心の扉を開く鍵(5)

 次の日から岬の補講が始まった。
 岬にとっては休んでいた一ヶ月の遅れを取り戻すための補講だったが、この授業自体は同じく様々な理由でフォローが必要な生徒の補習も兼ねていた。共に授業を受ける者は岬も入れてだいたい六人。『だいたい』なのは、来たり来なかったり安定しない者もいるからだ。
   
 初日に補講の行われる教室に入った瞬間、岬は言葉を失った。なんと一緒に補講を受けるメンバーの中に、あの吉沢雁乃がいたのだ。おそらく学校側の人間にも術を使って自分の存在を刷り込んだのだろうということは容易に想像できた。  
 幸い初日は恐ろしいくらい何もなかったが、万が一その種の力を使われれば、利衛子では対処のしようがない。そのために次の日から、克也も一緒に補講を受けることとなった。
   
 だが、特に事件らしき事件も起こらずに一週間が過ぎていた。
 注意深く目を光らせていても、雁乃はただ普通に補講を受け、補講メンバーとも打ち解け、『普通の』生活をしているだけだった。
   
  「栃野さーん」
 授業と授業の間の休憩時間に岬のそばに走ってきた雁乃は眉をひそめる岬に話しかけてきた。
 他の生徒たちの手前、そうそう邪険にも扱えず、克也も岬もしぶしぶ雁乃の相手をさせられている。
  「なに?」
 怪訝な顔の岬にも、一瞬剣呑な光を目に宿した克也のことも意にも介さぬようで、雁乃はにこにこと楽しそうだ。
  「さっきのここが分からないんだけど。教えてもらえる?」
 そう言って数学のテキストをずいっと岬の座る机の上に広げる。
   
  「ああ、それは――、ここの二っていう数字を使って―― ......あれ?」
 説明し始め、岬は途中で自分自身もあやふやなことに気づく。
  「どうだっけ?」
 思わず隣の席に座る克也を見上げると、しぶしぶといった様子で克也は口を開いた。
 ちらりと雁乃を見ると、真剣な面持ちでテキストとにらめっこしている。真剣に克也の説明に耳を傾けているようだ。
  『普通に高校生活しちゃってるこんな姿を見ると......とても、何か企んでるようには見えないのになあ』
 ふと、そんなことを考え、はっとする。
  『いやいや、こんな風に考えちゃうっていうことは、既に術中にはまっちゃってるってことかしれない。気をつけなくちゃ』
 岬はひとり、小さく首を振った。
   
  「ありがとうねえ、蒼嗣くん!」
 鼻にかかる甘ったるい声で礼を言う雁乃の真っ直ぐな瞳から克也はふいと目を逸らす。
  『吉沢さんって、たとえ奈津河の一族じゃなくても、克也が苦手なタイプな気がする』
 岬はぼんやりとそう思う。
   
  「あー、たのしいー。高校生活万歳!勉強って面白い!」
 そう言って雁乃は茶髪の巻き毛をくるくると指で弄ぶ。
   
  「変わってるよね、勉強が好きだなんて」
 補講メンバーである女子生徒の一人が言う。
  「そお?私、小さい時から喘息持ちだったせいで学校に行ったり行かなかったりでさ。そのせいで勉強も良くわかんなくなって、そのうち親に学校行かせてもらえなくなったりしたから、こういう普通の高校生活って新鮮なんだよねえ」
  「ええ?何それ?学校に行かせてもらえなかったなんてことあるの?」
  「んー、いわゆる虐待ってやつ?あれは監禁みたいなものだったかもなあ」
  「監禁?誰に?」
 一瞬、雁乃の指が止まった。その一瞬の間に、そこが彼女にとって触れられたくない部分なのだと感じる。
  『それなのに、なぜ、そんなことを自ら進んで話そうとするの?』
 岬には、雁乃の心が分からなかった。
   
  「父親」
 声のトーンはとても低く、ぽつりと雁乃は答える。
  「ひでえ......それ、本当の親?」
 もう一人の男子生徒が問う。
  「わかんない。物心ついたときには一緒にいたから多分そうなんじゃないの。お前は馬鹿だから学校に行っても意味がない、だから俺の言うとおりにしろ、とか言われてね」
 雁乃は消しゴムの角を人差し指でこすりながら、あさっての方を向きながら言った。

