心の扉を開く鍵(6)

 その頃――、いつものようにこの屋敷に住む六人で夕食を終えた後、岬と克也は庭の見渡せる廊下に並んで座っていた。
 長とその恋人の邪魔をする者はこの場にはいない。
   
  「一週間、過ぎたね。補講もあと一週間......無事に過ぎるといいけど」
 吉沢雁乃があの場に来た以上、何らかの目的を持っていることは明らかだ。だが、何事も起こらぬことを岬は願わずにはいられないのだ。
 岬の気持ちが分かっているかのように、克也はわずかに微笑んで岬の頭を自分の胸へと引き寄せた。
   
 克也にもたれかかりながら、岬は口を開く。  
  「今日の吉沢さん――、どう思った?」
  「どう、って?」
  「信用しちゃいけないって分かっているけど......今日の話は、嘘言ってる感じじゃなかった気がする......」
 つぶやくような岬の言葉に、克也は答えない。
 少し心配になった岬が顔を上げると、克也は前方の闇を見つめていた。
   
  「―― ごめん。気を許しちゃ、だめだよね」
  「いや......。岬の言ったことは間違ってない、と思う」
 思いがけない克也の返事に岬は眼を丸くする。
  「―― 以前闘った時、雁乃の過去が少し視えてしまった。その時の映像が、今日の話と所々一致してたよ......」
 克也は視線を動かさずに答えた。
  「そうなんだ......」
 岬は静かにため息をついて再び克也の胸に頭を預けた。
   
 しばらく沈黙が流れる。
   
  「お母さんが自殺未遂、かあ。吉沢さんもつらかったよね」
 岬が小さな声でそうつぶやくと、肩に置かれた克也の手がわずかに震えた。
 はっとして岬は顔を上げる。
  「―― どうか、した?」
 岬のまっすぐな瞳に、克也は少しだけ固い微笑みを返した。
  「いや......」
   
  『克也のこの表情―― 』
 底知れぬ『何か』を思わせる表情に、岬は瞬きを忘れた。
 見つめ返す克也の瞳に吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥る。 
   
  「岬」
 名を呼ぶ克也の表情は真剣だ。
  「な、に?」
 岬の返事は掠れた。
 それに続いて克也が口元を動かしかけた時―― 少し離れたところから克也を呼ぶ声が聞こえる。克也宛に電話がかかってきたらしい。
   
  「ごめん、また今度......」
 すまなそうな克也に、岬は少々気になるものの笑って首を振った。
   
  『な、何だったんだろう、今の』
 神妙な克也の表情が頭から離れず、心臓の鼓動がやけに頭に響く。
 何か、とても大切なことを言おうとしてくれていたように思えてならなかった。
         
   
   ******   ******
   
   
 休みを挟んで月曜日から再び補講が始まり、木曜日、ついに補講は最終日を迎えた。今日受けたテストで合格がもらえれば、岬にとって一か月分の遅れがようやく取り戻せることになる。
   
 全ての教科のテストが終わった午後三時――
   
  「はあー、終わったっ」
 岬は思わず机に突っ伏した。
 一気に全教科のテストをこなすのはかなり大変だったが、とにかく終わったのだ。
 他のメンバーも思い思いに休んでいる。
   
  「お疲れ」
 隣の席に座る克也が微笑んだ。
  「克也は先生のお手伝いだったから、高みの見物してたんだよねー」
  「俺はその前に期末受けてるからいいの」
 うらめしそうな岬の言葉に、克也は笑いながら肩をすくめる。
  「そりゃあ、そうだけどね」
 ふう、と息を吐く。
 笑っていた克也が急に少しだけ顔をしかめ、岬は驚く。
  「どうしたの?」
 体勢はそのままに目線だけで克也を見上げた。
  「いや、何でもない」
 そう言う克也の表情にはもう苦痛は見えない。
  「ほんと?それなら、いいけど......」
 まだ心配そうに問う岬に向かってふわりと微笑むと、克也は小さく息を吐いて瞳を閉じる。
 その横顔は少しやつれて見えた。
   
