心の扉を開く鍵(8)

  『ごめん』
 そう言う克也の声を聞いたと思った瞬間、一気に視界がクリアになった。自分を恐怖させるものが突然消えてはっきりとした視界に、岬は二度瞬きをした。
 一面の白―― 。それが結界内の風景だと認識するのに少々時間がかかった。
 そして、傍らに倒れる克也を見て、愕然とする。
  「克也!克也、しっかりして!どうして!?」
 その場にしゃがみこみ、うつぶせに倒れる克也の肩を揺らして叫ぶが、反応がない。
   
  「その男の心の闇は深そうだから、精神の深いところまでの衝撃を受けて気を保てなくなったんだろうね。しばらくこのままか、あるいは『闇獏』に食らい尽くされてこのまま戻ってこられないか......」
 背後から聞こえた聞き覚えのあるその声に、岬は勢いよく振り返った。
 そこには、先ほど自分の前に現れた白衣の女性が、少し離れたところから、腕組をしてこちらを見下ろしている。
   
  「あなた......誰? 克也に何をしたの!?」
 克也のことが心配で、この女性の纏う白衣に今は恐怖は感じなかった。
 岬の勢いにも怯むことなく、女性は、ふふんとぞんざいに鼻を鳴らした。
  「ああ、まだあなたには名乗っていなかったかしら。私は、吉沢鷹乃。そしてもうひとつの質問の答えだけど―― 」
 そこで一旦言葉を切った女性に、ただならぬものを感じて岬は思わずごくりと唾を飲み込んだ。
   
  「竜の長にはその心の闇を食らい、闇を増殖させる『闇獏』の餌食になってもらっているの。あなたの代わりにね」
  「え...っ」
 冷水を浴びせられたような衝撃が体中を駆け抜ける。
  「あたしの......代わり......?」
 呆然と呟く岬に、鷹乃はくっくっと喉の奥にこもった笑いを落とす。
  「そう、代わり。―― あなたには先ほどその恐怖の一部を味わってもらったから、実感として分かるでしょう? 闇獏の餌食になるとね、まだ癒えずに残っている深いところに存在する、その人の心の傷が引っ張り出されるの。そして、その人はその闇が生み出される経緯を再び味わうこととなる。それも、恐怖や怒りなどのマイナスの感情が増殖された状態でね。そのために、その心の闇は実際の体験よりも強くよみがえる。増殖したマイナスの感情に苛まれ続け、弱った心はやがて狂気を生み―― 最終的にはその狂気に呑まれて死ぬ」
   
  「死......」
 衝撃的な言葉に、足元が崩れていく気がする。
   
  「どれだけマイナスの感情が増殖されるかは、その人の心がどれだけその感情に今も自分が影響されているかに左右される。蒼嗣克也は全てを昇華させることができないほどの闇を抱えているようね。けれど、彼はあなたが苦しむのを見るより自分が苦しむ方を選んだ。自分に深い闇があることを承知で。そんな状態で闇獏を受け入れる危険性が分からないはずはないのに――。よほどあなたのことが大切なのね。愛されて幸せね。どう?嬉しいでしょう?」
 岬が喜ばないことが分かっていて、鷹乃はあえて皮肉として言うのだ。
   
  「―― っ、嬉しいなんて―― そんなこと、思うわけないでしょ!なんで......、なんでこんな酷いことするの!?」
 岬は鷹乃を睨みつけ、叫ぶ。その瞬間、涙がぶわりと噴きだした。自分のせいで克也がこんなことになってしまって悲しいのか、こんなことになっても自分には何もできないことが悔しいのか分からない。敵を前に泣きたくなどないのに、一度あふれてしまった涙は、もう止めることができず、岬は唇をかみ締める。
   
 鷹乃は笑みを消し、岬を冷ややかに見つめた。  
  「なぜ?そんなこと、決まってるでしょう。あなたたちが幸一様を殺してしまったからです。中でも直接手にかけた蒼嗣克也は一番憎い」
 鷹乃の口調が、これまで岬に対して使っていたものとは変わっていた。
 おどけるような余裕がなくなり、怒りの感情が露になる。
   
  「それは......っ!あの人―― 中條幸一が、あたしにあんな酷いことを、したから!あんなことしなければっ、克也はあの人の命まで奪ったりしなかった!」
 しゃくりあげながら叫ぶことになってしまったが、今はそんなこと気にしていられない。
   
  「竜の長は我ら奈津河一族のものである宝刀の力を奪った。その制裁を受けるのは当然のこと。ということは、ある意味あなたのせいでもありますよねえ」
 そう告げる鷹乃の言葉と冷ややかな瞳が、岬の心を抉る。
   
 岬はぎゅっと瞳を閉じた。   
  「そうだよ!あたしのせい!あたしのせいで克也は......また手を汚さなきゃいけなくなって――、そしてまた今も......っ! 」
 言いながら、視界が涙で歪むのが分かる。
  『どうしてよ!どうしてあたしはいつも......!』
 悔しすぎて体が震える。

