心の扉を開く鍵(7)

 岬の叫びに応えたように、結界の一部が破れ、克也が飛び込んできた。
 克也の力が打ち込まれたことによる結界の歪みは瞬時に閉じられたが、異物としてはじき出されそうになる力に抗い、克也はそのままその場にとどまっていた。
   
 「岬っ!」
 克也の姿が視界の端に見えるが、岬のその視覚は一瞬にして遮断される。
   
 代わりに目の前に現れた者――

  「あ、あああっ」
 岬は、おぞましい感覚に思わず叫んだ。
 頭の隅でこれは現実ではないと分かるのに、それでも体中の震えが止まらない。
   
  『ありえない。―― だって、彼は、死んだ、はず......』
   
 だが、目の前に薄笑いを浮かべるのは、中條幸一その人以外の何者でもない。
 そして、その横にすっ、と別の影が並ぶ。その影ははじめはゆらりとした物体でしかなかったが、やがて白衣をまとった医師となった。その顔は不気味に笑っている。
 逃げたいのに、体が動かない。
 やがて、白衣の医師は一人から二人、二人から三人...どんどん分裂し、岬はまわりを取り囲まれる。分裂した全ての者が、岬を見てにやにやと笑いながら、じりじりと間合いをつめてくる。
   
  『やめてっ!いやあっ!』
 叫ぶ声も音にならず。叫びたいのに叫べないもどかしさ。
   
  『きゃあああ』
 やがて岬は大勢の白衣の男に体を押さえ込まれる。ある者は手首を、ある者はその腕を、足を―― 体の全てを拘束しようと次々に岬に襲い掛かる。
   
 男の強い力で掴まれ引っ張られ、体中に激痛が走る。その痛みに悲鳴を上げるが、叫びが声にならない。
 岬はまるでピンで張り付けられた標本のように指先ひとつ動かせず、恐怖と痛みに震えるしかなかった。
      
  「もう 逃しはしないよ」
 顎を正面から押さえつける男が迫り、岬に告げる。その顔はいつしか中條幸一へと変わっていた。その指には、男の持った注射針がきらりと光る。
   
 迫り来る恐怖に、岬は声にならない叫びを上げた。
       
   
   ******   ******
   
   
 見えない何かに対して叫び続ける岬。
 克也は名を呼び続けたが、状態が酷くなるばかりの岬の様子に、克也はきっ、と上を睨んだ。そこには、冷ややかに見下ろし続ける吉沢鷹乃がいる。
   
  「やめろっ!幸一を殺したのはこの俺だ!お前の狙うのはこの俺だろう?それならこんな小細工をしないではじめから俺を狙えばいいだろう?!」
 克也の叫びに、鷹乃は僅かに口の端を上げた。
  「ええ―― そうです。最終的な目的は竜の長、蒼嗣克也、あなたです。分かっていたようですね」
 睨んだままの克也を見下ろし、鷹乃はゆっくりと腕を組んだ。
  「もちろん、あなたには最も苦しんでもらいます。けれど、残念ながら正攻法であなたに挑んだのでは勝ち目がない......」
 悔しそうに眉を寄せ、鷹乃は一度瞳を閉じ、少しの間をおいて再びゆるりと目を上げる。その瞳には愉悦の感情が浮かんでいた。
  「けれど、私は知っている。あなたを苦しめるのに最も効果的なのはどんな方法なのかということが」
   
 鷹乃の言葉に、克也は片眉をぴくりと震わせた。
   
  「竜の長、あなたにとって最大の弱点はその娘。それが分かっているからこそ、最初のターゲットをその娘に絞っていた。雁乃を通してその娘の精神への介入を何度も試み、それを阻止しようとするあなたにも少しずつ負荷をかけていった」
  「だから、小刻みな攻撃を断続的に岬に対して与え続けていたということか......」
 克也はぎり、と奥歯を噛み締めた。
 岬にはあえて知らせていなかったが、終業式以来、隙あらば岬の精神にもぐりこもうとする動きが昼夜問わず続いていた。決して強くはないが、休む間をほとんど与えない術。その術から岬を護る自分が休めるのは、水皇をはじめとした竜の一族によるシールドの張られた久遠の屋敷に岬がいる時だけ。岬が雁乃に対して心を近づければ近づけるほど術の力は強まり、護る方の負担は増していた。
 先ほど、岬のテストが終了した瞬間、絶え間ない攻撃が少しだけ止んだ。ホッとしたそのほんの僅かな『間』が、鷹乃に付け込む隙を与えてしまった。
   
  「岬、俺が助けるから待ってろ......!」
 そう言って瞳を閉じ、岬の精神へとゆっくりと自分の精神を滑りこませてみる。
 岬が『視て』いるものを遮断しようとするが、岬の心と既に複雑に絡み合い、下手をすると岬の精神まで壊してしまいそうだ。
 克也は舌打ちした。
   