  「えー、悪いけどその父親って最低だよね。―― っと、ごめん、吉沢さんのお父さんなのに」
 思わず口を突いてしまった言葉に、先ほどとは違う女子生徒が慌てた。だが、雁乃は薄く笑った。
  「大丈夫だよ。あたしも最低って思うもん」
 それまでの感情を押し殺した言い方とは違い、ここははっきりと雁乃の意思が感じられる言い方をする。
   
  「母親は助けてくれなかったの?」
 最初に質問をした女子生徒に再び問われ、雁乃はふふ、と笑った。
  「―― うん。ウチの母親、父親には逆らえなかったみたいでね。それでも少しは私の親っていう良心のかけらぐらいは残ってたのかもね。罪の意識にさいなまれ続けてとうとう精神病んじゃって。最後には自殺未遂して、今も狂ったまま」
 雁乃の言葉に皆、声を出すことができなかった。
 あまりにも淡々と他人事のように自分の生い立ちを語る雁乃の姿が、逆に痛々しく見えた。
 自分が母親のことを触れられたくないのと同じで、無理にそっけなくしてしまう気持ちが良く分かる。
   
  「もういい」
 おもむろに、克也が口を挟む。
 そのまま窓のむこうの方を向いてしまった克也に、その場にいた者たちは顔を見合わせた。
 雁乃も顔を上げ、克也の方を見つめる。
   
  『言い方はぶっきらぼうだけど......』
 岬には、つらいことをそれ以上話させないように、克也が雁乃を庇ったような気がした。だから――、   
  「これ以上、つらい話はしなくてもいいって、あたしも思うよ」
 そう雁乃に告げる。
  「だよね......。人にはいろんな事情があるっていうのに......あたしらも色々聞いちゃってごめん」
  「俺も。考えなしでごめんな吉沢」
 興味津々で聞いていた補講メンバーも次々に雁乃に謝罪した。
   
 その時、ちょうど次の授業のために教室に教師が入ってきて、その話はそこで中断となった。
       

   ******   ******
   
  「ねえ、お姉さま。私、今日お姉さまの言ったとおりにしたよ。でも―― 私の話をしたことで、何か役に立ったの?」
 その夜、雁乃は大きなクッションを抱え、その上に顎を乗せながらソファに座って正面のテレビ画面を見ていた。対面式のキッチンで炒め物をしていた鷹乃は、火を止めるとゆっくりとソファの方へと歩みを進めた。
 雁乃を愛おしそうに見つめ、その横に座って背中から腕を回して雁乃の肩を撫でる。
  「ごめんね。雁乃につらいこと話させちゃって......。でも、あの男の心に隙を作るには、それが手っ取り早い方法であるはずなの」
  「...... うん、分かった。それが、お姉さまの望みなら―― 大丈夫だよ。だって、鷹乃姉さまは私の恩人だもの」
  「雁乃......」
 鷹乃は眉を寄せた。少しつらそうに瞳を伏せる。
  「父親からの性暴力に満ちたあの地獄の日々から救ってくれたのは―― 姉さまだもの。だから私、姉さまのためなら何でもしようって決めてるんだ。でも......」
 雁乃の言葉が途切れたのに気づき、鷹乃は傍らの雁乃の顔を覗き込んだ。
 雁乃はぼんやりと目の前のテレビを見つめていたが、番組の内容に集中しているわけではないようだった。
 鷹乃の視線に気づいた雁乃は、へへ、と誤魔化すような笑いを浮かべる。
  「何でもないよ。大丈夫」
 笑顔の雁乃を鷹乃はじっと見つめた。
 やがて「そう」とだけ答えると、再び立ち上がり、キッチンへと戻る。
   
 キッチンへと戻った鷹乃は冷蔵庫を開け、先に作っておいたサラダを取り出すと、
  「そろそろ、潮時かもね」
 誰にも聞こえないような声で、小さくぽつりと呟いた。

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