  「栃野岬、あなたの身代わりになって、竜の長は狂い死ぬ。美しく愚かな愛情じゃあないですか!あははは!」
 鷹乃は天を仰いで笑った。
   
  「――っ、やめて!こんなことやめて!お願いだから、克也だけは助けて!あたしはっ、どうなってもいいからっ......!」
 動かぬ克也の体を抱き寄せながら力の限り叫ぶ岬に、立ったままの鷹乃は笑いを止めた。
  「無理ですよ。私の本当の狙いは、化け物じみた力を持つだけで何もできないあなたではなく、幸一様の直接の敵、そして、過ぎたる力を手にした諸悪の根源である蒼嗣克也の命を奪うこと。それも最悪の形でね。本当の目的が達せられそうな今、状況を変える馬鹿はいません」
 岬は言葉を失う。
     
  「幸一様を殺した憎い敵、蒼嗣克也―― ただ殺したりはしない。そんな一瞬の苦しみで終わらせたりはしない。忌まわしい過去に苦しんで苦しみぬき、絶望の果てにその男が狂気に包まれたとき―― その時に私が殺してあげます。宝刀の力で苦しんでいる幸一様に、蒼嗣克也が手を下したように」
 鷹乃はふわりと冷酷に微笑んだ。
  
  「そして―― 忌まわしい宝刀の力の主、栃野岬。あなたも、愛しい者の苦しむ姿を前に、絶望して、朽ち果てるといい」
 可笑しくて仕方がないというように、鷹乃は顔を歪め、肩を揺らして嗤った。そしてきびすを返してどこかへと歩き出す。
   
  「待って!あっ......」    
 岬の叫びもむなしく、鷹乃の姿が白い霧に包まれて消える。
 結界が解けたのか、すうっ、と辺りが拓けると、見覚えのある風景が広がった。
   
  『学校......』
 岬は、ここは自分たちの通う、桜ヶ丘高校だとすぐに認識した。
 ただし、岬たちがもといたはずの教室ではなく、体育館の裏の背の高い雑草が生い茂る一角だ。
   
  「克也、克也っ!しっかりして!」
 必死で傍らに倒れる克也の肩を揺らし、呼びかける。
 夏休み中で通る人は少ないとはいえ、ここは学校だ。克也が倒れていては騒ぎになってしまう。
 だが、克也はなかなか反応を示さない。
  「ど、どうしよう」
 焦り始めたその時――、急に克也がみじろぎをした。   
  「え......っ」
 岬が驚きの声をあげた瞬間、ゆっくりと克也の双眸が開かれる。
   
  「だ、大丈夫!?」
 半身を起こした状態の克也の両腕を思わずつかむと、克也がぱっと岬の手を振りほどいて後ずさりした。
 岬を見る克也の瞳には明らかに、驚きと戸惑い、そして恐怖のようなものも宿っているように見えた。そんな克也が発した一言――、
   
  「―― 誰?」
   
 その言葉に、岬は息が止まるかと思った。
 何か言わなければと思うのに、次の言葉が出てこない。
 
  「あなたは、誰?」
 岬が答えないのを不思議に思ったのか、克也は再び聞いた。
   
  「あたしが―― 分からないの?」
 じいんと頭の奥が凍っていくような衝撃を感じる。
   
 岬の問いに克也は答えないが、戸惑いに満ちたその瞳に、それが当たっていることを示していた。
   
  『どういう、こと?克也が、あたしのこと―― 忘れるなんて』
 膝ががくがくしてくるのを懸命に堪える。
   
  「かつ、や?冗談でしょ......?」
 やっとのことでかすれた声でそう言うと、目の前の克也は目を丸くした。
   
  「『お姉さん』、僕のこと知ってるの?なんで?」
   
 その言葉に岬は非常に違和感を感じた。それは自分のことを忘れているということだけじゃなく、その語り口がやけに幼いことにあった。姿はいつもの克也のままなのに、その口から発せられる言葉や態度がまるで――、
   
 『まるで姿はそのまま心だけ子供に戻ってしまったみたい......』
   
 何気なく思ったことだったが、まさに今の状況を説明するのにぴったりな言葉だ。
  『さっき、吉沢鷹乃は何て言ってた?』
 混乱する頭で必死に記憶を探る。
   
 ―― その人の心の一番奥底にある、心の闇が生まれる過程をもう一度体験する ―― と言っていなかっただろうか。
   
  『まさか......、心が、その体験をした時点にまで戻るってこと......?』
 ひとつの仮説にたどり着く。
   
  「お姉さん、静枝母さんの知り合いとか?......でも、母さんよりうんと若そうだし......、もしかしてりえのお友達のお姉ちゃん?」
 やはり幼い口調で克也が問う。
  『りえ、って......』
 岬ははっとした。
  『りえ、ってもしかして利衛さんのこと?』
 制服のスカートのポケットを探り、携帯電話を取り出す。そして利衛子の名前が画面に表示されるのを確認し、通話ボタンを押した。
   
  「利衛さんっ!助けて!」
 岬は携帯を握り締めて叫んだ。

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