再び口を開く。
   
  「颯樹......、村瀬颯樹は」
 外で、いきなり蝉が鳴き始める。それにかぶさるように克也は続ける。
  「颯樹は、智也―― いつか岬にも話したことのある俺の双子の兄の......許嫁(いいなずけ)―― だった」
   
 蝉の声を聞きながら、岬は息を呑んだ。
   
 克也の双子の兄、久遠智也。奈津河一族が命を奪ってしまった人。
   
  『その人に許嫁が――』
   
 智也が亡くなったのは中学生だからと、そのことに考えがたどり着いてなかった。
 愛する人を奪われた憎しみをぶつけてきた泉の瞳が脳裏に甦る。
   
  『あの人も、一族の争いの犠牲者―― 』
 心の奥につんとした痛みが走る。
   
 そんな岬を見つめて、克也は肩をすくめた。   
  「岬に、そんな顔をさせたくなかったんだけどね......」
 悲しそうに克也は微笑む。
   
  「だけど、このままだと岬が何か誤解しそうだから......」
 少し言いづらそうにつぶやく克也。
  「あ......」
 少し恥ずかしくなって岬は思わず両手で自分の頬を押さえた。
 二人の視線がぶつかり、微笑み合う。
   
 鳴きやまない蝉の声が遠くに聞こえる。
   
  「―― もう行かないとさすがに怒られちゃうな」
 思い出したように克也が言う。
 そして、克也は一度岬を優しく片手で引き寄せ―― その額にそっと唇を寄せた。
  「――っ!」
 顔の熱が一気に急上昇してあたふたする岬に微笑みながら、克也は先ほど使用人の男性が行った方へと消えてゆく。   
  「もう......」
 岬は額を押さえながらため息をついた。 
 そしてぼんやりと、克也から言われたことを頭で反芻する。
   
  『そうか、颯樹さんは、智也さんの―― 』
 奈津河一族のしたことへの罪悪感は残るものの、岬はどこかホッとしている部分があった。
   
  『なんか、変な空気が流れてたから、あたしてっきり、克也とあの人に何かあったのかなんて勘ぐっちゃってたし......』
 一人で焦っていた自分がなんだか恥ずかしくも思えてくる。
   
  『でも......あの雰囲気―― 、何だかもっと特別な感じがしたんだけどな......』
 颯樹と克也が見つめあったときのあの雰囲気。
 思わず不安になってしまったほどの。
   
  『気のせいだったのかな......』
 ぼんやりと考える。
 岬は、颯樹から渡された村瀬実流医師からの茶封筒を見つめた。

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