  『克也、少し疲れてるんだよね......。無理もないよ。この補講の間中、ずっと気を張りっぱなしだったんだもんね......。本家での暮らしにまだ慣れてないって言ってたのに......あたしのために毎日補講にもつきあってくれて......』
 申し訳なさが大きくのしかかる。
  『克也はいつもあたしのことで苦労をかけてばかり......。どうしていつもこうなっちゃうんだろう。それでなくても克也の肩には長という重い責任がかかってるのに、さらにあたしのことで心労が絶えなくて。あたしは――、克也の重荷になりたくないって思っているのに、結果的にはいつも迷惑かけてばかり......』
   
 そんなことを考えていると、椅子にもたれた克也から規則正しい息が聞こえてくる。
   
  『もしかして、寝ちゃってる?』
 じっと克也の顔を見ると目は閉じられたままだ。
 やはり少し眠っているようだった。
   
 岬は頬杖をついてその端正な横顔を眺める。
   
  ―― その時。
   
 岬が感じたのは一瞬、自分を襲った鋭い風。その風と共に何かが首もとではじけた。
  「......っ!」
 叫び声もあげられなかった。
 耳元で、さあっ!という波のような音がするのを岬は聞いた。
   
 反射的に閉じていた瞳をはっと開くと、周りの風景が変化していた。
   
  「な、に?」
 あたりは真っ白な空間に変化していた。岬は驚愕に目を瞠る。
  「これ......、結界......?」
 この空間が歪んだものであることは自分にも感じられた。
 岬の独白にかぶさるように聞いたことのない声が頭上から降ってくる。
   
  「思ったより冷静ね」
 少しハスキーな高い声。
 声のしたほうを見上げると、ひとりの女性が岬を見下ろしていた。その服装に、岬は心臓が止まりそうになる。体の芯が急激に凍っていくような気がする。
   
  「初めまして、忌まわしき宝刀の力の持ち主さん」
 その女性は白衣を着て、鮮やかに微笑んでいた。
 紅をひいた唇の赤さが目の前でちらつき、岬は軽い眩暈を感じる。
  「驚きに声も出ないって感じかしら。―― まあ、無理もないわね。この白衣を見ればね......」
 そう言って喉の奥で笑う。
  「正確には、あなたに会うのは初めてじゃない。私、何もできない『お人形さん』のあなたをそれはそれは丁寧にお世話してあげたのよ?」
  「どういう、こと?」
 岬はようやく声をしぼりだすことに成功した。
 膝はがくがくしているけれど、きっ、と上を見据える。
   
 そんな岬を、何に乗っているのか上から見下ろしたまま、女性は肩を揺らした。
  「正気ならそんな目もできるのね。あの時は何を言っても何をされても、ぼーっと無反応だったのに」
   
 その言葉に、岬はようやく分かったような気がした。
 自分がそんな状態だったとしたら、『その時』しか考えられない。
  「あたしが......、Paradiseという薬で訳分からない状態にされたときのことを―― 言ってる、んですか?」
  「―― あの薬を使われて正気に戻れたなんて驚きよ。いっそお人形さんのままでいてくれれば、これから起こる苦しみを経験しなくてすんだのに」
 女性は、岬の問いに直接は是とは言わなかったが、その言葉は暗に肯定を意味していた。
   
 岬の膝は悔しいくらいに震えていた。
 思わず胸元に手をやるが、いつも自分を守ってくれていたネックレスがなくなっていることに気づき、さらに愕然とした。
  
  「どうして?」
 そう口にして、はっとする
  『まさかあの時―― 』
 先ほど、首もとであった何かがはじける感覚――、
  『あれは、克也の力がこめられたネックレスが壊された衝撃だったってこと!?』
   
 足元がぐらりと揺れる気がした。
  「あ......」
   
  「あなたの騎士(ナイト)とつながっていたネックレスは壊しておいたの。あんなものがあっちゃ、邪魔だから」
 そう笑みを浮かべる女性の姿がゆらりと歪んだ気がした。
   
  『いけない......!』
 正気を保とうとするが、強い力に押されるように、意識が薄れそうになる。
   
  「......っ、か......克也......っ!」
 意識を飛ばそうとする圧力に抗いながら、岬は力の限り叫んだ。

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