恭順の家(6)
稔里に案内され、岬は離れから母屋に通じる通路を渡りきってすぐの、洋間にいた。
『村瀬先生、来られないなんて残念だな......』
小さくため息をつく。
つい先ほど、岬を呼びに来た稔里が告げたのは、村瀬医師が急患への対応でどうしても来られなくなったので、代理の者が来ることになったということだった。
「岬様、お待たせしてすみません。あと十分ほどで着くと先方から知らせがありましたので......」
着物に前掛け姿の稔里が申し訳なさそうに頭を下げる。
「あ、いえっ!稔里さんから頭を下げてもらうようなことじゃないですからっ!一般人のあたしのことは気にしないでくださいっ!」
焦って思わず声のトーンも一段高いし、挙動不審なジャスチャーを加えてしまう。
稔里は一瞬きょとんとした後、ふっと口元を緩ませた。
「岬様は、本当にかわいい方ですね......」
「か、かわいい?」
どういう意味に捉えたらいいのか考えあぐねていると、稔里ははっとしたように、しゃんと前を向き表情を引き締めた。
「長のお相手に失礼なことを申しました」
「いっ、いえっ、そういうことじゃ......」
ちらりと上目遣いで稔里を見るが、稔里はそのままの体勢を崩さない。
しーんとした雰囲気に耐え切れず岬は口を開く。
「稔里さんは......ここに何年ぐらい勤めてるんですか?」
思わぬことを岬に聞かれたことに驚いたのか、稔里は眼を丸くして顔を上げた。
「今年で六年になります。」
「そうなんですね......」
そう呟きながら岬は、以前麻莉絵に聞いたことを思い起こしていた。
久遠智皇――克也の父親―― が病死した後、克也の双子の兄である智也が跡を継いだ。だが『四年』前、奈津河一族はその智也を殺してしまったのだ。その後すぐに克也が長を継いだのだとしたら、それは、去年麻莉絵がそれを語った時点から四年――、それから半年ほど経ったことを考えて、多く見積もったとしても五年前となる。
稔里はここに勤め始めて六年だといった。六年ということは、克也が長となる前、久遠智也が長の時を知っていることになる。
『ここには、あたしが知らない克也を知る人が、確かに、たくさんいるんだ......』
仕方のないこととはいえ、自分だけがそれを知らないのは何だか寂しい気がした。
自分も、克也の全てを――、この世に生を受け、そしてどんな体験をして、どんなこと考え、ここまで生きて来たのか――、全部、知りたい。いくら恋人とはいえ、相手の全てを知りたいと思うのは貪欲すぎるのかもしれない。けれど、それほどの強い思いが、最近の自分にはある。この世で克也のことを一番分かっているのは、自分でありたいと思ってしまうのだ。
『聞きたいことは山ほどあるけど......、誰に何から聞いたらいいのか、分からないよなあ』
岬はぼんやりと考える。
そんなことをしているうちにドアがノックされる。稔里の返事の後、同じようなお手伝いさんの格好をした女性がドアを開けてこちらに一礼した。
「村瀬様の代理の方がお着きです。お通しして構いませんか」
「構いません」
稔里が答えると、ドアをノックした女性に促され、後ろから、グレーのスーツを着たすらっとした長身のショートカットの女性が現れた。少々栗毛に近い髪色、かすかに色づくまぶたと唇を見ると化粧はしているのだろうが、ごく薄くだと見えて、僅かに口の端を上げたその表情は自然な輝きを放っていた。
ただ、その大きく黒い瞳には吸い込まれそうな何かを感じる。
―― 涼しい? ――
その人の周りに涼しい風が吹いたような印象を受け、気がつくと岬は両手で自分の二の腕を押さえていた。
そして、その人を見た瞬間に稔里の表情が明らかに動いたのを、岬は見た。
「あなたは......」
落ち着いた印象の稔里の瞳は揺れていた。
「久しぶり、稔里さん。まだここで働いてたんだ」
ショートカットの女性は稔里に向かって微笑む。その微笑みも鮮やかで、思わず岬は息を呑んだ。
稔里の少し後ろで見つめる岬に、ショートカットの女性はその大きな目を向けた。
少しの間、岬を見つめると、女性はその大きな瞳をくしゃりと崩し、満面の笑みを浮かべた。人懐こささえ感じる、文字通り『満面』という笑顔だった。
「初めまして、栃野さん。村瀬颯樹(むらせ たつき)と申します」
岬に向かってすっと頭を下げる。その洗練された仕草に、岬は一瞬反応を忘れた。
「村瀬、って......村瀬先生と同じ......」
ぼうっとしていても、そんなところにだけは気になった。