  「小ざかしいまねをしても無駄です。私がその娘にかけた術は、その人の心の最も深いところにある癒えていない傷をもう一度引っ張り出し、その心の闇を増幅させる『闇獏(やみばく)』を精神に棲まわせる術。すでにその娘の精神に複雑に入り込んだ『闇獏』は、さすがのあなたにも容易には取り出せないはず」
 狡猾な笑みを浮かべる鷹乃。
   
 克也は拳を握り締めると、次の瞬間、手のひらから出現させた光の刃を放った。その刃は鷹乃の頬に一筋の傷をつけ、結界の中に吸い込まれる。
  「......っ」
 鷹乃は一瞬怯んだような表情を見せたものの、ふ、と笑って頬からあふれる血を手の甲でぬぐった。
  「私を殺したい?竜の長。でも、『闇獏』は生き物だから、既に私の手を離れても生きていける。私を殺してもその術は解けない。むしろ私を殺すことで永遠に止めることはできなくなる。そのうちにその娘は『闇獏』が増幅させた自らの心の傷により、狂い死ぬ」
  「おまえっ......!」
 足元に風を起こし、一瞬にして鷹乃のいる高さまで跳躍した克也は、鷹乃の腕をつかむと一気にその高さから引き摺り下ろした。
  「くっ......!」
 一瞬の隙を突かれた鷹乃はバランスを崩し、結界内の地面にたたきつけられ、うずくまって呻いた。落ちた拍子に唇を切り、口の端からも血があふれ出す。

 形勢逆転、克也は光の長剣を鷹乃の喉元に突きつけて、冷ややかに見下ろした。
  「本当ならこのまま主人の元に送り届けてやりたいところだ。だが、お前にはなんとしても岬を救ってもらわなければならない」
  「すでに『闇獏』は私の手を離れていると言ったのに?」
  「お前はこうも言った。『むしろ私を殺すことで永遠に止めることはできなくなる』と。―― ということは、お前を生かしておけば止められる可能性はゼロではないということだ」
 克也の言葉に、血に濡れた口の端を歪めると、鷹乃は高笑いした。
  「なるほど、そこを聞き漏らさなかったというわけですね。頭に血が上ってそんなことまで考えられないはずだと、少々あなたを見くびっていました」
 限りなく無表情に近い克也の表情は動かない。鷹乃は言葉を続けた。   
  「あなたのその賢明な判断に敬意を表して......ひとつだけいいことを教えてあげますね。―― 彼女を助ける方法が一つだけあります」
 その言葉に克也の瞳が動いた。
  「その方法とは?」
 動かしたのは瞳だけで、冷静に克也は問うた。
   
 一度、深く息を吐いた後、鷹乃は口を開いた。
   
  「貴方が、彼女の身代わりになることです。身代わりになって『闇獏』の餌食になるんです。代わりの魅力的な餌食が見つかれば、『闇獏』はそれ以上彼女を襲うことはしない。『闇獏』はより強い心の闇を好むものだから。あなたの心の闇はかなり深そうだから、格好の餌食になれると思いますよ。『闇獏』は自らを作り出した術者である私を襲うことはないから、この結界内で彼女の代わりになれるのは貴方だけ。――どうです?もちろん愛しい彼女のためになら自らをも犠牲にできるでしょう?それとも無理?やはりあなたであっても自分が一番かわいいものでしょうか......」
 心底可笑しそうに、鷹乃は笑った。
   
  「―― どうすればいい?」
 間髪をいれずにそう言った克也に鷹乃は肩をすくめた。だが、そう答えるのが分かっていたかのように、驚きは見せなかった。
   
  「期待を裏切らない答えをありがとう。―― 簡単なこと。今、私が命じれば全てがあなたの望みのままに」
 鷹乃は自らの胸の前で手を軽く合わせ、そして叫んだ。
   
  「闇に巣食う『獏』よ!作り手である吉沢鷹乃が命じる!今の贄(にえ)である栃野岬より離れ、すぐそばにいる蒼嗣克也に移りなさい!」
 まっすぐに合わせた手のひらから発せられる鮮烈な光を岬に向かって伸ばし、照らす。そこから、気持ちよく闇を貪っていたであろう闇獏の反発が、火花となって克也にも伝わってくる。
   
  ――『闇獏』よ!お前の餌はこっちだ! ――
   
 克也は岬の精神に巣食う闇獏に自分の力の断片を当てて刺激し、自分の存在を示した。瞬間、
   
  『フカイ ヤミ アッタ』
   
 闇獏の低く不気味な歓喜の声がその場に響く。
 闇獏が体から出たのか、叫び続けていた岬がふっと動きを止めた。そして、岬の双眸に正気の色が灯りはじめるのを見て、克也は満足げに微笑む。
   
 次の瞬間、一気に風圧で地面に押さえ込まれるような衝撃が克也の身を襲った。
   
  『岬―― ごめん』
 そう口にしたはずの自分の言葉は実際に発することができたのか分からない。そのまま、克也は深い闇に沈んだ。

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