そんな岬の言葉に、ショートカットの女性―― 颯樹は笑顔のまま頷いた。
「村瀬実流とは叔父と姪の関係に当たります」
「そうなんですか、先生の姪ごさん......」
「今日、叔父のもとに急患の知らせが入ったときにたまたま叔父のところに私がいたので、私が代理をすることになったんです」
そう言いながら、肩に下げていた黒い鞄から茶色い封筒を取り出す。
「これが叔父から、栃野さんに渡すように頼まれていたものです」
「あ、ありがとうございます......」
差し出された封筒を両手で受け取る。学校に提出する病院からの診断書だ。
「何かあれば叔父に知らせて欲しいと言ってました。――それじゃ、私はこれで......」
颯樹は事務的にそう告げた。そしてドアへと向かおうとして――、ふっと動きを止める。
一拍置いて、颯樹はゆっくりと振り返った。
「栃野さん」
颯樹の表情から笑顔が消えていて、岬はどきりとする。
何か迫るような気を感じ、岬は声を出すのも忘れて颯樹を見つめた。
「あなた、克也のこと――」
「えっ」
目の前の颯樹が『克也』と呼び捨てにしたことに、岬は驚いて目を瞠った。
そんな岬の表情に、颯樹の表情が一瞬固まる。そして、少し慌てたように、視線を逸らした。
「ああ、ごめんなさい。何でもないんです」
そう微笑む颯樹には、もう先ほどまでの強い気はなかった。
『何?あたしの気のせい?』
狐につままれたような不思議な感覚を覚え、岬は首をひねる。
颯樹はそのまま、一礼して部屋を後にし、見送るために岬も部屋から一歩外に出る。
「ここ、懐かしいな......」
部屋から出た颯樹は、辺りを見回して呟いた。
「以前、ここに来たこともあったんですか?」
岬は聞いた。
その問いに颯樹は少しだけ口元を緩める。
「ええ。何度も。それこそ毎日のように......。泊まったことも......」
そこまで言って、颯樹ははっとしたように片手で口を押さえた。
「そんなに?」
村瀬医師の姪だというこの女性がそんなに頻繁にここにいたということに、驚きを隠せなかった。
「今、も......ですか?」
なんとなく胸騒ぎがして、声が震えた。
「しばらくは来てなくて。だからここに来るのは本当に久しぶり......」
そう言って颯樹は真顔で遠くを見つめるような目をした。まるで過去に思いを馳せるように。
岬が言葉を失っているのに気づき、颯樹は再び笑顔を作る。
「まあ、色々用事もあって。あの頃は若かった、ということかな」
「若かったって......颯樹さん、おいくつなんですか?」
目の前の女性は見たところ十分若い。岬とそんなに変わらないのではないだろうか。
「十九だけど」
颯樹は肩をすくめた。
「十九?じゃあ克也と同じ......って、十九じゃあたしとひとつしか変わらないじゃないですか!そんなこと言う年じゃないですよ」
なんとなく可笑しくて、岬は笑った。
そんな岬に目を細め、颯樹は微笑んだ。
「そう、かもしれない。でももう私にとっては、あるひとつの時代は過ぎてしまったから」
その呟きは、少しだけ寂しげにな響きを持っている気がした。
岬が何となく視線を屋敷の奥へと移したその時、目の中に飛び込んできたのは、利衛子の走ってくる姿だった。
利衛子は岬のそばまで走り寄ると、颯樹と岬の間へと身体を滑らせ、岬を庇うように立ちはだかる。
「颯樹―― だよね? あんた、何しに今更現れたの?」
颯樹を睨みつけ、低い声で唸るように利衛子は問うた。
「そう怒らないでよ、利衛ちゃん」
颯樹は口元に笑みを残したまま、肩をすくめる。
だが、利衛子は冷たく言い放った。
「今すぐ帰って!今度克也や岬ちゃんに手を出したら、あたしが承知しないよ」
触ると切れそうな怒りに、岬は驚いていた。こんな表情をする利衛子を岬は今まで見たことがなかった。
「今日ここに来たのはたまたまなの。まあ―― 克也のお相手を見てみたかったっていう、少々野次馬根性があったのも認める。でも私は、克也にもそのお相手にも、何もするつもりはないから安心して」
そう言って、玄関に向かおうと颯樹が踵を返した、その時――。
「たつ......き......?」
背後から、かすれた声が響く。
振り向くとそこには、立ち尽くす克也の姿があった。
その表情は今まで岬が見たことのない、複雑なものだった。
懐かしい者を見るようで、その瞳には戸惑いの色も浮かんでいた。そしてさらに奥深くに、もっと深い何かがあるようで――。
颯樹も、驚いたようにしばらく目を瞠っていたが、やがて鮮やかに微笑んだ。
「お久しぶり。―― 克也」